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最終更新日:2006年4月23日

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●永井荷風の「寺じまの記」を歩く(上) 初版2006年3月18日 <V01L02>

 久しぶりに永井荷風を歩いてみます。「墨東奇譚」といきたい所ですが、まず最初は「寺じまの記」を歩いてみました。関東大震災から復興した浅草から路線バスで墨東を経由し玉ノ井を訪ねます。


<荷風随筆集(上)「寺じまの記」>
 「寺じまの記」は永井荷風が昭和11年4月に発表した随筆です。浅草雷門前(当時は雷門は焼けて無かった)から玉ノ井行きの路線バスに乗り、吾妻橋から源森橋を渡り、向島の見番前を通って白鬚橋(「寺じまの記」では白髯橋で、当時の地図では白鬚橋)から玉ノ井へ向かいます。荷風はこの「寺じまの記」で路線バスから見える墨東の風景を詳細に描写しています。「…向島の私娼街、玉の井である。…… 玉の井は大正時代になって開けた新開地である。関東大震災で浅草の十二階下にあった私娼街が焼け、いわゆる銘酒屋が隅田川を渡って移動してきて、昭和に入ってにぎわうようになった。吉原のような歴史のある花街とは違う。場末の私娼街である。荷風はそこにこそ「荒廃の詩情」を感じた。昭和十一年になって足繁くここに通うようになり、「通り抜けられます」 の看板がかかる迷路のような道にも精通し、地図まで書けるようになった。『寺じまの記』(昭和十一年)はその玉の井散策記である(「寺じま」とあるのは、玉の井の町名が寺島町だったため。…」。これは、かの川本三郎が書いた「荷風語録」の中の戦前の作品の解説です。玉ノ井は吉原のような遊廓とは少し違うイメージになります。

左の写真は岩波文庫の「荷風随筆集(上)」です。この文庫本は「日和下駄 他十六編」と書かれている通り「日和下駄」が中心なのですが、後半に「寺じまの記」が入っています。「…「晴れた春の日の日比谷公園に行くなかれ。雨の降る日に泥濘の本所を歩こう」(『曇天』)という荷風は、忘れられた場所、見捨てられた場所にこそ詩情を見つけだす。この”廃滅のロマンチシズム”とでもいうべき荷風の陋巷趣味は、『日和下駄』 のときから一貫して変らない。あの東京散策記のなかでも荷風は繰返し、路地や横町といった”小さな東京”の良さを語った。表通りの喧騒から遠去かり、小さな路地のなかに入りこむ。そして忘れられた町角に「荒廃の詩情」を見る。…」。これも川本三郎の「荷風語録」からなのですが、荷風の雰囲気が良く書かれています。


<雷門>
 「寺じまの記」は浅草雷門前から始まります。最も雷門は当時は無かったのですが!「…雷門といっても門はない。門は慶応元年に焼けたなり建てられないのだという。門のない門の前を、吾妻橋の方へ少し行くと、左側の路端に乗合自動車の駐る知らせの棒が立っている。浅草郵便局の前で、細い横町への曲角で、人の込合う中でもその最も烈しく込合うところである。 ここに亀戸、押上、玉の井、堀切、鐘ヶ淵、四木から新宿、金町などへ行く乗合自動車が駐る。暫く立って見ていると、玉の井へ行く車には二種あるらしい。ーは市営乗合自動車、一は京成乗合自動車と、各その車の横腹に書いてある。市営の車は藍色、京成は黄いろく塗ってある。案内の女車掌も各一人ずつ、腕にしるしを付けて、路端に立ち、雷門の方から車が来るたびたびその行く方角をきいろい声で知らせている。…」。昭和11年には京成バス(当時は京成乗合自動車)や都バス(市営乗合自動車)は走っていたのですね。浅草郵便局の場所も変わっています。現在は田原町の交差点にあります。

左上の写真が現在の雷門です。雷門の左右には現在もバス停留所はありますが、玉ノ井行(現在の東向島行)は現在はありません。浅草発の墨堤通りを通る路線バスは亀有行のみのようで、乗り場も雷門付近にはなく、寿町四丁目交差点近くにあります。亀有行京成バス停留所の写真を掲載しておきます。

kafuu00-w.jpg<源森橋>
 雷門前から京成バスに乗り、吾妻橋を渡り本所吾妻橋交差点を左に曲がって源森橋へ向かいます。「…車は吾妻橋をわたって、広い新道路を、向嶋行の電車と前後して北へ曲り、源森橋をわたる。両側とも商店が並んでいるが、源森川を渡った事から考えて、わたくしはむかしならば小梅あたりを行くのだろうと思っている中、車掌が次は須崎町、お降りは御在ませんかといった。降る人も、乗る人もない。車は電車通から急に左へ曲り、すぐまた右へ折れると、町の光景は一変して、両側ともに料理屋待合茶屋の並んだ薄暗い一本道である。下駄の音と、女の声が聞える。…」。当時は都電(市電)が通っていて、向島三丁目が終点だったようです(少しあやふやです)。バスは言問橋東の交差点を過ぎて旧須田町で左に曲がりすぐに右に曲がり墨堤通りへ向かいます。向島の料亭街を走るわけです。

右の写真は源森橋を渡る浅草寿町行京成バスです。亀有行きの京成バスの写真ならよかったのですが、時間が合わず逆方向の写真となりました。

<弘福寺>
 三囲神社を左に見て、向島の見番を過ぎると左手が弘福寺となります。「…車掌が弘福寺前と呼んだ時、妾風の大丸髷とコートの男とが連立って降りた。わたくしは新築せられた弘福禅寺の堂宇を見ようとしたが、外は暗く、唯低い樹の茂りが見えるばかり。やがて公園の入口らしい処へ陰って、車は川の見える堤へ上った。堤はどの辺かと思う時、車掌が大倉別邸前といったので、長命寺はとうに過ぎて、むかしならば須崎村の柳畠を見おろすあたりである事がわかった。しかし柳畠にはもう別荘らしい門構もなく、また堤には一本の桜もない。両側に立ち続く小家は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。…」。弘福寺の北側が桜もちで有名な長命寺となります。墨堤通りを走り、大倉別邸前(現在は大倉財閥系の共栄倉庫があり、建物の前に記念碑がありました)を左に見て走ります。

左の写真の左側が弘福寺です。向島の見番は後ろになります。長命寺は少し先の左側です。

<地蔵坂>
 京成バスはどんどん走り、大倉別邸前の次の停留所が小松嶋、地蔵坂となります。「…車は小松嶋という停留場につく。南外套の職エが降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪というのは、むかし百花園や入金へ行く人たちが堤を東側へと降りかける処で、路端に石地蔵が二ツ三ツ立っていたように覚えているが、今見れば、奉納の小さな幟が紅自幾流れともなく立っている。淫祠の興隆は時勢の力もこれを阻止することが出来ないと見える。行手の右側に神社の屋根が樹木の間に見え、左側には真暗な水面を燈火の動き走っているのが見え出したので、車掌の知らせを待たずして、白髯橋のたもとに来たことがわかる。橋袂から広い新道路が東南に向って走っているのを見たが、乗合自動車はその方へは曲らず、境を下りて迂曲する狭い道を取った。…… わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭を取っていた時分のことを恩返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。…」。地蔵坂には墨堤通りの右側に地蔵があります。その先右側は白鬚神社となり、大正通りへ入るため、墨堤通りから左に折れて白鬚橋の袂をぐるっとまわります(下記の地図参照)。

右の写真は地蔵坂停留所です。クリックして拡大すると墨堤通りの先の右側に白鬚神社の森が見えます。

<郵便局>
 白鬚橋の袂をぐるっと右に曲がり、大正通りに入ります。「…女車掌が突然、「次は局前、郵便局前。」というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『大菩薩峠』の幟を翻す活動小屋が立っていて、煌々と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。商店の中で、シャツ、エプロンを吊した雑貨店、煎餅屋、おもちゃ屋、下駄屋。その中でも殊に灯のあかるいせいでもあるか、薬屋の店が幾軒もあるように思われた。…」。今でも商店街が続いている通りですが、昔ほどではないようです。上記に書かれた郵便局は現在でもありますが、場所は東に200m移っているようです。当時の郵便局跡は現在の白鬚橋病院ではないかとおもいます。向かい側の活動小屋は当然ありませんでした。

左の写真の正面が現在の墨田白鬚郵便局です。白鬚橋病院の写真も掲載しておきます。病院の前に当時は活動小屋があったわけです。写真の道を真っ直ぐ走ると玉ノ井となります。

続きは来週掲載します。

「寺じまの記」地図




【参考文献】
・断腸亭日乗(上)(下):永井荷風 岩波書店
・永井荷風ひとり暮し:松本はじめ 朝日文庫
・永井荷風極楽:松本はじめ 三省堂
・荷風散策:江藤 淳 新潮社
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風と東京:川本三郎 都市出版


●永井荷風の「寺じまの記」を歩く(下) 初版2006年4月8日 <V01L01>

 今週は「 愛と死をみつめて」の特集で遅れていました「寺じまの記」の後半を掲載します。前回は雷門前から京成バスで白鬚郵便局までを掲載しましたが、今週は玉ノ井周辺を歩いてみました。


<永井荷風の昭和>
 半藤一利も永井荷風について「永井荷風の昭和」で書いています。特に玉ノ井については近くに住んでいたこともあり第四章の「ああ、なつかしの墨東の町」で詳しく書いています。「…これが書かれた昭和十一年、わたくしはまだ六歳。すぐ隣りの吾嬬町に住むものとして、「ぬけられます」の寺島町の一角が気になる場所と、やたらに意識されたのはさらに四五年あと、ということになる。…… はっきり憶えているのは、ごたごた建て連らなった商店街の間の路地ロの頭上に「ぬけられます」「安全通路」「京成バス近道」など、横に書かれた看板がいくつもかけられていたこと。 もっとも昼であったから灯りはついていない。人通りのあまりない細道に入ると、縦横に交り合い、左右に曲りくねって、両側に軒をつらねた小さな家がならび、家には小さい窓がついていて、前にくさい泥溝があって……窓から女の人が真っ白い首を長々とさしだして、光った金歯をみせて二ヤリとした。 「まだ早いよ。毛が生えてからおいで」 泡を食って転ぶように逃げた源頼光と四天王、大通りの商店街に飛びでたら、眼の前に下駄屋と瀬戸物屋が隣り合わせで並んでいた。その屋号が金玉屋と万古屋であった。ホラ話よと思われるのが自然であるが、ほんとうの話なんである。玉の井とはそんなふざけた町であったと記憶している。…」。”金玉屋と万古屋”の話はほんとうなのでしょうか。今こんな名前を付けたら大変なことになります。

左上の写真は文春文庫の半藤一利「永井荷風の昭和」です。前回は川本三郎の「荷風語録」でしたが、此方もなかなか面白いです。「…荷風がはじめて玉の井の路地を歩いたのは、『日乗』によれば昭和七年一月二十二日ということになる。 《四木橋の影近く見ゆるあたりより堤を下れば寺嶋町の陋巷なり。道のほとりに昭和道玉の井近道とかきたる立札あり、歩み行くこと半時間ばかり、大通を中にしてその左右の小路は悉く売笑婦の住める処なり》 とあり、立寄った女のはなしから、 《玉の井の盛場は第一区より第五区まであり、第一区は意気向の女多く、二区三区には女優風のおとなし向が多し、祝儀はいずれも一二円なりという》 とさっそく取材十分。このあたりはいかにも荷風さんらしいが、このときはかくべつの興味もひかれなかった。偶然の立寄りといっていい。…」。まるで玉ノ井の観光案内です。「断腸亭日乗」は読んでみると本当に面白いですね。当時の時代背景がよく分かります。

<玉ノ井>
 玉ノ井は川本三郎がいうように遊廓というよりは場末の赤線、私娼街といった方がピッタリかもしれません。「…わたくしはふと大正二、三年のころ、初て木造の白髯橋ができて、橋銭を取っていた時分のことを恩返した。隅田川と中川との間にひろがっていた水田隴畝が、次第に埋められて町になり初めたのも、その頃からであろうか。しかし玉の井という町の名は、まだ耳にしなかった。それは大正八、九年のころ、浅草公園の北側をかぎっていた深い溝が埋められ、道路取ひろげの工事と共に、その辺の艶しい家が取払われた時からであろう。当時凌雲閣の近処には依然としてそういう小家がなお数知れず残っていたが、震災の火に焼かれてその跡を絶つに及び、ここに宝の井の名が俄に言囃されるようになった。…」。赤線、玉ノ井の発祥です。元々は浅草だったようです。この付近は空襲ですっかり焼けてしまいます。戦後は焼けなかった鳩の町の方に移ったようですが、一部、旧玉ノ井の北側にも移っていたようです。その当時の家並みがまだ少し残っていました。

右上の写真は現在の墨田三丁目、旧寺島町七丁目北側付近です。空襲で寺島町は全て焼けてしまいますが戦後いち早く復興したところです。


kafuu00-w.jpg<東武電車踏切>
 京成バスは郵便局前から東武電車踏切に向かいます。この踏切の右側に旧玉ノ井駅(現在の東向島駅)がありました。「…忽ち電車線路の踏切があって、それを越すと、車掌が、「劇場前」と呼ぶので、わたくしは燈火や彩旗の見える片方を見返ると、絵看板の間に向嶋劇場という金文字が輝いていて、これもやはり活動小屋であった。二、三人残っていた乗客はここで皆降りてしまって、その代り、汚い包をかかえた田舎者らしい四十前後の女が二人乗った。 …」。東武電車の踏切を超えると右側に向嶋劇場があったようです。

右の写真は東武電車踏切を西側から撮影したものです。現在は商店街が少しあります。

<京成バス車庫>
 踏切を超えると京成バスは100m少しで玉ノ井車庫前終点となります。まつたく玉ノ井に行くためのバスですね。「…車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、動き出したかと思う間もなく、また駐って、「玉の井車庫前」と呼びながら、車掌はわたくしに目で知らせてくれた。わたくしは初め行先を聞かれて、賃銭を払う時、玉の井の一番賑な処でおろしてくれるように、人前を憚らず頼んで置いたのである。 車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨店などの中で、薬屋が多く、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。…」。関東大震災後の復興でこの玉ノ井が繁栄したのでしょう。永井荷風が訪ねた昭和7年から11年頃は凄かったとおもいます。

左の写真の右側辺りに京成バス車庫がありました。現在は全く面影がありません。商店とビルになってしまっています。

<満願稲荷と玉ノ井館>
 空襲で焼けてしまっていますが、少しは当時の風景が残っていました。「… 左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語りの名を染めた職が二、三流立っている。その鄰りに常夜燈と書いた灯を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影の見えない二階家が立ちつづいていて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた灯が出してある。…」。玉ノ井館跡はお店になっていました。ただ、満願稲荷は建物は新しいですが当時の場所に残っていました。

右の写真は京成バス車庫の向かい側です。正面やや右側の建物が玉ノ井館跡です。正面を左側に入ると満願稲荷があります。左側にフジカラーの看板が見えますが、この天下堂は当時からあるお店のようです。

<東向島交差点>
 「向じまの記」では、帰りは改正道路(現在の水戸街道)から帰ります。「…道の真中に突然赤い灯が輝き出して、乗合自動車が駐ったので、其方を見ると、二、三輌連続した電車が行手の道を横断して行くのである。踏切を越えて、町が俄に暗くなった時、車掌が 「曳舟通り」と声をかけたので、わたくしは土地の名のなつかしさに、窓硝子に額を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。…」。上記の踏切は東向島交差点近くの東武電車踏切となります。昭和8年の「新大東京全図」によると当時の市電終点はは東向島交差点近くにあったようです。駅名は向嶋です。

左の写真は東向島交差点から東武のガードを撮影したものです。手前側が言問橋方面になります。昭和8年に発行された「新大東京全図」から寺島町付近の地図を下記に掲載しておきます。京成電鉄に向島駅(今は無い)があり、そこから白鬚橋に向けて白鬚線という支線が作られていました。昭和3年に完成しましたが昭和11年には廃止されています。永井荷風が通っていたころは電車が走っていたようです。

この後「荷風 20年 夏」を改版、更新します。

昭和8年の寺島町付近地図




【参考文献】
・断腸亭日乗(上)(下):永井荷風 岩波書店
・永井荷風ひとり暮し:松本はじめ 朝日文庫
・永井荷風極楽:松本はじめ 三省堂
・荷風散策:江藤 淳 新潮社
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風と東京:川本三郎 都市出版

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