●永井荷風の市川を歩く -1-
    初版2009年3月1日 <V01L03>

 今回は「永井荷風の戦後を歩く」の第二回です。永井荷風は終戦後、岡山から帰京し、五叟一家と熱海に住みますが、半年後の昭和21年1月、千葉県市川市に転居します。熱海の木戸邸から退去を求められたからでした。初めての市川で、荷風は歩きます。


「葛飾の永井荷風」
<葛飾の永井荷風 高橋俊夫>
 永井荷風を歩くには「断腸亭日乗」が一番なのですが、やはり地元での”荷風本”が出版されていればとおもい、探してみました。戦後の荷風については様々な本が出版されていますが、市川については高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」が一番のようですので、この本と「断腸亭日乗」、定番の秋葉太郎さんの「考證 永井荷風」を参考にしながら市川を歩きました。
「…永井荷風が空襲で麻布の偏奇館を焼かれ、流浪の末、葛飾の里菅野に移り住んだのは、敗戦の翌年昭和二十一年の一月であった。時に荷風六十七歳。やがて八幡の新居に移り、昭和三十四年、八十歳で長逝した。十三年間の葛飾ぐらしであった。わたくLは荷風が菅野に住む以前から、菅野とは目と鼻の先である真聞手古奈堂の近くに住んでいた。わたくLは長身の荷風が、よれよれの背広に下駄ばきで買物かごを手にして市川の闇市を歩く姿を何度か目にしている。そのころ、わたくしはまだ開成中学の生徒だったが、やつした姿の中に、どこか垢抜けた気品を感じとっていた。…」
 現在、葛飾という名称が付いているのは「東京都葛飾区」しかありませんが、葛飾という名称はこの地区固有の名前ではなく、もともと下総国葛飾郡一帯の広大な地の総称だったようです。この場合の「葛飾」とは、中心を現在の千葉県市川市付近として、北を埼玉県北葛飾郡、西を東京都葛飾区や墨田区付近、東を茨城県古河市、南を江戸川区や浦安市付近とする一帯で、古くは万葉集などにもその地名が登場しています。ですから、高橋俊夫さんが書いた「葛飾の永井荷風」という題名はぴったりなわけです。

写真は高橋俊夫さんの「葛飾の永井荷風」、昭和55年1月、崙書房版です。上記に書かれているとおり、高橋俊夫さんは永井荷風の研究家で、他にも「墨東綺譚の世界」他も出版されています。

「市川市菅野二五八番地付近」
<市川市菅野二五八番地 大島方>
 五叟一家と永井荷風は昭和21年1月、千葉県市川市菅野二五八番地に転居します。熱海の木戸邸から退去を求められたからでした。暖かく温泉がある熱海は最高だったとおもいます。「断腸亭日乗」の昭和21年1月からです。
「…一月十六日、晴、早朝荷物をトラックに積む、五叟の妻長男娘これに乗り朝十一時過熱海を去る、余は五里その次男及田中老人等と一時四十分熱海発臨時列車に乗る、乗客雑沓せず、夕方六時市川の駅に着す、日既に暮る、歩みて菅野二五八番地の借家に至る、トラックの来るを待てども来らず、八時過に及び五里の細君来りトラック途中にて屡故障を生じたれば横浜より省線電車にて来れりと言ふ、長男十時過に来りトラック遂に進行Lがたくなりたれば目黒の車庫に至り、運転手明朝車を修繕して後来るべしと語る、夜具も米もなければ俄にこれを隣家の人に借り哀れなる一夜を明したれり、…」
 五叟一家が引っ越した先は国府台高等女子学校(現 国府台女子学院)の教員用社宅の一軒です。永井永光さんの「父 永井荷風」によれば、兄の音楽学校の同級生の妹さんの縁で借りることができたようです。

写真の右側に写っているのが日の出学園小学校で、五叟一家宅跡は日の出学園の左側奥です(個人のお宅でしたので直接の写真は控えさせて頂きました)。手前の工事中の所は東京外郭環状道路で、数年先にはすっかり雰囲気が変わってしまうとおもいます。

「京成菅野駅」
<京成菅野駅>
 千葉県市川市菅野二五八番地大島方の最寄り駅は京成本線菅野駅です。京成八幡駅の一つ東京寄りといった方がわかりやすいかもしれません。各停しか止まらない小さな駅です。「断腸亭日乗」の昭和21年1月からです。
「…一月十九日、晴、寒気甚しからず、荷物を解き諸物を整理す、午後省線停車場前に露店多く出ると聞き、行きて見る。帰途京成電車踏切近くなる門構の家に汁粉一円四十五銭との貼札出したるを見、入りて食するに片栗粉を団子のやうになし汁は薄甘き葛湯なり、汁粉といふ語も追々本来の意を失ひ行くものゝ如し…」
 上記に書かれている”省線停車場”とは、現在のJR総武線市川駅のことだとおもいます。”帰途京成電車踏切”と書いていますが、菅野駅の事かなとおもったのですが、この駅前付近はお店も何も無く、推定ですが、たぶん”市川真間駅”の事かなともおもっています。この付近の道路は全く整備されておらず、細い道ばかりで、車のすれ違いも出来ませんでした。道路をもう少し整備してください、市川市さん!!

写真は現在の京成菅野駅です。手前が五叟宅に向かう踏切で、右への細い道を少し歩いて左に曲がると菅野二五八番地付近になります。距離で400m、6分位です。余りに道が狭いので、何処の田舎にきたのかとおもってしまいます。

「市川市菅野二七八番地付近」
<市川市菅野二七八番地 小西宅>
 荷風は昭和22年1月、市川市菅野二五八番地から、すぐ近くの小西宅に転居します。五叟一家とうまくいかなくなったからです。荷風は戦前から長く一人暮らしで、勝手気ままに生きてきましたから、気を遣いながら同居するというのは耐えられなかったのだとおもいます。「断腸亭日乗」の昭和21年7月及び10月からです。
「…七月廿五日、隣室のラヂオと炎暑との為に読書執筆共になすこと能はず、毎日午後家を出で暮飾八幡また白幡天神境内の緑蔭に至り日の相傾くころ帰る、ラヂオの歇むは夜も十時過なり、この間の苦悩実に言ふべからず、
十月廿二日、雨、午後海神、夜十時過寝に就かむとするに
隣室より絃歌の声起る、十一時になりても歇む様子なし、巳むことを得ず雨中暗夜の町を歩む、
十月廿六日、晴、…… 夜九時
隣室のラヂオ轟然たり、ラヂオ本月初より同盟罷業にて放送なく精神大に安静なりしが今宵再びこの禍あり、出でゝ小川氏を訪ふ、過日九州旅行の途上錦帯橋の知人より其地の美酒を贈られ持帰りしとて之を勧めらる、閑話浅酌夜半に至る、…」
 隣室の”ラジオの音”に相当まいっていたようです。最後には耳に綿を詰めています。杵屋五叟の「五叟遺文」の同じ日の日記を読んでみるとその辺りがよく分かります(私も古本を購入しました)。
「…夜、成友に紅葉詣教授す。十一時頃爪弾の三味線の音、気に障りてか先生雨を犯して外出三十分ばかりにて帰宅せらる。一種のゼネストか。三味線弾の家にては三味線の音を忌避せらるゝは無理なり。老いても尚我値の盛なる、気の毒にもなれり。(昭和二十一年十月二十二日)
 久方振りに真間の浴場に行く。帰宅後頭髪を洗ふ。原稿五枚はど執筆。杵屋藤吉・佐蔵・今藤・五三助の鷺娘を
ラヂオで聞く。先生戸を荒らげ出でらる。(昭和二十一年十月二十六日)…」
 荷風と五叟の日記内容が日付までぴったり合っています。五叟が日記を書いていた期間は、21年9月19日から昭和23年4月13日までですから、丁度そのときと重なるわけです。引っ越した先の小西宅でも荷風は家主の小西氏と揉め始めます。

写真の先、右側が市川市菅野二七八番地、小西宅です。まだ表札は小西ですのでご親族の方が住まわれているのだとおもいます。建物も当時のままのようです。外から写真を撮ったのですが、個人のお宅ですので掲載は控えさせて頂きました。小西茂也氏は荷風より早く、昭和30年4月に死去されています。

「京成海神駅」
<相磯凌霜の別邸>
 五叟一家のラジオの騒音に耐えられなくなった荷風は仕事部屋を他に求めます。「断腸亭日乗」の昭和21年8、9、10月からです。
「…八月廿八日、晴、残暑甚し、日暮凌霜子に導かれて海神町の別宅に至り晩餐を饗せらる、夜十一時最終の京成電車にてかへる、虫の声雨の如し
九月十一日、晴、凌霜子が海神の別宅に招がれ共に十六夜の月を賞す、
十月初二、晴れてまた暑し、屋内のラヂオを避けんとて午下海神町凌霜子の別宅を訪ふに折よく主人来りて在り、閑話半日、日暮近傍の田園を歩む、無線電信所の建物あり、米軍駐屯すと云、晩餐を饗せらる、九時近く家にかへる、松林の間に弦月の沈むを見る、
十月初三、陰晴定まらず、南風烈し、午後海神凌霜子別宅にて執筆、…」

 荷風は相磯凌霜の別邸で執筆を始めています。この場所については松本茂氏の「荷風極楽」に詳細に書かれていました。

写真は現在の京成海神駅です。相磯凌霜の別邸は北に350m、徒歩5分のところです。海神駅から北に270mでT字路の正面、京葉銀行海神支店にたどり着きます。ここを右に曲がりすぐに左に曲がるとその先が相磯凌霜の別邸となります。右側か左側か分からないのですが、角川写真文庫の「永井荷風」に写真が掲載されており、写真から推定すると左側ではないかとおもいます。


永井荷風の市川地図 -1-


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける。
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに転居
5月25日 駒場の宅孝二に身を寄せる
6月2日 明石に疎開
6月11日 岡山へ疎開、岡山市内で空襲を受け転居
8月13日 勝山の谷崎潤一郎を訪ねる
8月30日 東京に向かう
9月1日 熱海和田浜南区1374番地 木戸正方に移る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 67 1月16日 市川市菅野258番地に転居
7月25日 ラジオの音が気になり始める
8月28日 相磯凌霜の別邸を訪ねる
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
68 1月6日 小西宅に転居
10月19日 近隣の神社祭礼を訪ねる



「春日神社」
春日神社>
 ここからは市川の観光案内になります。熱海でも観光案内でしたが、市川でも荷風はひたすら歩いて回ります。「断腸亭日乗」の昭和22年10月からです。
「…十月十九日。日曜日。近巷諸処の神社祭礼なり。菅野の白旗天神。平田の胡篠神社。新田の春日社いづれも社頭に幟を立つ。たまく春日社の幟を仰ぎ見るに慧眼輝光岡好一乗之妙経ととなせし下に関東鵬斎亀田興休手拝書とあり。鵬斎の楷書を見るは珍し。電車にて海神に行き薄暮にかへる。
〇十月二十日。午後より雨。燈刻扶桑書房来話。…」

 ここでは市川市新田5−1の春日神社です。荷風が「断腸亭日乗」で書いている神社やお寺は殆どが現存しています。私は余り詳しくないのですが、亀田鵬斎という江戸時代の書家(独特の書法で有名)の書いた幟(慧眼輝光岡好一乗之妙経)があったということで、非常に珍しいと書いています。「市川よみうり」というホームページではこの幟は所在不明だと掲載されていました。

写真の小道を少し入ったところに春日神社があります。神主は白幡天神社が兼ねているようです。

「胡録神社」
<胡録神社(胡簶神社)>
 次に紹介する神社は胡録神社です。荷風の「断腸亭日乗」には”胡簶神社”と書かれていますが、”胡録(籙)神社”のことだとおもわれます。「断腸亭日乗」の昭和22年10月からです。
「…十月十九日。日曜日。近巷諸処の神社祭礼なり。菅野の白旗天神。平田の胡簶神社。新田の春日社いづれも社頭に幟を立つ。たまく春日社の幟を仰ぎ見るに慧眼輝光岡好一乗之妙経ととなせし下に関東鵬斎亀田興休手拝書とあり。鵬斎の楷書を見るは珍し。電車にて海神に行き薄暮にかへる。
〇十月二十日。午後より雨。燈刻扶桑書房来話。…」

 上記の「断腸亭日乗」は春日神社と同じです。胡録神社は市川市内にもう一社、市川市市川にあります。こちらの胡録神社は現在の住所では新田にあるのですが、当時は平田(右隣の町名)だったのだとおもいます。

右の写真が現在の胡録神社です。現在の住居表示で市川市新田1−3にあります。神主は白幡天神社が兼ねているようです。

「諏訪神社」
<諏訪神社>
 最後が市川市平田の諏訪神社です。昭和22年に住んでいた小西邸からは一番近い神社だったとおもいます。京成菅野駅側です。「断腸亭日乗」の昭和21年8月からです。
「…八月初三、時又陰、午前隣室のラヂオ既に騒然たり、頭痛堪難ければ出でゝ小川氏を訪ふ、午後小川氏来り話す、夕飯後机に向ふに家内のラヂオ再び起る、鉛筆手帳を携へ諏訪神社の林下に至り石に腰かけて数行を草する中夜色忽迫り来り蚊も亦集り来る、…」
 入り口は上記の神社全てが千葉街道沿いにありました。今回の諏訪神社は入り口は小さいですが中はかなりの広さでした。

正面が平田の諏訪陣神社です。手前の道路は千葉街道になります。鳥居を入っていくと、一本小道を超えて本殿になります。かなり広い神社でした。こちらの神主は葛飾八幡宮が兼ねているようです。

次回は市川駅付近と弘法寺、手児奈堂を歩きます。