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●永井荷風の市川を歩く -4-
    初版2009年4月25日  <V01L01>

 今回は「永井荷風の戦後を歩く」の第五回です。前回は戦後の市川で、真間川の桜を見ながら、手児奈堂、亀井院、弘法寺、少し離れて下総国分寺跡を歩いてみました。今週は荷風が最後に住んだ市川市八幡の町を歩いてみます。


「菅野1124番地」
<千葉県市川市菅野1124番地>
 荷風は五叟宅のラジオの音などに耐えきれず昭和22年1月すぐ近くの小西宅に引っ越します。しかしこの小西宅でも小西氏と旨くやっていけなくなります。やむを得ず昭和23年12月、菅野の中古住宅を購入し、一人住まいを始めます。今週も高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」と「断腸亭日乗」を参考にします。まず断腸亭日乗の昭和23年12月からです。
「…十二月十三日。快晴。温暖春の如し。午後小林氏と共に八幡の登記所に至り売主代理人と会見し家産の登記をなす。……。然るに余が年末に至り突然家主より追立てられ途法に暮れをるを見て気の毒に思ひその老母と共に周旋すること頗懇切なり。今の世にも親切かくの如き人あるは意想外といふべし。小林氏の老母はなほ心あたりをさがして女中になるぺきものを求めて後引越の世話をすぺしと言ふ。
菅野一,一二四番地平家建瓦葺家屋十八坪金参拾弐万円。登記印紙代二千四百円。登記証記載金高五万円。…」

 市川市菅野1124番地は小西宅からは約900m、最寄り駅になる京成八幡駅からも900m強ありました。少し遠いです。駅まで歩くと、10分から15分位掛かります。

写真は現在の菅野二丁目9番地付近です。この先の左側になります(直接の写真は控えさせて頂きました)。当時の住宅地図に名前が掲載されていますので間違いないとおもわれます。建物も何回か建て直されており、昔の面影はありません。道の幅だけが昔のままとおもいます。

「もう一度逢いたい」
<洗面器と永井荷風の女:森繁久弥「もう一度逢いたい」より>
 以前から掲載していた「永井荷風の戦後を歩く」の中にも書いていましたが、おもしろいので再度掲載します。森繁久彌自身が逢った方々について書き留めた本です。なかなかおもしろく一読の価値があります。
「…それは見すぼらしい、三間もあろうか、ホツンと畑の中に立っている安物の家だ。二百メートルはど離れて、私は車のそばで、何をすることもなく、煙草ばかり吸って、時々チラチラと見ていた。……「ハハーン、巨匠はあそこを……なんだナ」(ここはとてもそのままでは書けません)……この女性は今は新宿のムーランの女だ。…」
 と、”私”とは当然森繁久弥です。今回の掲載で、そのまま引用しようとおもったのですが、やっぱり、書けないことが多すぎます(本では書いていいんですね)。是非とも本を買って読んで下さい、とても面白いですよ!洗面器を何に使うのかが!

写真は朝日文庫版の「もう一度逢いたい」です。本人が書いたかどうかはしりませんが、文章がおもしろく、読ませる本です。現在は絶版ですので、古本で購入ください(「Amazonの古本」か「日本の古本屋」です)。

「八幡町4-1228番地」
<千葉県市川市八幡町4-1228番地>
  荷風最後の転居が昭和32年3月です。転居先は京成八幡駅の直ぐ傍になる市川市八幡町4丁目1228番地です。77歳になって、駅から遠い菅野1124番地では大変だったのでしょう。買い物も一苦労だったとおもいます。「断腸亭日乗」の昭和31年11月、昭和32年3月を参照します。
「十一月三十日。晴。午後浅草。帰途菅野駅附近に住める周施業小林を訪ひ土地家屋の事を間ふ。結局土地を買ひ住宅を新築する事に決す。場所は京成八幡の駅に近き処四十坪はどなり。明後日売主と会見して取引をなすと云ふ。
三月廿七日。晴。午前十時凌霜子小山氏来る。小林来る。十一時過荷物自働車来り荷物を載せ八幡町新宅に至る。凌霜子、小山氏の二人と共に新宅に至り、それより小林の三人にて運転の荷物を整理するに二時間程にて家内忽ち整理す。二氏午後三時頃去る。余一人粥を煮て食事をなす。…」

 家も中古住宅では住むには大変です。今回、戦後初めて新築の家に住むことになります。駅から門前までは、あの有名な大黒屋さんの角を曲がって僅か130mです。買い物にも食事にも便利になりました。

写真は荷風宅へ入る小径の入口です。正面の二階家のお宅が荷風宅跡です。正確には跡ではなくて、永井荷風の養子である永井永光さんがお住まいです。この辺りのお話は「父 荷風」(白水社)を読んで頂ければとおもいます。


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける。
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに転居
5月25日 駒場の宅孝二に身を寄せる
6月2日 明石に疎開
6月11日 岡山へ疎開、岡山市内で空襲を受け転居
8月13日 勝山の谷崎潤一郎を訪ねる
8月30日 東京に向かう
9月1日 熱海和田浜南区1374番地 木戸正方に移る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 67 1月16日 市川市菅野258番地に転居
7月25日 ラジオの音が気になり始める
8月28日 相磯凌霜の別邸を訪ねる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
68 1月6日 小西宅に転居
1月16日 「襖の下張」の件で市川警察署を訪ねる
6月29日 五叟に預けた図書が盗難
10月19日 近隣の神社祭礼を訪ねる
昭和23年 1948 太宰治自殺 69 5月7日 「四畳半襖の下張り」で警視庁より出頭要請
12月28日 菅野1124に中古住宅を購入し転居
昭和27年 1952 白鳥事件
三原山にもく星号墜落
73 11月3日 文化勲章を受賞
昭和30年 1955 自由民主党結成 76 12月20日 関根歌が来訪
昭和31年 1956 日ソ国交回復 77 12月3日 八幡町4-1228の土地四十坪を購入
昭和32年 1957 天城山心中 78 3月27日 八幡町4-1228の新築家屋に転居



「常夜燈」
<葛飾八幡宮 常夜燈>
 永井荷風が移り住んだ市川での住まいの変遷については今回で終わります。ここからは「断腸亭日乗」に書かれている市川市八幡の町周辺について紹介したいとおもいます。高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」を参考にして、「断腸亭日乗」から引用したいとおもいます。「断腸亭日乗」の昭和21年5月からです。
「…五月九日、陰、風涼し、午後再び葛飾八幡の境内を歩む、両前の常夜燈に明和五年丙子の年号を見る、絵馬堂の額、神功皇后武内宿禰を描けるもの二枚、唐人管絃遊戯の図あり、いづれも嘉永安政頃のもの、画工もさしたる名家にてはあらざるが如し、されど近年かくの如きものを見ること稀なれば浅草観音堂のむかしなど思出で1杖を留むること暫くなり、帰宅後一睡、恵めて後小説執筆、…」
 京成八幡駅傍にある「葛飾八幡宮」は有名ですが、この神社の神殿前にある常夜灯について荷風は書いていました。”両前の常夜燈に明和五年丙子の年号を見る”と書かれています。普通はこのような所は見ません。高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」では”明和五年丙子は誤記、明和五年丙子戊子が正しい”と書いています。高橋さんもよく見ています。絵馬堂の額については調査不足です。

写真は上記に書かれている常夜灯です。両側にあります。訪ねられた方は常夜灯に彫られている文面を見て頂ければとおもいます。葛飾八幡宮の写真も掲載しておきます。

「八幡知らずの薮」
八幡知らずの薮>
 市川市役所の右、斜め前にある「八幡知らずの薮」です。正確には「不知八幡森」といい、俗称は「八幡の藪知らず」です。「断腸亭日乗」の昭和21年5月からです。
「…五月初八、晴、午前小川氏来話、午後八幡の国道を歩む、南側に八幡知らずの薮あり、竹林の中に一片の石碑あれど石垣を園らしたれば入りて見ること能はず、老榎欝蒼、道の半を蕨へり、北側に八幡神社あり、境内広くして松杉欝然たり、山門の前に植木屋さまぐの苗木を売る、茶見世一軒あり、樺がけ姉さま冠りの女房何やら貝のむきみを焼きて売り居たり、鳥居前国道の両側にもパン心太など売る店多し、一皿皆十円なり、省線停車場前にも露店立並びたり、夜小説執筆、。…」
 上記の文中に”竹林の中に一片の石碑あれど石垣を園らしたれば入りて見ること能はず”とありますが、荷風が見ることが出来なかった石碑は鳥居を入った右側にある石碑のことでしょうか。

写真は市川市役所の千葉街道を挟んだ右側にある「不知八幡森」です(俗称は「八幡の藪知らず」)。

「三菱銀行八幡支店跡」
<三菱銀行八幡支店>
 荷風は銀行へもよく通っています。戦前からの分限者だったからですね。三菱銀行の名前は「断腸亭日乗」に戦前からたびたび登場しています。「断腸亭日乗」の昭和29年8月、30年3月からです。
「八月初九。晴。午後八幡町銀行及郵便局。浅草に行き飯田屋に飰す。…
三月初七。陰又晴。凌霜子来話。鬼越町市川市税務署。
三菱銀行八幡支店に往く。燈刻独り有楽町フジアイスにて食事。上野を過ぎてかへる。…」
 上記には三菱銀行八幡支店の他に郵便局も書かれています。推定ですが、この郵便局は京成八幡駅近くにある市川郵便局ではないかとおもっています(昭和34年4月2日の「断腸亭日乗」には”市川郵便局”と書かれている)。本当に、銀行と郵便局と税務署は度々書かれています。

写真は戦後まもなくの頃に三菱銀行八幡支店があった所です。戦前からこの場所にあったかは調査不足で不明です。私が調べた限りでは戦後、財閥系銀行が解体され、三菱銀行が千代田銀行と名乗っていたころの支店の場所です。三菱銀行から千代田銀行に名前が変わったのは昭和23年10月で、三菱銀行に戻ったのは昭和28年7月です。その後、三菱銀行八幡支店は上記の場所から千葉街道を100m程東の山側に移っています(東京ベイ信金の所)。現在はJR本八幡駅傍です。

「大黒屋」
<大黒屋>
 京成八幡駅北側の大黒屋さんについてはあまりにも有名です。さまざまなポームページに登場しています。私が詳細を書く必要もないかもしれません。「断腸亭日乗」の昭和33年7月、10月、昭和34年3月からです。
「七月廿三日。風雨飲まず。小林来話。正午近く風雨も静になりたれば駅近くの大黒屋に飰す。
十月廿五日。陰。後に雨。正午浅草。食後亀井戸天神周囲の障巷を歩むに、売色の女来らざる為怪し気なる旅館いづれも休業せり。押上駅より電車にて帰る。晩食大黒屋。
三月七日。雨。後に陰。病臥。午後大黒屋に
一酌す。…」
 大黒屋さんのホームージを見ると、”先生はいつも「並のカツ丼」と「上新香」、「お酒一合」”と書かれています。実は私もこのカツ丼を頂きました。

写真は京成八幡駅南側から見た大黒屋さんです。大きなビルになっています。私も暇を見つけて、「荷風セット(カツ丼+上新香+日本酒一合)1,260円」を食べに行くつもりです。

「菅野湯」
菅野湯>
 荷風が通った風呂屋については「永井荷風の市川を歩く -2-」の”三本松の混堂”で紹介しましたが、八幡の風呂屋として菅野湯を再度紹介します。「断腸亭日乗」の昭和33年11月、昭和34年2月からです。
「十一月四日。晴。正午浅草。一の酉。菅野湯[ママ}。
二月十七日。陰。正午浅草。菅野湯入浴。…」

 荷風が「断腸亭日乗」に書いていた市川の風呂屋はほとんど無くなっていますが、唯一、残っているのがこの「菅野湯」さんです。すこし駅から離れているのが良かったのかもしれません。

写真が「菅野湯」さんです。現在の住所で東菅野一丁目4番地です。店の前には駐車場(空き地?)があって、車で来られる方も便利です。建物は戦後から建て直されているのか分かりません。私も一度入浴してみたいです(富士山も見てみたい)。

「白幡天神社」
<白幡天神社>
 今週の最後の紹介は「白幡天神社」です。どういうわけか「断腸亭日乗」にはたびたび登場しています。「断腸亭日乗」の昭和21年4月、5月、7月からです
「…四月十八日、晴、南風烈し、午後八幡の湯屋に行きしが休の札出したれば帰途垣根道の曲り行くに従ひ歩みを運ぶに、老松古榎欝然として林をなせる処、一宇の廃祠あり、草間の石柱を見て初めて白幡神社なるを知る、
五月初七、時、午後八幡町混堂の帰途白幡天神の境内を歩む、新緑よし、牛乳パンを売る家あり、
七月廿五日、隣室のラヂオと炎暑との為に読書執筆共になすこと能はず、毎日午後家を出で暮飾八幡また白幡天神境内の緑蔭に至り日の相傾くころ帰る、ラヂオの飲むは夜も十時過なり、…」

 五叟家のラジオの音にまいっての外出先が「白幡天神社」だったわけです。八幡町混堂(菅野湯?)の帰りにも寄っていますので、場所的に訪ねやすいところにあったのだとおもいます。

右の写真が「白幡天神社」です。上記を読むと”一宇の廃詞あり(一棟の壊れた祠の意味)”とありますので、当時はそうとう朽ち果てた神社だったのだとおもいます。現在は写真の通り、綺麗な神社になっています。

次回は荷風が市川で通った「お医者さん」を歩いてみます。


永井荷風の市川地図 -3-



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