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●永井荷風の編奇館を歩く-
    初版2009年1月10日 <V01L01> 暫定版

 2009年の掲載は、「青山二郎を歩く」と、「永井荷風散策」、「太宰治を巡って」の更新を平行して掲載する予定です。今週は「永井荷風散策」の更新で、「編奇館を歩く」を掲載します。麻布市兵衛町付近と編奇館跡の場所を特定しています。次回からは戦後の荷風を数回に分けて詳細に掲載します。


「編奇館跡」
編奇館>
 2001年に永井荷風の「断腸亭から編奇館までを歩く」を掲載しましたが、今回からは、より詳細に更新版を掲載する予定です。今回の参考図書は、秋庭太郎の「永井荷風」に関する全ての図書と、永井永光さんの「父 永井荷風」、大岡昇平全集17です。
「…十一月八日。麻布市兵衛町に貸地ありと聞き赴き見る。帰途我善坊に出づ。此のあたりの地勢高低常なく、岨崖の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景を示したり。西の久保八幡祠前に出でし時満月の昇るを見る
十一月十二日。重て麻布市兵衛町の貸地を検察す。帰途氷川神社の境内を歩む。岨崖の黄葉到処に好し。日暮風漸く寒し。
十一月十三日。市兵衛町崖上の地所を借る事に決す。建物会社社員永井喜平を招ぎ、其手続万事を依頼せり。来春を侯ち一廬を結びて隠棲せんと欲す。夜木曜会運座に往く。
五月廿三日。この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだひに来らる。麻布新築の家ペンキ塗にて一見事務所の如し。名づけて
偏奇館といふ。…」
 「断腸亭日乗 第一巻」から、永井荷風が新居を麻布市兵衛町に決定し、引っ越すまでを抜き出しました。永井荷風は麻布市兵衛町に決めるまでに、芝白金三光町の売家や小石川金富町の売地等を見ていますが、やはり一番良かったのが麻布市兵衛町だったのでしょう。

左上の写真は御組坂から泉ガーデンタワーを撮影したものです。この付近は再開発で永井荷風が住んでいたころからはすっかり変わってしまっています(下記に地図を掲載しています)、下図は昭和16年の地図で、その上に茶色で薄く書かれているのは現在の地図です。赤く書かれたところが編奇館跡です。編奇館跡は現在の泉ガーデンタワー正面のところになります。写真前の通り右側に「編奇館」の記念碑があります。

「御組坂下跡」
御組坂>
 永井荷風の編奇館については様々の方が書いていますが、ここでは大岡昇平に登場してもらいます。「大岡昇平全集17 小林秀雄の世界」からです。
「…麻布市兵衛町二丁目の家の二階で、洋吉さんにこの童謡を説明して貰ったのを憶えている。それは谷町へ向っ
て降りる坂の中途の家で、電線は二階とほぼ同じ高さである。雨の日なら、電線にいっぱい雨の珠がついて、ゆ
っくり坂下へ動いて行く。次の電柱に行き着く手前で、勾配は逆になるから、少しためらってから、ぽとりと落
ちる。
 ……そのうち同じ市兵衛町の中で一丁目六番地に引越した。これは
偏奇館の向って左側、箪笥町の方へ降りかかる坂の一段下ったところにある平屋である。
 偏奇館を訪れる美人のうわさが出、震災後の自警団に自らお出ましになる荷風散人の風貌を洋吉さんは教えてくれたが、小説は書棚になかった。荷風はその頃殆ど書いていなかったし、われわれは大正文学一般を軽蔑していた。…」

 ここに登場する「洋吉」さんとは、七歳年上の従兄で、学生時代には大岡昇平とかなり親しい間柄でした。その従兄が市兵衛町に下宿していたのです。

左上の写真は2001年頃の御組坂下です。田中邸横から御組坂は下っていくわけですが、当時は真っ直ぐに下がって少し登ると編奇館跡、坂下で左に曲がると従兄の下宿を通って、フィンランド公使館から今井町電停までいけるわけです。現在はこの坂道は無くなっています。

「御組坂」
<「考證 永井荷風」 秋庭太郎>
 永井荷風に関しては昭和41年9月に発行された秋庭太郎の「考證 永井荷風」が一番詳しく書かれています。秋庭太郎はこの後、「永井荷風傳」、「荷風外傳」、「新考 永井荷風」、と書かれています。これ以上、永井荷風について詳しく書かれたものは見たことがありません。
「…十一月初旬、荷風は麻布市兵衛町に貸地を見分したが、同月十三日に麻布市兵衛町一丁目六番地崖上の貸地を借受けた。借地證書の控が現在大島家に保存されてゐるが、これによれば、借地九拾九坪三合七勺、借地料一ケ月拾七圓八拾九銭、地主は廣部清兵衛。地内には椎の大木、竹林もあり、崖下に眺められる町家の屋根には茅葺屋根もあって、附近は猶閑雅な趣きを残してゐた。…」
 借地は約100坪ですから、18×18平方メートル強の広さです。あまり広くありませんね(現在の建売から見ると広い!)。

もう一人、永井永光さんが、戦前に編奇館を訪ねたときのことを書かれています。
「…偏奇館に行くときは、代々木駅から省線で渋谷に出、渋谷から都電に乗り換えました。
……今井町で降りて、御組坂という、道源寺坂の一本手前を通って偏奇館に向かいました。山形ホテルのあった窪地あたりは、同心が数多く住んでいたそうです。現在ある全日空ホテルから飯倉のほうに抜ける道は当時まだなく、フィンランド大使館のほうから上がっていきました。今井町からけっこう距離があり、子どもの足で十五分はかかりました。…」

 下記の地図を見てもらうとよく分かります。都電の今井町停留所は地図の左端真ん中辺りにあります。次に通るのがフインランド大使館(漢字では”芬蘭土”と書きます)で、御組坂を上がれば編奇館です。

右の写真は2001年頃の御組坂上から坂下を撮影したものです。写真中央奥には泉ガーデンタワーが建設中です。現在の御組坂上からの写真を掲載しておきます。



昭和16年と現在の市兵衛町付近地図



永井荷風の昭和年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 永井荷風の足跡
大正8年
1919
松井須磨子自殺 40 11月 麻布区市兵衛町1-6に土地百坪を借りる
大正9年 1920 蒋介石北伐を開始
NHK設立
41 5月 新居完成、5月23日引越し、偏奇館と名付ける
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
65 3月22日 杵屋五叟(大島一雄)の次男永光を養子とする
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに引越す
5月25日 空襲で焼け出され、宅氏邸に身を寄せる
6月3日 明石へ疎開する



「市兵衛町巡査派出所跡」
市兵衛町巡査派出所>
 永井荷風は市兵衛町付近の事柄を断腸亭日乗に書いています。今回は秋庭太郎の「考證 永井荷風」からです。
「…その二十一日の荷風目録に、「市兵衛町曲角交番の巡査関口某来りて短冊を請ふ。この巡査五年前余の麻布に乗りし當日訪ひ来りてより一年に兩三度短冊を持来りて句を請ふ。商估にあらざれは請はるゝまゝに駄句を書して輿ふ。」とあるが、翌年二月十四日には同じく鳥居坂警察署の中村刑事が色紙を持参して荷風に揮毫を依頼してゐる。荷風は所轄警察署の人々と顔馴染となってゐて、深夜掃宅の際にも誰何されることがなかつたといふ。「麻布鳥居坂警察署市兵衛町巡査派出所」と書かれた市兵衛町曲角の交番は今次の戦火にも焼けず、派出所廃止となった今日も猶そのまゝに残ってゐる。…」
 ということで、麻布鳥居坂警察署市兵衛町巡査派出所を探したのですが、交番は無くなっていました。跡地は分かりましたので掲載しておきます。

写真正面のビルはアーク八木ヒルズです。このビルの左角に麻布鳥居坂警察署市兵衛町巡査派出所がありました。最も、鳥居坂署も無くなっていますが。

「山形ホテル跡」
山形ホテル>
 永井荷風がお客を食事に連れて行ったのがこの「山形ホテル」でした。谷越えでしたが直ぐ近くになります。断腸亭日乗からです。
「…正月元日。晴れて風なけれど寒気の甚しきこと京都の冬の如し。去年の日記を整理し、入浴して後椅子によりてうつらくと居眠る中、日は早くも傾きたり。松道子と晩餐を共にすることを的したれば、小星を伴ひ山形ホテルに往く。池田大伍子を待ちしが来らず。市川荒次郎、河原崎長十即、市川桔梗、市川延八等と、黄金の盃を挙げて災後の新春を祝す。黄金盃は松喜子多年大入袋の金子を貯蓄し、これを純金に替へしものなりと云。去年罹災の際門弟之を取出せしなり。十一時過家に帰る。…」
 山形ホテル跡は現在マンションになっています。

写真正面のマンションの所が「山形ホテル」跡です。マンションの角のところに「山形ホテル」の記念碑がありました。

「道源寺坂」
道源寺坂>
 市兵衛町付近で唯一昔のまま残っているのがこの「道源寺坂」です。この坂にはお寺が二寺あり、当時のまま残っています。断腸亭日乗から昭和20年3月9日のB29空襲について引用します。
「…三月九日、天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、
……時に七八歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人主を導き住友邸の傍より
道源寺坂を下り谷町電車通に出で溜池の方へと逃しやりぬ、余は山谷町の横町より霊南坂上に出で西班牙公使館側の空地に憩ふ、
……小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、隣家のフロイドルスペルゲル氏どてらにスリッパをはき帽子もかぶらず逃げ来るに逢ふ、…」

 市兵衛町付近の様子をよく表しています。隣家のフロイドルスペルゲル氏については初めて読んだ気がします(断腸亭日乗の何処かに書いてあったような気もします)。上記地図の左やや下側に「長垂坂」がありますので、空襲の火は、左下側から右上に延焼したのだとおもわれます。西班牙公使館はスペイン大使館のことです。

右側の写真は現在の道源寺坂です。右側は道源寺で、下側に西光寺があります。六本木ニ丁目付近からの写真も掲載しておきます。

「住友邸跡(泉屋)」
住友邸(泉屋)>
 編奇館の右上側には住友邸が、右下には田中邸がありました。空襲下のこの付近の様子が分かります。
「…是偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり、火は次第にこの勢に乗じ表通へ焼抜け、住友田中両氏の邸宅も危く見えしが兵卒出動し宮様門内の家屋を守り防火につとめたり、蒸汽ポンプ二三台来りしは漸くこの時にて発火の時より三時間程を経たり、消防夫路傍の防火用水道口を開きしが水切にて水出でず、火は表通曲角まで燃えひろがり人家なきためこゝにて鎮まりし時は空既に明く夜は明け放れたり、…」。」
 住友邸の向い側には東久邇宮邸がありました。現在の住友邸跡は泉屋博古館となっています。泉屋は住友家の家号ですので、今も住友家と関係があるようです。

左上の右側が泉屋博古館です。住友邸跡は殆どが公開の緑地となって泉ガーデンタワーへの道があります。

次回の「家風散策」は戦後を歩きます。



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