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●永井荷風の市川を歩く -3-
    初版2009年4月11日  <V01L01>

 今回は「永井荷風の戦後を歩く」の第四回です。前回は戦後に荷風周辺で起こった事件を中心に市川を歩いてみました。今週は真間川の桜を見ながら、手児奈堂、亀井院、弘法寺、少し離れて下総国分寺跡を歩いてみました。


「真間川と桜並木」
<真間の桜>
 やっぱり4月になれば桜の季節です。私も桜が咲くのを待って、真間川の桜を撮影してきました。荷風も「断腸亭日乗」の中で桜をたびたび登場させています。又、市川付近での荷風の写真が本などに掲載されていますが、真間川の畔で撮影した荷風の写真があります。掲載は出来ませんが真間小学校の横の真間川で撮影したものとおもわれますので、私も同じ場所で撮影してきました。今週も高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」と「断腸亭日乗」の昭和21、22、23年を参照します。
「…昭和廿二年
四月十六日。暗。正午小瀧氏来話。共に出でゝ
真間川の桜花を看る。花季早くも過ぎ落花紛々として雪の如し。弘法寺の石級を上り林下の草に坐し款話すること半刻停車場前にて別る。選挙運動員路傍にマイクロフホンを立てゝ怒号するを見る。喧騒厭ふべし。
…昭和廿三年
四月初五。晴。凌霜子来話。午後浅草。桜花爛漫。
四月初六。晴。薄暑五月に似たり。木瓜小米桜香花皆開く。午後浅草常磐座楽屋。…」

 真間川の桜は、川沿いに桜並木が続いているわけではなくて、所々に桜並木がある程度です。特に綺麗なのは真間小学校の横です。荷風もその辺りで撮影しています。

写真は今年4月4日に撮影した真間川の桜並木です。写真の左側は真間小学校です。


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける。
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに転居
5月25日 駒場の宅孝二に身を寄せる
6月2日 明石に疎開
6月11日 岡山へ疎開、岡山市内で空襲を受け転居
8月13日 勝山の谷崎潤一郎を訪ねる
8月30日 東京に向かう
9月1日 熱海和田浜南区1374番地 木戸正方に移る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 67 1月16日 市川市菅野258番地に転居
7月25日 ラジオの音が気になり始める
8月28日 相磯凌霜の別邸を訪ねる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
68 1月6日 小西宅に転居
1月16日 「襖の下張」の件で市川警察署を訪ねる
6月29日 五叟に預けた図書が盗難
10月19日 近隣の神社祭礼を訪ねる



「手児奈堂」
<手児奈堂>
 真間小学校を北に少し歩いて左に曲がると、「手児奈堂」です。荷風は”手児奈堂”と、”手古奈堂”の二つを書いています。意識的に使い分けたかどうかはわかりません。昔的には”手古奈堂”なのでしょうが、万葉集から”手児奈堂”になったのでしょう。「断腸亭日乗」の昭和21年、昭和22月からです
「…三月廿六日、晴、暖、午後漫歩、手児奈堂に賽す、境内の借家に猪場毅氏依然として住めるが如し、店の窓に書幅を掛け玩具など並べたれば相変らず贋物の売買を業となすなるべし、
…三月十八日。晴。春風依然として暖ならず松籟鬼哭の如し。昼餉の後真間川の流に沿ひ歩みて
手古奈堂の畔に至る。…」
 「手児奈堂」については特に説明はしません。今回のテーマは「荷風の市川を歩く -2-」で掲載した”猪場毅氏”についてです。「断腸亭日乗」の昭和15年を見ると。
「…四月十五日。暗。浅利氏電話あり。高嶋屋碑文起草の事を辞退す。銀座に出で哺下家に帰るに浅利氏の名刺郵便受箱の中に在るを見る。其意を得ざるなり。
   葛飾屋の主人に贈る句
   石菖や二人くらしの小商ひ
主人は冨山房書店の編輯員にて其妻はもと高嶋屋百貨店の売子女なり。葛飾真間手古奈堂のほとりに玩具店をひらきたり。…」

 と、”猪場毅氏”について書いています。この後、猪場毅氏は荷風の偽書を作って、荷風から断絶されます。ですから、戦後の「断腸亭日乗」にも良くは書かれていないわけです。

写真は手児奈堂を斜め横から撮影したものです。荷風が写真の池の横に立って撮影した写真が残っています。同じ構図で撮影してみました。上記の猪場毅氏は手児奈堂の参道にお店を開いていました。参道の写真を掲載しておきます(猪場毅氏の住まい跡は写真の左側から二軒目の空き地のところです)。

「つぎはし」
<つぎはし(継橋)>
 千葉街道から手児奈堂に向かう道は弘法寺参道になります。千葉街道の市川警察署跡の右側に弘法寺参道入口があります。京成電鉄を越え、真間川を渡ると、つぎはし(継橋)になります。荷風は「つぎはし」については書いていませんがこの橋の袂で写真を撮っています。

 ここでは再度、”猪場毅氏”について、荷風が昭和19年に書いた「来訪者」を参照します。
「一年あまりの月日が過ぎた。木場は北千住に住んでゐたのであるが、真間の手児奈堂の境内に転居し、表口に添ふ出窓を改作して店となし、玩具人形の外に文壇諸名家の墨蹟を陳列し、これを売って生計のたしにしたい。屋号を鴻麓堂としたから額を揮竜して下さいと言った。四五日たって、白井が一人で尋ねて来たので、わたくしは、 「木場が人形屋を始めたと云ふはなしだが、景気はいゝかね、素人商ひで損をしなければいゝが。」
 「細君の小遺くらゐになればいゝのでせう。」と言ふ白井の返答で、わたくしは、初て木場の妻帯してゐることを知ったのである。…」

 木場とは猪場毅氏のことですね。荷風と猪場毅氏とは事件が起こるまでは友人でした。事件後にこのようなことを書くのですから、かなり怒っていたのでしょうか?

写真は弘法寺参道の「つぎはし(継橋)」です。赤く塗られて綺麗な橋になっています。昔は入り江がこの付近まできていて、州を渡る橋が「つぎはし(継橋)」だったようです。

「弘法寺の石段」
<弘法寺(ぐぼうじ)>
 手児奈堂のすぐ横に弘法寺があります。石段があり、登るのに大変でした。でも、階段横の桜がとても綺麗でした。「断腸亭日乗」の昭和23年からです。
「四月初七。晴。いよいよ暑し。午下小瀧氏来話。共に出でゝ真間川の桜花を看る。満開の花束散るに至らず正に見頃なり。弘法寺の石段を登るに本堂の傍に年古りたる垂絲桜ありてこれも花爛漫たり。省線駅前の茶亭に少憩し別れて家にかへれば不在中凌霜子来訪せられしと云。
 〔以下朱書〕思はずもまた見る真間の桜ばな
        さすらひの日も三年過ぎたり〔以上朱書〕…」

 弘法寺の本堂は建て直されていました。本堂の右側にあった枝垂れ桜は撮影し損ないました(来年に期待)。”ぐぼうじ”とは、とうてい読めません。私は最初”こうほうじ”とよんでしまいました(失礼しました)。

写真は弘法寺の階段です。この階段を上ると三門になります。上に登ると弘法寺のお寺の大きさにびっくりしました。古い建物も残っているのですが、本堂が昭和47年に建て直されていて、荷風が見た本堂と違うのが残念でした。

「真間の井」
<亀井院 真間の井>
 「手児奈堂」のすぐ北側に「亀井院」があります。荷風の「断腸亭日乗」では一度だけ登場しています。「断腸亭日乗」の昭和22年3月からです。
「…三月十八日。晴。春風依然として暖ならず松籟鬼哭の如し。昼餉の後真間川の流に沿ひ歩みて手古奈堂の畔に至る。後方の岡に登る石級を登れば弘法寺の山門なり。本堂の傍に老梅三四株ありて花雪の如し。別に亀井院と云ふ寺あり。…」
 この亀井院は北原白秋が一時期住んでいたことと、「真間の井」で有名です。「真間の井」は万葉集で、高橋虫麻呂が「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」と詠んでいます。

写真は亀井院 真間の井です。お寺の奥にあり、最初、場所が分かりませんでした。

「国分寺 南大門」
<国分寺 南大門>
 荷風は昭和22年になると、市川にも慣れて、少し遠出を始めます。真間からは北に2Km離れた国分の下総国分寺跡を訪ねています。「断腸亭日乗」の昭和22年4月からです。
「…四月廿六日。晴。午後須和田の村道を歩み国分村の丘陵に登る。林間に古寺あり。路傍の石に准四国霊場予州国分寺写。下総国葛飾圀分邑金光明寺の文字を勒す。田疇の眺望頗佳なり。哺下家にかへる。…」
 荷風は国分寺跡を歩いているのですが、戦後のドサクサの中で、よく下総国分寺跡の場所がわかったとおもいます。建物自体は比較的新しいく(南大門はコンクリート製で、昔はもう少し南に建てられていた)、説明板が無ければ私はよく分かりませんでした。

写真は「國分山國分寺」の南大門です。このお寺が下総国分寺跡となります。小高い岡の上にあり、荷風も”眺望が良い”と書いてあるとおり、市川市内が良く見えました。

「准四国霊場」
<准四国霊場 豫州国分寺寫>
 下総国分寺跡にある石柱です。私が見ると単なる何か文字の書かれた古い石柱しかみえないのですが、荷風が見ると価値あるものになります。鋭い観察力です。よく勉強しているということなのでしょう。「断腸亭日乗」の昭和22年4月からです
「…四月廿六日。晴。午後須和田の村道を歩み国分村の丘陵に登る。林間に古寺あり。路傍の石に准四国霊場予州国分寺写。下総国葛飾圀分邑金光明寺の文字を勒す。田疇の眺望頗佳なり。哺下家にかへる。…」
 高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」によると、この石柱に書かれているのは「断腸亭日乗」に書かれていた”准四国霊場予州国分寺写 下総国葛飾圀分邑金光明寺”ではなくて”准四国霊場 豫州国分寺寫 下総葛飾郡国分邑金光明寺”が正しいそうです。

右の写真の石柱に”准四国霊場 豫州国分寺寫 下総葛飾郡国分邑金光明寺”と書かれています。写真からは”准四国霊場 豫州国分寺寫”しか見えません。

次回は八幡界隈を歩いてみます。


永井荷風の市川地図 -1-



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