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●永井荷風の市川を歩く -5-
    初版2009年5月23日  <V01L02>

 今回は「永井荷風の戦後を歩く」の第六回です。前回は荷風が最後に住んだ市川市八幡の町を歩きました。今週は中山の法華経寺と、荷風が市川で通ったお医者様を歩いてみました。


「法華経寺 赤門」
<法華経寺>
 京成中山駅を降りると駅前が参道で、まさに市川市中山は法華経寺の門前町として発展した町のようです。法華経寺は日蓮宗の名刹として有名で、鎌倉時代後期に日蓮の弟子日常が創建した法華寺と、日高の創建した本妙寺が室町時代中期に一緒になり、法華経寺となっています。今週も高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」と「断腸亭日乗」を参考にします。まず断腸亭日乗の昭和22年11月からです。
「…十一月十六日。日曜日。晴。正午小瀧氏来話。心づくし及細雪批評の草稿を交附す。共に中山法華経寺御会式の景況を見る。
十一月十七日。陰。風なし。午後中山散歩。法華経寺境内今日も御会式にて雑沓す。軽業手踊を見る。木戸銭大人弐拾円子供拾円。大入の景気なり。四時過曇りし日早くも薄暗し。帰らむとする時火消の講中三四組各金箔の纏を打振り来るに遇ふ。物売る露店の娘の見て笑ふもあり。混沌たる今日の世態之を見て亦その一斑を知る可し。夜屡停電す。…」

 現在の場所は本妙寺のあった所で、法華寺は奥の院となっています。祖師堂、法華堂、四足門、五重塔は重要文化財です。聖教殿には、日蓮の自筆で国宝の「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」が所蔵されています。また鬼子母神への信仰も厚く、子育安産の祈祷のための参詣の人も多く訪れるようです。上記に書かれている御会式は秋に開催されるため、未撮影です。昔、撮影した池上本門寺の御会式の写真がありましたので掲載しておきます。

写真は法華経寺の赤門です。もう少し手前の京成中山駅の側に黒門があります。参道は一様車が通れますが狭くてすれ違うのが大変です。中山競馬が開催されている時は通行止めになるようです。又ここは桜の名所としても知られています。

「絵馬堂」
<絵馬堂>
  荷風はこの法華経寺を度々訪れています。この付近では圧倒的に大きな寺だったとおもいます。「断腸亭日乗」の昭和21年10月を参照します。
「十月卅一日、陰、正午歩みて中山に至る、法華経寺の境内鬼子母神祠前の絵馬堂を見るに一孟斎芳虎の描ける烏帽子武者人物あり、又油絵の西洋風景画あり、色彩剥落し画布半破れたれど珍らしければ奉納者の名を見るに、千葉県下長柄郡□□□□大字五井、片岡□口、米国サンフランシスコ在留せんまつとあり、いかなる女にや、…」
  絵馬堂の中の絵ですが、上記に書かれている絵については、確認できませんでした。”烏帽子武者人物”の絵はあるのですが一孟斎芳虎作かは分かりませんでした。

写真は法華経寺の絵馬堂です。当時と同じ絵馬堂かどうかは分かりませんでした。上記に”鬼子母神祠前の絵馬堂”と書かれていますが、現在は絵馬堂の前に鬼子母神祠はありません。鬼子母神堂は200m程離れた北側にあります。現在は祖師堂の前に絵馬堂があります。


永井荷風の市川地図 -4-


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける。
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに転居
5月25日 駒場の宅孝二に身を寄せる
6月2日 明石に疎開
6月11日 岡山へ疎開、岡山市内で空襲を受け転居
8月13日 勝山の谷崎潤一郎を訪ねる
8月30日 東京に向かう
9月1日 熱海和田浜南区1374番地 木戸正方に移る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 67 1月16日 市川市菅野258番地に転居
7月25日 ラジオの音が気になり始める
8月28日 相磯凌霜の別邸を訪ねる
11月21月 吉原歯科に通院
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
68 1月6日 小西宅に転居
1月31日 吉田病院に通院
1月16日 「襖の下張」の件で市川警察署を訪ねる
6月29日 五叟に預けた図書が盗難
10月19日 近隣の神社祭礼を訪ねる
昭和23年 1948 太宰治自殺 69 5月7日 「四畳半襖の下張り」で警視庁より出頭要請
12月28日 菅野1124に中古住宅を購入し転居
昭和27年 1952 白鳥事件
三原山にもく星号墜落
73 11月3日 文化勲章を受賞
昭和30年 1955 自由民主党結成 76 12月20日 関根歌が来訪
昭和31年 1956 日ソ国交回復 77 12月3日 八幡町4-1228の土地四十坪を購入
昭和32年 1957 天城山心中 78 3月27日 八幡町4-1228の新築家屋に転居
昭和33年 1958 即席チキンラーメン発売 79 8月11日 並木歯科に通院



「吉田医院跡」
<吉田医院>
 永井荷風は良く医者に罹っています。昔から体が弱かったようです。「断腸亭日乗」の昭和22年1月からです。
「…一月卅一日。暁明下痢三四回。晴れて暖なれば朝九時過吉田病院に至り薬を求めてかへる。本年は元日早々腹痛下痢に苦しみたり。わが身に取りて吉き年にては非らさるが如し。さりとて浅草の御堂も焼けてなければ御我引きて吉凶を占ふべき処もなし。明日の全国同盟罷業は夜半に至り米軍司令部の禁止する処となりしと云。…」
 戦前は知り合いの中州病院に通っていたようですが、戦後市川に転居して通った内科のお医者さんはここだけのようです。

写真は京成市川真間駅近くの吉田医院跡です。現在は歯医者さんになっています。真間の吉田医院については、有名な胃腸病院だったそうで、三カ所に分かれていました。写真の吉田病院跡、この並びの駅に近いところに分室、千葉街道沿いでした。診療内容によって分かれていたのだとおもいます。荷風が何処の場所に通っていたかは分かりません。吉田医院は後に葛飾区に移られています。

「吉原歯科跡」
<吉原歯科>
 荷風が市川で長く罹った歯医者さんです。京成菅野駅南側直ぐにありますので通うのに便利だったのだとおもいます。「断腸亭日乗」の昭和21年11月、昭和22年10月、昭和27年8月からです。
「十一月廿一日、半陰半晴、午後海神にて小幕羊糞脱稿、帰途菅野の歯科医吉原氏を訪ひ病歯を抜く、外出中扶桑子来訪、夜七時過扶桑子再び来り新生社拙著腕くらべ印税金到底支払出来まじき由を告ぐ、
十月念四。晴。午前近巷の歯科医吉原氏を訪ひ治を請ふ。午後海神。帰途中山の露店にて足袋を買ふ。代価百八拾円。
八月廿二日。晴。午後菅野歯科医。夜銀座。フジアイスに許す。…」

 昭和21年11月から昭和27年10月まで通っていますので、6年間になります。年をとると齒はなかなか良くなりませんね。

写真は京成菅野駅南側直ぐの吉原歯科跡です。現在は廃院されたようです。建物はそのままで、看板も歯科と書かれたものが残っていました。

「並木歯科」
<並木歯科>
 荷風が最後に通った歯医者さんです。吉原歯科から並木歯科に何故変わったか、並木歯科は荷風が最後に住んだ八幡の家の傍だったからでしょうか。歯医者は普通はなかなか替えないですよね。「断腸亭日乗」の昭和33年8月、34年2月からです。
「八月十一日。晴。近隣並木歯科医を訪ふ。正午浅草。
二月九日。陰。正午浅草。帰宅後近隣歯科医並木氏を訪ひ治を請ふ。夜初更頃より雨声清々…」

 高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」によると、並木歯科は八幡3−25で、荷風の自宅の直ぐ傍になります。

写真が現在の並木歯科です。荷風の自宅から20〜30m位しか離れていません。手前の道が大黒屋さんからの道で、右に曲がって直ぐに細い路地を左に曲がると、荷風の自宅となります。

次回は、船橋付近を歩いてみます。


永井荷風の市川地図 -1-



永井荷風の市川地図 -3-



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