kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ | メー ル 

最終更新日:2006年2月19日

koutouku-title1.gif


●永井荷風の「深川の散歩」(第一回) 初版2001年4月1日 V02L02

 三名の作家の深川を追いかけて見たいと思います。今週は第一回目として永井荷風の「深川の散歩」に沿って散歩してみたいと思います。この「深川の散歩」の最後に”甲戌十一月記”と書いてあります。特に”甲戌”が分からないと思いますが干支の読み方で”きのえいぬ”と読み、昭和9年のことです(永井荷風55歳)。

fukagawa1w.jpg<清洲橋>
 「…清洲橋という鉄橋が中洲から深川清住町の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立むと、商の方には永代橋、北の方には新大橋の構わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また上手には万年橋が小名木川の川口にかかっている。…」は永井荷風の「深川の散歩」の書き出しです。私も初めて徒歩で清洲橋を渡ったのですが、橋の上からの眺めはすばらしく、人通りも少なく散歩には最適ではないでしょうか、昔からこのあたりは交通の便が悪い所で、そのため人通りも少ないようです。今は都営大江戸線が開通してやっと便利になりました。私も今回は京浜東北線の浜松町で大江戸線に乗り換え、「清澄白河駅」まで乗りました。今までは東京駅で営団東西線に乗り換えて「門前仲町」で、またバスに乗り換えていたことを考えると圧倒的に便利になりましたね!

左の写真が清洲橋です。清洲橋は関東大震災後の復興計画に基づき、昭和3年(1928)に架けられています。長さ186.22m、幅22mのつり橋で、ドイツのケルン市のライン川に架かるつり橋をモデルとした優雅な曲線をもっています。名前は深川区清住町と日本橋区中洲町を結んだところから名づけられました。


fukagawa2w.jpg<万年橋>
  「…或日わたくしはいつもの如く中洲の岸から清洲橋を渡りかけた時、向に見える万年橋のほとりには、かって芭蕉庵の古址と、柾木稲荷の社とが残っていたが、震災後はどうなったであろうと、ふと思出すがまま、これを尋ねて見たことがあった。…すぐさま万年橋をわたると、河岸の北側には大川へ突き出たところまで、同じような平たい倉庫と、貧しげな人家が立ちならび、川の眺望を遮断しているので、狭苦しい道はいよいよせまくなったように思われてくる。わたくしはこの湫路の傍に芭蕉庵の址は神社となって保存せられ、柾木稲荷の嗣はその筋向いに新しい石の華表をそびやかしているのを見て、東京の生活はいかにいそがしくなっても、まだまだ伝統的な好事家の跡を絶つまでには至らないのかと、むしろ意外な思いをなした。…」この橋もなかなか古くて趣があります。橋の西側が隅田川に面しているため、万年橋からの富士の眺望はすばらしく、広重や北斎の錦絵により富士とともにこの橋の優美な姿がうかがます。今でも橋の上から清洲橋を方を見ると、隅田川と共に”なかなか”のものです。清洲橋の向こうには読売新聞のビルが見えます。

右の写真が現在の万年橋です。万年橋は、小名木川の隅田川に最も近くに架けられている橋で、江戸時代から現在とほぼ同じ位置に架けられています。当時は、北側を深川元町、南を海辺大工町といい、架橋年代は不明ですが、延宝八年(1880)の江戸図に、「元番所のはし」と書かれている事から、すでに架橋されていたようです。この橋のすぐ右側に水門があり、そこから旧六間堀に分かれていました(今は埋め立てられています)。


fukagawa5w.jpg<長慶寺>
 「東森下町には今でも長慶寺という禅寺がある。震災前、境内には芭蕉翁の句碑と、巨賊日本左衛門の墓があったので人に知られていた。その頃には電車通からも横町の突当りに立っていた楼門が見えた。この寺の墓地と六間堀の裏河岸との間に、平家建の長屋が秩序なく建てられていて、でこぼこした歩きにくい路地が縦樅に通じていた。長屋の人たちはこの処を大久保長屋、また湯潅場大久保と呼び、路地の中のやや広い道を、馬の背新道と呼んでいた。」とありますが今ではビルが立ち並び、表通りからは長慶寺は全く見えません。また寺の墓地自体がなくて、残念ながら日本左衛門の墓も見つける事が出来ませんでした。お寺は二階建てになっていて、とても昔の面影は見いだせません。

左の写真が長慶寺です。写真の一角全てが長慶寺ですが、裏の方にも墓地がありませんでしたので、何処か別の場所にお墓だけ移ったのかも知れません。日本左衛門は、江戸中期東海道筋を荒らし回った盗賊で本名を浜島庄兵衛といい、宝永五年(1708)遠州磐田で生まれています。盗賊団の首領でしたが、延享三年(1746)京都町奉行所へ自首し、江戸送りとなり江戸町奉行能勢肥後守の裁きをうけ、同四年(1747)に江戸火付盗賊改めの徳山五兵衛により、市中引廻しの上、伝馬町で処刑されています。首は遠州磐田の見附宿にさらされていますので、ここは胴体だげの墓だったと思います。現在は墓はありませんが、墓石は置船形であったといわれています。長慶寺の開基は徳山五兵衛ですので、五兵衛により墓が作られたのでしょうか。また日本左衛門(歌舞伎では日本駄右衝門)は、歌舞伎の白浪五人男の一人としても有名です。


fukagawa6w.jpg<弥勒寺(みろくじ)>
 「六間堀と呼ばれた溝渠は、万年橋のほとりから実直に北の方本所竪川に通じている。その途中から支流は東の方に向い、弥勒寺の塀外を流れ、富川町や東元町の晒巷を横ぎって、再び小名木川の本流に合している。下谷の三味線堀が埋立てられた後、市内の堀割の中でこの六間堀ほど暗惨にして不潔な川はあるまい。わが亡友A氏は明治四十二年頃から三、四年の間、この六間堀に沿うた東森下町の裏長屋に住んでいたことがあった。」とありますが、ここに書かれている六間堀とは、小名木川と竪川を結ぶ水路で、下の地図にもあるように森下一丁目から分かれている堀は五間堀と呼ばれています。どうして間違えたのでしょうか?

右の写真が弥勒寺です。桜がとてもきれいに咲いていました。五間堀が開削されたのは、六間堀と同様に万治年間(1658〜60)か、これ以前であったようです。深川村の開拓は、慶長年間(1596〜1614)といわれ、また小名木川も同時期のようです。名称は、川幅が五間(約9m)であるところから付けられたもので、六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。五間堀は、江戸時代には、富川町(森下3丁目)までで堀留(袋小路)となっていましたが、明治10年(1877)頃に、小名木川まで通されています。戦後この水路も、だんだん利用されなくなり昭和30年に埋立が許可され、一部が五間堀公園となり、他は宅地と道路になっています。


続きは二回目以降に・・・今日は疲れた〜 ・・

深川付近地図


【参考文献】
・家風随筆集(上、下):岩波文庫
・永井荷風:新潮日本文学アルバム
・永井荷風の愛した東京下町:近藤富枝  JTB
・荷風と東京:川本三郎 都市出版
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風散策:江藤淳 新潮社
・寺島町奇譚:滝田ゆう 筑摩書房
・墨東綺譚:永井荷風 岩波文庫
・江東区の文化財:江東区教育委員会

【交通のご案内】
・都営大江戸線/新宿線「森下駅」下車徒歩10分
・都営大江戸線「清澄白河駅」下車10分

【所在地】
・長慶寺:東京都江東区森下2-22-9
・弥勒寺:東京都墨田区立川1-4-13


●永井荷風の「深川の散歩」(第二回) 初版2001年4月7日 V02L01

 今週は先週に引き続き永井荷風の「深川の散歩」に沿って深川から冬木町を歩いてみたいと思います。この「深川の散歩」の最後に”甲戌十一月記”と書いてあります。特に”甲戌”が分からないと思いますが干支の読み方で”きのえいぬ”と読み、昭和9年のことです。

fukagawa12w.jpg 「…むかしの黒江橋は今の黒亀橋のあるあたりであろう。即ちむかし閻魔堂橋のあったあたりである。…かつて明治座の役者たちと共に、電車通の心行寺に鶴屋南北の墓を掃ったことや、そこから程遠からぬ油堀の下流に、三角屋敷の祉を尋ね歩いたことも、思えば十余年のむかしとなった。…災後、新に開かれたセメント敷の大道は、黒亀橋から冬木町を貫き、仙台堀に沿うて走る福砂通と称するもの。また清洲橋から東に向い、小名木川と並行して中川を渡る清砂通と称するもの。この二条の新道が深川の町を西から東へと走っている。また南北に通ずる新道にして電車の通らないものが三筋ある。…昼中でも通行く人は途絶えがちで、たまたま走り過る乗合自動車には女車掌が眠そうな顔をして腰をかけている。わたくしは夕焼の雲を見たり、明月を賞したり、あるいはまた黙想に沈みながら漫歩するには、これほど好い道は他にない事を知った。それ以来下町へ用足しに出た帰りには、きまって深川の町はずれから砂町の新道路を歩くのである。」が「深川の散歩」の中で、清澄公園から仙台堀川を超えて深川町から冬木町方面を書いたものです。昭和9年頃は震災の後でもあり、深川から先は清砂通(現在の清洲橋通り)と福砂通(現在の葛西橋通り)の新道しかなく(永代通りもなかった)、何もなかったようですね。

<五世鶴屋南北墓>
 五世鶴屋南北は、寛政8年(1796)に生まれ、嘉永5年(1852) 57歳で没しています。五世南北は、四世南北(大南北、1705〜1829)の婿勝兵衛の養子で、俗に孫太郎南北と呼ばれていたそうです。初めは俳優を志し、享和2年(1802)11月に「当奥州萎碑」で、子役として初舞台を踏んでいます。後に作家に転じ、文政4年(1821)から河原崎座に見習として勤め、その後同座の看板作家となり、天保8年(1837)3月、市村座で鶴屋南北を襲名し、11月から河原崎座の立作者になっています。

左の写真の右から数えて2つ目が五世鶴屋南北の墓です(戦災で少し黒くなったお墓です)。深川2丁目の心行寺にあります。お墓の場所がなかなか分からなかったのですが、お寺の方(住職の奥様?)が丁寧に教えてくれました。それでもなかなか分からず2回も聞きに行きました。困った訪問者だったのではないでしょうか。


fukagawa10w.jpg<閻魔堂>
 「丁度所も寺町に、娑婆と冥土の別れ道、其身の罪も深川に、橋の名さえも閣魔堂、こんな出合いもそのうちに、てっきりあろうと、ふところえ、かくしておいたこのあいくち、刃物があれば鬼に金棒どれ血まぶれ仕事だ覚悟しろ」は近世の名劇作家河竹黙阿弥の傑作のひとつで「髪結新三」の狂言「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)」の大詰め、髪結新三が閻魔堂橋の上でで源七に言う名セリフです。髪結新三は明治6年、五代目尾上菊五郎のために書いたもので、河原崎座で上演され好評を博しています。

右の写真は現在の閻魔堂です。閻魔堂橋とは、昭和50年に埋め立てられた油堀川に架かっていた清澄通りの橋のことです。油堀川は今は首都高速9号深川線になっています。又閻魔堂橋の本名は富岡橋のことで、近くに法乗院の閻魔堂があったのでこの橋を通称「えんまどう橋」と呼んでいたようです。閻魔堂の「えんまさま」は、大正12年の関東大震災で焼失しています。なお、この富岡橋(江戸切絵図参照)は、明治34年まで架けられていた橋の名前で、市区改正事業で、同じ位置に新橋が架けられて、黒亀橋と称していました。現在の閻魔堂は法乗院に入ってすぐ左側にあり、中に電動式の賽銭箱があります。賽銭を自分のお願い事(交通安全とか)に入れるとお言葉が聞けます。ほんとですよ〜自動的に。


fukagawa13w.jpg<三角屋鋪跡(東海道四谷怪談の舞台)>
 三角屋鋪は、元禄12年(1699)までの材木置場(元木場)の一部でしたが、同14年(1701)に本所上水請負人の吉右衛門という老の拝借町屋敷となっています。名称の由来は不明ですが、家作を建てたところ、「鱗形」だったのでそのころより三角屋鋪といわれるようになったようです。「御府内備考」三角屋鋪の項によると、「当町里俗三角と唱申侯右老町内鱗形二付右之通相唱 候由申伝侯」とあります。また「葛西志」には次のようにあります。「三角屋鋪は、富久町の南にあり、わづかばかりなる町にて、その形ち三角なれば、たゞちに名とすといへり。」なお、四世鶴屋南北作の「東海道四谷怪談」の四幕直助権兵衛は、この三角屋敷でおきた事件を題材にしているといわれています。(江東区の文化財より)

左の写真の正面のビルの所です。上記の説明通り三角形の形をしています。


fukagawa11w.jpg<冬木町弁天社>
 「冬木町の弁天社は新道路の傍に辛くもその祉を留めている。しかし知十翁が、「名月や銭金いはぬ世が恋ひし。」の句碑あることを知っているものが今は幾人あるであろう。(因にいう。冬木町の名もー時廃せられようとしたが、居住者のこれを惜しんだ事と、考証家島田筑波氏が旧記を調査した小冊子を公刊した事とによって、綾に改称の禍を免れた。)冬木弁天の前を通り過ぎて、広漠たる福砂通を歩いて行くと、・・・」とありますが、ここに書かれている 冬木町は 宝永2年(1705)に日本橋の豪商冬木氏が命名した町名で、その屋敷の中の鎮守が冬木弁天社でした。冬木家は姓を上田と称し、承応3年(1654)上田直次が上野国(群馬県)から江戸に出て、茅場町で材木商を営み、冬木屋と称し豪商となっています。冬木家が深川に来たのは、三代目弥平次が土地を買って移転して来てからです。宝水2年(1705)冬木家が戸田土佐守から、深川永代新田と海辺新田の土地合わせて、4万1千69平方メートルを千六百両で買い、冬木町としています。冬木弁天堂の本尊弁才天は冬木家の祖、五郎右衛門直次が、承応3年(1654)に、江州竹生島の弁才天の分霊を日本橋茅場町の邸内にまつり、宝水2年(1705)その孫弥平次がいまの土地に移したそうです。(江東辞典より)

右の写真が冬木弁天社です。「深川の散歩」に新道路(荒涼たる福砂通り)と呼ばれていた通りは現在は葛西橋通りと名付けられ、昔は清洲橋通りにあった葛西橋がこの葛西橋通りに付け替えられています。この葛西橋のお話は別の機会にしたいと思います。

深川付近地図



【参考文献】
・家風随筆集(上、下):岩波文庫
・永井荷風:新潮日本文学アルバム
・永井荷風の愛した東京下町:近藤富枝  JTB
・荷風と東京:川本三郎 都市出版
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風散策:江藤淳 新潮社
・寺島町奇譚:滝田ゆう 筑摩書房
・墨東綺譚:永井荷風 岩波文庫
・江東区の文化財:江東区教育委員会
・江東区辞典:江東区教育委員会

【交通のご案内】
・営団東西線/都営大江戸線「門前仲町駅」下車徒歩10分

【住所紹介】
・心行寺:東京都江東区深川2-16-7
・法乗院:東京都江東区深川2-16-3
・冬木弁天堂:東京都江東区冬木22-3

 ▲トップページ | ページ先頭 | 著作権とリンクについて | メー ル