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●永井荷風の熱海を歩く
    初版2009年2月21日 <V01L01>

 今回から「永井荷風の戦後を歩く」を数回に分けて更新します。永井荷風に関しては戦時中を詳細に更新してきましたので、今回から戦後の永井荷風を更新してみます。先ずは、昭和20年8月末、岡山から東京に戻りますが、頼りにしていた五叟一家が熱海に疎開していたため、熱海に向かいます。


「断腸亭日乗」
<断腸亭日乗 岩波書店版>
 平成14年(2002)に発刊された、岩波書店版の「断腸亭日乗」です。荷風全集は、旧版を持っています。新版の荷風全集は購入しなかったため、「断腸亭日乗」のみ、新版を購入しました。やっぱり新しい本の方が良いです。
「…停車場の構内は休戦以来自主除隊の兵にて雑遷すること甚しく、わが乗るべき列車の如き定刻に発するものは知らぬ間に廃され新なる臨時列車亦容易に来らず、待つこと二時間、わづかに貨物車の空しきものあるを見てこれに飛び乗り夜九時大阪の駅に著す、こゝにて東京行乗替の車を待つこと更に亦数時間、翌朝未明に至り初めて乗ることを得たり、呉軍港より放たれて帰る水兵にて車中雑沓す、…」
 「断腸亭日乗」の第六巻から、昭和20年8月30日の岡山駅の様子を書いています。岡山から大阪へは貨車に乗ったようです。夏だったから何とかなったのでしょう(午後4時に乗って夜9時に大阪着、5時間掛かっています)。大阪−東京間は列車本数も多いとおもいますので、困らなかったようです(ただし、大阪から東京まで14時間以上掛かっています)。

写真は新版の「断腸亭日乗」第六巻です。全巻ありますが、昭和20年は第六巻なので、写真も第六巻にしてみてました。装幀が何となく気品があります。最初は図書館で必要なところをコピーしていたのですが、手元にないと不便だとおもい、購入しました。

「鈴木薬局」
<鈴木薬局>
 米軍は昭和19年(1944)7月、マリアナ群島を占領し、B29による日本本土への爆撃を可能とします。それまでは中国内陸部の西都より、九州地区の爆撃をおなっていました(航続距離の限界)。昭和19年11月になると、マリアナ群島から初めての日本本土爆撃が始まります。東京空襲は昭和20年1月に銀座地区、3月10日は下町地区を中心に大空襲となりました。編奇館もこのときに焼け落ちます。この辺りの話は「荷風 昭和20年 夏」を参照してください。代々木の五叟宅(写真正面のマンションの所)は、空襲を免れていましたが、昭和20年5月の空襲で焼け出され、代々木駅前の鈴木薬局に避難します。
「…夜七時過品川の駅より山の手線に乗換をなし渋谷の駅にて村田氏に別れ、余は代〻木の駅前なる鈴木薬舗方に間借をなせる五叟を尋ぬ、然るに五叟は既に三十日程前熱海木戸氏方に転居してこゝには在らずと、鈴木氏のはなしに余は驚愕し又狼狽するのみ、雨いよく降りまさり風雨にならむとす、鈴木氏に歎願して一夜を其家の三階にあかす、五叟は何故転居せしことを報知せぎりしにや、人情の反覆波瀾に似たり…」
 五叟一家が5月の空襲後、避難していたのが代々木駅前の鈴木薬局でした。しかし長くは居れず8月には熱海の木戸氏邸に疎開します。この熱海への疎開の連絡が荷風に伝わっていなかったようです。当時は郵便事情も悪く(空襲で郵便列車が襲われればそれで終わりです)、封書やはがきが届かなかったことも多かったようです。

写真は現在の代々木駅西側駅前です。当時とは道幅も変わってしまっていますが、鈴木薬局は現存していました。写真の正面ビル一階に鈴木薬局の看板が見えます。


永井荷風の東京地図 -11-


永井荷風年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 青山二郎の足跡
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
66 3月9日 東京空襲、偏奇館焼ける。
3月10日 原宿の杵屋五叟宅に身を寄せる
4月15日 東中野文化アパートに転居
5月25日 駒場の宅孝二に身を寄せる
6月2日 明石に疎開
6月11日 岡山へ疎開、岡山市内で空襲を受け転居
8月13日 勝山の谷崎潤一郎を訪ねる
8月30日 東京に向かう
9月1日 熱海和田浜南区1374番地 木戸正方に移る
昭和21年 1946 日本国憲法公布 67 1月16日 市川市菅野258番地に転居



「木戸正方」
熱海和田浜南区1374番地 木戸正方>
 代々木駅前の鈴木薬局で五叟一家の疎開先を聞いた後、一泊させてもらい、熱海に向かいます。昭和20年9月2日のことです。
「…九月初六、晴また陰、五叟子の借りて住める木戸氏の家は熱海和田浜南区といふ山手の町はづれに在り、二階の窓より東方に海湾、北より西の方に熱海来の宮あたり停車場の設けられし峰巒を望む、南の方にもまた近く山ありて朝夕秋雲の去来するを見る、海上に日の昇る光景頗偉大にして、夜はまた山間に散在する人家の燈影劇場の背景に似たり、熱海の勝景はこのたび余の初めて観ることを得しところなれど、何の故にや岡山市郊外の田園に於けるが如く其印象優美ならず、即ち余の詩情を動すべき力に乏しきが如し、殊に家屋道路海辺の埋立地の如き寧目にすることを欲せざる処もあり、…」
 この辺りのお話は五叟家の次男 永光さん(永井永光さん)が「父 荷風」で詳細に書いていますので読んで頂ければとおもいます。

写真の川を越えた正面辺りに木戸邸があったとおもわれます。左上の建物は大野屋ですから、裏手付近になります。詳細の地図は永光さん(永井永光さん)の「父 荷風」に書かれていますので参照してください。

「昭和町郵便局」
天神町郵便局>
 昭和20年後期の「断腸亭日乗」には”天神町郵便局”の名前がしばしば登場しています。
「…午飯の後天神町郵便局の角より道の行くがまゝ石径を登る、都人の別荘農家と相交る、軈て渓水揚々として流るゝところ小橋を柴す、道登ること漸く急にして細径四方に分れて林間に入る、名坂温泉機関室とかきし札下げたるペンキ塗の小屋あり、鉱泉を汲上げ鉄管にて人家に送る設備をなすなるべし、山腹皆耕されて粟稗のたぐひを植ゆ、彼岸花到るところに欄漫たり、忽にして一小祠の樹陰に立てるを見る、児童に間ふに今宮恵比須神社なりと言ふ、常夜燈華表また御手洗の年号を見るに皆明治以後のものなり、別路を下るに二三町にして寓居の門前に近き人家の裏手に出でたり…」
 天神町という町名は現在はなく、昭和町になっていました。当時の天神町付近の地図と見比べたところ、同じ場所に郵便局がありましたので、間違いないとおもいます。上記に書かれている「今宮恵比須神社」は郵便局から和田川を渡って南西に登っていくとあります。

左上の写真が現在の昭和町郵便局です。当時は天神町という町名でしたので天神町郵便局だったとおもいます。

「興禅寺」
興禅寺>
 永井荷風は熱海をよく歩いています。観察力が鋭く、よく見て調べているとおもいます。
「…老松の下に小さき石地蔵多く立並びたり、石級を登るに石の門柱あり、茅葺きの堂ありて玄関の柱に臨済宗興禅寺の表札を掲げたり老松の下に寺の縁起を記したる石を立つ、其文を読むに小説家大仏次郎の撰するものなり、堂後また石級あり、山上の墓地に至る…」
 輿禅寺を訪ねたところ、上記に書いてある通り、赤い前垂れをした石地蔵が並んでいました。大仏次郎の件はよく分かりませんでしたので再度調べてみます。

正面が石地蔵です。階段を上がる興禅寺です。

「海蔵寺」
海蔵寺>
 海蔵寺は坪内逍遙のお墓があるので有名ですね。
「…昼食の後寓居の主人五里父子と相携へて海蔵寺に至り梛の古木を見る、樹下に坪内博士の碑あり、稲門の教授金子馬治の撰文を刻す、普及篆額は三村竹清の筆なり、渓流をわたり博士の旧宅双柿舎の門前を過ぎ来の宮の古詞に賽す、社殿は近年回禄の災に躍り臨時の堂舎を存するのみ、堂後に有名なる樺の大木あり…」
 ここからは熱海の観光案内になってしまいます。海蔵寺から双柿舎の前を通り、来の宮神社まで行くわけです。

写真の階段を上がると海蔵寺です。階段の右側に「坪内逍遥先生御墓所」と書かれた石碑があります。坪内逍遥のお墓も掲載しておきます。

「温泉寺」
温泉寺>
 こちらも観光案内です。”郵便局の裏手の温泉寺”と書いてあったので郵便局を探しましたが、近くにはありませんでした。
「…郵便局の裏手なる温泉寺に成嶋柳北の撰文藤原藤房卿の碑ある由聞きゐたれば行きて見る、寺は来の宮の方に登り行く坂の中途、渓流にかけたる翠橋と云ふ石橋を前にして石段の上に温泉寺の扁額をかゞけし門をひかへたり、門内に驚くべき一株の古松あり、俗に藤房公手栽の松と称ふるもの即これなるべし、境内に石碑二三あれど柳北先生の文を刻せしものを見ず、湯河原堂地蔵尊の左側に華頂山買主徹定の文、大内青轡の書を刻せし石あり、柳北の文なりと云ふは此碑のことなるべし、別にまた一碑あり、昭和十五年富豪藤原銀次郎の建立、竹越三叉の文を刻す、猶門内石橙の左側に伊藤春弘の五言律詩陸軍大将小磯某の書を刻せしものもあり…」
 温泉寺の境内にある石碑について、お寺の方に尋ねようと思ったのですが、誰もいらっしゃらないようだったので、聞けずに終わりました。再度訪ねたときに聞いてみたいとおもいます。

左上の写真が温泉寺です。手前に糸川と翠橋があります。石碑については”陸軍大将小磯某の書”が分かりました。階段を上がる途中の左側にありました。

「熱海 山王ホテル跡」
熱海 山王ホテル>
 中央公論の嶋中氏と会食をしています。当時の文壇としては、永井荷風は重鎮だったのでしょう。当時は本を出版さえすればいくらでも売れる時代でした。
「…十月初七日曜日 時ゝ雨ふる、晩間嶋中氏に招かれ其宿泊する山王ホテルに至りて晩餐を共にす、米軍の将校とも見ゆる青年七八名食事をなせり、人品さして卑しからず、食後酒場のカウンターに侍り給仕の少女を相手に日本語の練習をなす、日本の軍人に比すれば其挙動遥に穏和なり、九時頃一同静に階段を登りて各自の室に入れり、雨また降り来りし故電話にて雨傘と提灯とを寓居より取寄せ辞してかへる、嶋中氏明朝帰京すと云、」
 熱海の山王ホテルは、お茶の水の山王ホテルの支店だったとおもいます。建物はもう無くなっていますので当時の絵はがきの写真を掲載しておきます。

右側の写真は熱海山王ホテルの看板です。現在は建物はなく、看板だけが何カ所かありました。

次回は永井荷風の千葉を歩きます。


荷風の熱海地図(谷崎潤一郎の熱海地図を参照)



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