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●永井荷風の市川を歩く -2-
    初版2009年3月28日
    二版2009年4月4日 <V01L01> 「料亭 掬水」を追加

 今回は「永井荷風の戦後を歩く」の第三回です。前回は永井荷風の市川での住まいの移り変わりと、市川駅周辺の神社を歩きました。今週は荷風周辺で起こった事件を中心に市川を歩いてみました。


「JR市川駅と闇市跡」
<市川駅と闇市>
 今週も前回に引き続いて高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」を参考にして歩いてみました。「断腸亭日乗」には市川の地名やお店、建物の名前が数多く登場しています。その全てを回りたいのですが、不明な建物もあり、出来るだけ多く歩いてみました。まず最初はJR市川駅(当時は国鉄)周辺です。「断腸亭日乗」の昭和21年と22年からです。
「…昭和廿一年
一月十九日 晴、寒気甚しからず、午後省線停車場前に露店多く出ると開き、行きて見る。
一月廿一日 細雨霧々、午に至って賓る、風暖にして春既に来るの思ひあり、駅前の露店にてわかさぎ佃煮を買ふ、一包弐拾円なり、
三月十五日 時、春風媚々、停車場前の闇市にて老婆の、ふかしたる里千手リを売りゐるを見たれば、何となし花見頃のむかしを思出で‥しれを購、ふ、相し一つ一円とは驚くべし、
ここから昭和廿二年
三月十日 晴、風寒し。午後市川駅前のマーケットにて精進揚を買うて帰る。
六月初一日 時。市川駅前の天ぷら屋に麦酒を飲む。一填金百参拾円。車海老天象羅一人前五拾円なり。
六月初六日 時々細雨。市川にても遠からず喫茶其他飲食店なくなるべしとの噂あれば午後海神への行がけ駅前のマーケットにて鰻蒲焼を食す。一串金弐拾円なり。
六月念八日 細雨終日糠の如し。市川駅前のマーケットに鰻飯九十円を食して海神に行く
七月初一日 時々細雨。駅前マーケットの天麩羅屋に至る。
十月念一日 雨ふりて風寒し。市川駅前の闇市に茶を喫す。…」

 永井荷風が出没した当時の市川駅は平屋の駅舎でした。高架化したのは昭和47年で、錦糸町駅〜津田沼駅間が複々線化し快速が走るようになっています。それにしても、荷風は鰻と天麩羅が大好きですね!

写真は現在のJR市川駅です。正面右が高架の駅舎で、右側にパスターミナル、左側のビルのところが市川駅前闇市跡です。市川市立図書館には昭和32年の住宅地図があり、市川駅前の闇市が「市川睦会マーケット」として書かれていました。一読されるとおもしろいですよ!!


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける。
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに転居
5月25日 駒場の宅孝二に身を寄せる
6月2日 明石に疎開
6月11日 岡山へ疎開、岡山市内で空襲を受け転居
8月13日 勝山の谷崎潤一郎を訪ねる
8月30日 東京に向かう
9月1日 熱海和田浜南区1374番地 木戸正方に移る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 67 1月16日 市川市菅野258番地に転居
7月25日 ラジオの音が気になり始める
8月28日 相磯凌霜の別邸を訪ねる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
68 1月6日 小西宅に転居
1月16日 「襖の下張」の件で市川警察署を訪ねる
6月29日 五叟に預けた図書が盗難
10月19日 近隣の神社祭礼を訪ねる



「智新堂書店」
<智新堂書店>
 昭和22年に入ると、荷風は菅野の五叟宅から小西邸に転居しています。五叟宅のラジオと絃歌の音に悩まされた末の転居でした。ただ、荷風の持ち物の一部は五叟宅に置いたままでした。その中で、事件が起こります。「断腸亭日乗」の昭和22年6月からです。
「…六月念九。日曜日。細雨歇まず。洋服屋田中ヅボンを持来る。千三百円なり。午下うさぎや主人来り余が草稿浄写本欄帯を示し大島氏宅余が蔵書の盗人は大島五叟の長女よし子なる由を告ぐ。うさぎやと共に大島方に至り主人をつれその娘が盗品を売りたる古本屋に至る。一軒は真間京成線路側他の二軒は市川駅前マーケットの古雑誌屋なり。これにて盗品の大半を取返したれど行衛不明のもの猶少しとせず。実に意外の珍事といふべし。
六月三十日。陰。午前春街氏マーケット内古本屋にて露伴先生の諌言長語二冊を買戻したりとて携来らる。午後海神より小岩に行き燈刻に帰る。不在中小瀧氏来ると云。…」

 五叟の長女が五叟の家に置いていた荷風の本を市川の古本屋に売ってしまったという事件です。高価な本もあったようで、それなりのお金になっています。長女も、古本でたいしたことは無かろう、とおもって売ってしまったのだとおもいます。

写真は京成市川真間駅近くの智新堂さんです。荷風の「断腸亭日乗」には長女が売った古本屋の名前は書かれていませんでしたが、五叟の「五叟遺文」には二軒の名前が書かれていました(下記を参照)。その一軒が智新堂でした。このお店は現在も営業されています。

「某店?」
<伊藤書店及び某店>
 五叟の長女が売った古本屋の名前は二軒が分かっています。上記にも書きましたが、古本屋の名前が「五叟遺文」に書かれていたからです。
「六月二十九日(日) 小雨。就床してより二時間、十一時半頃、うさぎや主人谷口氏来るへ最中十個を贈らる)。同氏より實に意外なる事實を聞く。眞に愕然たり。日く、先生の「ひとり言」の原稿、眞間の猪場の手を経て三五〇〇にて手に入りしと。出虞は展開の智新堂とやらの由にて、大島さんのお嬢さんが売却に来りしと。直ちに香衣を呼び語間す。香衣一切を自供す。余驚愕なすところを知らず。とりあへず先生の許に至り不行届を詫ぶ。家へ締りなほも詰問し売先を質す。先生、谷口氏と来り残りの手紙の類を整理さる。隣室にて余断腸の思ひなり。余の名誉も誇りも地に堕ちたり。世間に大きな顔は出来ぬ男となれり。生涯に再びかやうの事あるや。余到底生き得べからざるなり。先生・谷口氏・成友・余と四人にて智新堂に至る。主人至極良心的にて余にも同情し、既に売却せし三冊をのぞき残品総てを返却せしむ。騨前マーケットの伊藤書店及び某店に至り情を打明け欺願せしに、伊藤の主人、言葉を左右にしてすこぶるあいまいなり。店頭には一冊も見出し得ず。香衣の言にては四五十冊は売却の由なり。附近某店にて一冊を認む。警察署に行きたれど係官居らず。再び智新堂に至り品物を先生の部屋に運ぶ。心痛と疲弊にて食物のどを通らず。余の不幸何にたとへるものなし…」
 長女は三軒の古本屋に荷風の本を売っていますが、「五叟遺文」には二軒の名前と、傍店となっています。「五叟遺文」は昭和38年に出版されています。推測ですが、智新堂は名前を出しても問題が無く、伊藤書店は市川駅前の「市川睦会マーケット」の中にあったのですが、昭和38年には無くなっており、問題はないとの判断だったとおもいます。残り一軒はまだお店があり、”名前を出すことが問題あり”との判断だったのではないでしょうか。

昭和22年までの「断腸亭日乗」にたびたび登場する「うさぎや主人谷口氏」とは、上野一丁目10番地のどらやきで有名な「うさぎや」のご主人 谷口喜作氏のことだとおもいます。谷口氏は俳人でもあり、文化人との交流も多かったようです。残念ながら荷風より、かなり早く、昭和23年に亡くなられています。

写真は市川駅前の大杉書店さんです。当時の市川駅前「市川睦会マーケット」には5軒の本屋さんがあり、現在も残っているのは写真の大杉書店さんのみです。一軒は伊藤書店なので、残り四軒のうちの一軒となりますが、お店の名前が書かれていないので、これ以上は不明です。

「市川警察署跡」
<市川警察署>
 荷風は昭和22年1月、市川警察署を訪ねます。荷風が戯れに書いた「襖の下張」が猪場毅により、出版されようとしたからでした。「断腸亭日乗」の昭和22年1月からです。
「一月十二日。日曜日。陰晴足らず、熱海の鳶重来話。午後小瀧氏来りて赤飯を恵まる。夜扶桑書房主人来り猪場毅余か往年戯に作りし春本襖の下張を印刷しつつある由を告ぐ。此事若し露見せば筆禍忽吾身に到るや知る可からず。憂ふべきなり。
一月十六日。快晴。寒甚し。正午春街氏に導かれ市川警察署に至り司法部長に面会し猪場毅の事を告げ秘密出版を未遂中に妨止せむことを謀る。春街氏は警察署内に知人少からず万事都合好く行くかと思はる。不在中凌霜子来り土洲橋病院の薬をとゞけらる。深情謝するに辞なし。…」

 猪場毅氏とは、戦前は荷風の友人でしたが、荷風の原稿を偽造していたということで、荷風から絶交しています。戦後は市川真間駅近くの手児奈霊堂に住んでおり、荷風のすぐ近くにいたわけです。

写真は旧市川警察署です。現在の住所で市川二丁目33番地、市川公民館のところです。現在の市川警察署は市川ICの近くに移っています。

「料亭 掬水跡」
<料亭 掬水> 2009年4月4日 掬水を追加
 荷風は昭和22年になると、真間の「料亭 掬水」をたびたび訪問します。谷崎潤一郎などと会う機会が増えていきます。「断腸亭日乗」の昭和22年1月からです。
「…七月初四。陰。午下萬年堂うさぎや来る。真間の牛肉屋掬水に案内せられて馳走になる。門の招牌は久保万民の筆なり。洋風応接間に小糸源太郎氏の油絵二三片あるを見たり。この日薄暑忍びかたし。
十一月十一日 陰、後に晴、島中氏真間の料理店掬水に辰野博士谷崎氏及余を招ぎ午餐、を饗せらる。二時頃かへる。…」

 高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」では「牛肉屋 掬水」は真間と書かれていたのですが、場所は不明でしたので、昭和24年の電話番号簿で調べてみました。”掬水 市川557”と書かれていました。市川557の地番だと、市川警察署跡の右横の道を北に入った右側奥になります。この路は弘法寺への参道で、手児奈霊堂の横を通っています。店はすぐに無くなったとのことなので、昭和20年代後半には無くなっていたとおもいます。

写真は千葉街道の弘法寺への参道入り口です。この道を少し入った右側に「牛肉屋 掬水」がありました。(真間ではありませんでした)

「三本松跡と三本松湯跡」
三本松と三本松の混堂>
 荷風はお風呂屋のことを”混堂”と書いています。ただ、「断腸亭日乗」全てに混堂と書かれているわけではなくて、”銭湯”とも書いていますので、一定ではありません。「断腸亭日乗」の昭和21年5、12、昭和22年2月からです。
「…五月初七、時、午後八幡町混堂の帰途白幡天神の境内を歩む、
十二月十四日、晴、暖、午前正岡氏、小川氏来話、小瀧氏来り日かげの花製本見本を示さる、午後真間の混堂に浴す、
十二月廿九日 日曜日 晴、午後混堂に浴す、湯銭一円となる、哺下江戸川堤を歩す、夜小西氏貸与のバルザック作従妹ベットをよむ…
二月十七日。晴。寒。数日来市中の
銭湯いづこも燃料不足にて休業。…
二月十八日。晴。午前三本松の混堂に浴す。
二月廿二日。晴。風寒し。平田の銭湯に浴す。…」

 上記に書かれている混堂と銭湯について、分かる限り場所を探してみました。三本松の混堂、平田の銭湯、八幡町混湯についてはわかりましたが、真間の混堂については正確にはわかりませんでした。

写真は市川駅北側の千葉街道です。千葉街道の中央に三本松があったのですが、道路拡張の時に取り除かれています。当時は写真の”TSUTAYA”の先に三菱銀行市川支店(戦後は一時、千代田銀行と名称を変えています)があり、その先の小路を左に入った右側に”松乃湯”がありました(現在は無くなっています)。三本松の混堂は”松乃湯”のことだと推測しています。”平田の銭湯”は新田一丁目の”桃の湯”(現在は無くなっています)、”八幡町混堂”は”菅の湯”ことではないかと推測しています。名称を使って書いていないので確定は難しいとおもわれす。


永井荷風の市川地図 -1-



「市川税務署跡(国府台)」
<市川税務署(国府台)>
 国府台は戦前、野戦重砲兵第三旅団、国府台陸軍病院があり、終戦まで置かれていました。戦後は解体され、国府台陸軍病院は国立国際医療センター国府台病院、その他は私立大学等になっています。終戦後、官庁関係は空襲で焼け出されたため、様々な建物を使っています。荷風がよく通った市川税務署も終戦後まもなくはこの国府台にありました。
「…十二月十二日 晴。午下市川税務署に至る。国府台旧兵営の跡なり。眺望絶佳。俗事のために来りしを忘れしむ。田間を散歩して帰る。…」
 国府台旧兵舎では場所が分からないため、こちらも昭和24年の電話番号簿で調べてみました。住所は”國分298”とあり、この地番で場所を探したのですが、國分297までは地番があったのですが、298はありませんでした。297は国立国際医療センター国府台病院の北側だったので、推定ですが、国立国際医療センター国府台病院付近ではないかとおもっています。(もう少し調べる必要がありそうです)

写真は国立国際医療センター国府台病院の正門です。國分297番地はこの左側奥になります。

「回向院別院」
<回向院別院>
 次に紹介するのは回向院別院です。先ほどの国立国際医療センター国府台病院から北に1Km弱になります。
「…九月十三日、陰、国府台上に売家ありときゝ朝十一時頃尋ね行きしが一歩おくれにて既に買手きまりし後なりき、このあたり土地爽塏にして市川の町中より来れば空気更に清涼なるを覚ゆ、粟もろこし岡穂の稲熟せし畠つゞきたる彼方に水道浄水場あり、松林あり、回向院といふ寺あり、風景よし、…」
 回向院は両国にあるお寺で有名です。この両国にある回向院の別院ですね。奥にはお墓もありました。

右の写真が現在の回向院別院です。門は相当古そうで、推定ですが、荷風が昭和22年にみた回向院別院の門と同じではないでしょうか。お寺の中はすっかり建て直されていました。水道浄水場は栗山浄水場のこととおもいます。

次回は手児奈霊堂から弘法寺を歩いてみます。


永井荷風の市川地図 -2-



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