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最終更新日:2006年5月22日

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●荷風 昭和20年 夏 明石から岡山へ(上)
  初版2000年8月
  二版2004年5月29日

  三版2006年5月13日 
<V02L01> 後楽園付近を追加

 昭和20年3月10日の東京大空襲で偏奇館が消失、都内を転々とした後、再び5月25日東中野のアパートでも空襲を受けています。その後空襲を避けて6月11日に明石を立ち、岡山に向かいます。



岡山駅>
 6月11日明石から岡山に向かいます。断腸亭日乗では「…六月十一日。晴。……飯後寺主をはじめ同宿の避難者に別を告げ夜半枕につく。暁三時半に起出で晩飯の残りたるを粥にして一、二碗を食し行李を肩にして寺を出づ。初発博多行の列車は難沓して乗るべからず。次の列車にて姫路に至りここにて乗つぎをなし正午岡山に着す。宅氏の知人最相氏の家に至り昼飯及晩飯の恵みに与る、此夜小学校講堂にて宅氏洋琴弾奏の会あり、雨中皆ゝと共に行く、帰り来りて最相氏の家に宿す。…」、と、どうにか無事に岡山に到着しています。この時まで岡山は空襲に遇っていませんでした。上記に書かれている”相良氏”は岡山では有名な方(郵便局関連で)だそうなのですが、戦前の岡山駅近くのお住まいはよく分かりませんでした。洋琴を聴きに行った小学校は岡山駅西口近くの石井小学校だとおもわれます。

左上の写真は現在の岡山駅東口(新幹線口)です。石井小学校のある西口は現在工事中でした。岡山駅西口の写真を掲載しておきます。


岡山市地図-1-




巌井下伊福の家>
 6月12日一泊だけ相良氏のお宅に泊まったようですが、13日になると菅原氏の紹介で銀行から現金を下ろし、宿を探し始めます。「…六月十三日、梅雨霏ゝ、午前菅原氏と共に其知人池田優子なる婦人を巌井下伊福の家に訪ひ昼飯を恵まる、此の婦人の世話にて住友銀行支店に行き三菱銀行新宿支店預金通帳を示し現金引出の事を請ふ、…」。この婦人の住まわれていた”巌井下伊福”は荷風が最後に岡山で下宿した所の近くになります。また、現金を下ろしに行った戦前の住友銀行岡山支店は現 野田屋町一丁目11、柳川交差点の北西角にありました。

左の写真は下伊福四三三の池田優子さん宅があった付近です。番地からするとこの付近なのですが、詳細の場所は分かりませんでした。

岡山ホテル>
 荷風は住友銀行岡山支店で当面の生活資金を引き出し、定住できる棲家を探します。「…引出金額一個月五百円かぎり、一回引出し金額金弐百円也と云、一同岡山ホテルに宿す、蚊多くして眠れ難し、六月十四日、陰、終日ホテルに在り、無聊甚し、午後復住友銀行に赴き支配人米沢氏に面会す、
六月十五日、細雨空濠、午前九時警報あり、大坂堺の辺襲撃せられしと云、菅原氏夫妻各知るべをたより借家借間をさかせども見当らず、この夜も空しくホテルに宿す、宿賃一日分税供金拾円也と云、…」
。岡山ホテルの一泊は10円ですから一回の銀行引き出しで10日間分でしかありません。これでは高すぎて生活できません。

右の写真の正面辺りに岡山ホテルがありました。柳川交差点の北東角になります。ですから住友銀行岡山支店の正面になります。この岡山ホテルの場所については、岡山市立図書館発行の「おかやまを語る」−岡山町並の残像−の中に”岡山ホテルと永井荷風”として書かれていました。

弓之町松月旅館>
 余りに岡山ホテルの宿泊費が高いので転居します。「…六月十六日、晴、停車場前の路傍に靴直し多く出づ、通りがゝりに立たずみて靴の修繕をなさしむ、古本屋にて菊池三渓の虞初新誌を買ふ、行李の中に漢文の書一冊もなければなり、午後ホテルの食膳あまりに粗悪なれば池田優子の来るを待ち、其の周旋にて弓之町松月といふ旅館に宿替をなす、…」。松月旅館は岡山ホテルから東に200m程の所です。少し路地にはいりますが場所的には殆ど変わりません。(松月旅館は空襲で焼けますが戦後建て直されています)

左の写真の正面から少し路地を入った所にありました(戦後の場所です)。この旅館に宿泊中に空襲に逢うことになります。「…六月廿八日。晴。旅宿のおかみさん燕の子の昨日巣立ちせしまゝ帰り来らざるを見。今明日必異変あるべしと避難の用意をなす。果してこの夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起れり。警報のサイレンさへ鳴りひゞかず市民は睡眠中突然爆音をきいて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き河原の砂上に伏して九死に一生を得たり。…」。旭川まで東に300m、其処から北に山陽本線の鉄橋まで1400mです。結構距離がありますね。

後楽園付近> 2006年5月20日追加
 荷風は暇に任せて岡山市内をあちこちと散策しています。「…六月十八日、晴、菅原君夫婦朝の中より出でゝ在らず、独昼飯を喫して後昨朝散策せしあたりを歩む、県庁裁判所などの立てる坂道を登り行くにおのづから後楽園外の橋に出づ、道の両側に備前焼の陶器を並べたる店舗軒を連ねたり、されど店内人なく半ば戸を閉したり、橋を渡れば公園の入口なり、別に亦一小橋あり、蓬莱橋の名を掲ぐ、郊外西大寺に到る汽車の発着所あり、…」。現在の岡山県立美術館の所に裁判所がありました。その先には後楽園に向う鶴見橋があります。上記に書かれている”後楽園外の橋”は鶴見橋のことだとおもわれます。鶴見橋を渡ると後楽園の入口です。後楽園の入り口を左に曲がると蓬莱橋です(下記の地図を参照)。この橋の先には当時は西大寺鉄道の後楽園駅があったようです(私は詳しくありません)。西大寺鉄道は昭和37年(1962)廃止となります。後楽園駅は現在は夢二美術館となっています。

右の写真は鶴見橋の手前から後楽園方面を撮影したものです。上記に書かれていた備前焼屋も健在でした。

京橋付近>
 「…六月二十日、晴、午前暑さ甚しからざる中菅原君と共に市中を散歩す、まづ電車にて京橋に至る、欄に侍りて眺るに右岸には数丁にわたりて石段あり、帆船自動船幅湊す、瀬戸内の諸港に通ふ汽船の桟橋あり、往年見たりし仏国ソーン河畔の光景を想ひ起さしむ、絵の道知りたらば写生したき心地もせらるゝ景色なり、水を隔てゝ左岸には娼楼立ちつゞきたり、中島町と称へて楼の前後皆水流なり、娼家の間を歩み小橋をわたりて対岸の楼に登る、…」。旭川にかかる京橋を渡ると花街となります。西中島、東中島と二つの島があり、両方ともが花街です。

左の写真の橋が京橋です。この橋を渡ると西中島となります。この橋の手前の右側が船着場となっていたようです。

次週は「荷風 昭和20年 夏 明石から岡山(下)」を掲載します。

岡山市地図-2-



●荷風 昭和20年 夏 明石から岡山へ(下)
  初版2000年8月
  二版2004年5月29日

  三版2006年5月13日

  四版2006年5月20日 
<V01L01> 暫定版

 昭和20年6月28日、荷風は岡山でも空襲を受けます。運が無いというか、東京から空襲を背負ってきたようです。それでも岡山市内北西部で空襲の被害を受けていないところに宿を見つけます。そして8月13日、勝山の谷崎潤一郎を訪ねます。



三門神社>
 6月28日の空襲から逃れて、やっと一息付ける宿を見つけます。宿は下宿なのですが、下宿の裏山には神社やお寺がありました。断腸亭日乗では「…墓地より小径を下ればわが寓居の裏手に出る道路なり。こゝより別の石径あり。三門神社の立てる丘陵の頂に登るを得べし。巌石崎嶇。松林欝蒼たり。山麓に鳥居を立てたるところは三門町二丁目の道路にして人家櫛比す。社殿の前の平地に立てば岡山市の西端に延長する水田及び丘皐を望む。備中総社町に至る一条の鉄路田間を走る。又前方南の方に児島湾を囲む山脉を見る。風景佳ならざるに非ず。然れども余心甚楽しまず。白雲の行くを見て徒に旅愁の動くを覚ゆるのみ。こゝに於て余窃に思ふに山水も亦人物と同じく親しみ易きものと然らざるものとの別あるが如し。明石より淡路を望みし海門の風光は人をして恍惚たらしむるものありLが今眼前に横はる岡山の山水は徒に寂寞の思をなさしむるのみ。一は故人に逢うて語るが如く一は路傍の人に対するが如し。。…」。上記には三門神社と書かれていますが国神社が現在の正式呼称のようです。小川を渡り階段を登って丘の上にある社殿に向います。丘の上からは岡山市内が一望できます。上記に書かれている通りなかなかの景色です。

左上の写真が国神社(三門神社)の入り口です。手前の小川はかなりの水量で流れていました。中に入るとすぐに階段があり、かなりの段数を登ります。


岡山市地図-1-




三門町佐々木方>
 6月28日の空襲で松月旅館が焼けてしまったため、岡山市内で再度、宿泊先を探します。「…六月廿九日。雨歇まず。焼残りし町を過ぎ下伊福四三三池田の家に至るにこゝも亦焼かれゐたり。されどあたりは曠然たる畠地にて池田の母子一同近郷の家に避難しゐたり。午後明石より帰来りし菅原永井智子の二人と偶然池田の許にて邂逅することを得たり。
六月三十日。雨。三門町二ノ五七二佐々木方に間借りをなす。…」。岡山市内で二番目に宿泊した池田優子氏宅の近くに宿を見つけます。

左の写真の正面の所が三門町二丁目五七二番地です。佐々木方は確認しています(現在は居られません)。国神社(三門神社)の前の道を少し西に歩いたところです。

武南功氏方>
 三門町佐々木方は長く滞在せず、直ぐに次の下宿を探しています。岡山最後の住いとなるのが武南氏宅です。「…七月初三。晴。巌井三門町一ノ一八二六武南功氏方に移る。庭に天竺葵の花灼然たり。毎夜サイレン人の眠を妨ぐ。…」。三門町の佐々木宅から200m程東に歩いて左に曲がった先ところに武南氏宅があります。国神社(三門神社)と妙林寺の間と言った方がいいかもしさません。

右の写真が武南氏宅がある三門東町付近です(直接の写真は控えさせていただきました)。

妙林寺>
 三門東町に移ってからも、荷風は散策を続けます。「…七月九日。快晴。雲翳なし。谷崎氏及宅昌叫氏に郵書を送る。午後寓居の後丘に登る。一古刹あり。山門古雅。また二王門ありて大乗山といふ額をかゝぐ。老松多し。本堂の軒にかけたる額を仰ぐに妙林寺とあり。法華宗なるべし。墓石の間を歩みて山の頂上に至れば眼下に岡山の全市を眺むべし。去月二十八日夜半に焼かれたる市街の跡は立続く民家の屋根に隠れ今は東方に聾ゆる連山の青きを見るのみ。…」。この寺も丘の上にあり、山門からの眺めはなかなかです。

左の写真が妙林寺の山門です。訪ねてみてお寺があまりに立派でびっくりしました。岡山一のお寺ではないのでしょうか。

<岡山から勝山へ (谷崎潤一郎を訪ねる)>
 荷風は昭和20年8月13日から15日にかけて当時岡山県勝山に疎開していた谷崎潤一郎を訪ねています。「…八月十三日、未明に起き明星の光を仰ぎつゝ暗き道を岡山の停車場に至るに、構内には既に切符を購はむとする旅客雑還し、午前四時札売場の窓に灯の点ずるを待ちゐたり、構外のところぐには前夜より来りて露宿するもの亦砂からず、余この光景に驚き勝山往訪の事を中止せむかと思ひしが、また心を取直し行列をつくれる群集に尾して仔立する事半時間あまり、思ひしよりは早く切符を買ひ得たり、一ケ月おくれの孟蘭盆にて平日より汽車乗客込み合ふ由なり、余は一まづ寓居に戻り朝飯かしぎこれを食して後、再び停車場に至り九時四十二分発伯備線の列車に乗る…」。キップを買うだけで大変です。岡山から伯備線で新見まで乗り、姫新線に乗り換えて勝山までいきます。岡山発9時42分で13時半頃に勝山に到着しています。

右の写真は谷崎潤一郎が勝山で疎開していた割烹「小野はる」(現在の旦酒屋さん)です。谷崎潤一郎は、終戦直前の昭和20年7月、戦火を逃れて勝山へ疎開。最初、割烹「小野はる」の離れに住み、その年の暮れには旅館「今屋」に転居。翌年京都に引き上げるまで約八か月間、勝山に滞在していました。勝山滞在中の谷崎潤一郎は、旭川河畔の散歩を楽しみ「今屋」の二階の書斎で「細雪」の下巻を書き上げました。割烹「小野はる」は現在は旦酒屋さんになっていました。

「…初めて細君に紹介せらる、年の頃三十四五歟、痩立の美人なり、佃煮むすびを馳走せらる、一浴して後谷崎君に導かれ三軒先なる赤岩といふ旅舎に至る…」。松子婦人と初めて合ったのですね。荷風好みの方ではないでしょう。
「…八月十四日。晴。朝七時谷崎君来り東道して町を歩む。・・・正午招がれて谷崎君の客舎に至り午飯を恵まる、小豆餅米にて作りし東京風の赤飯なり。・・・燈刻谷崎氏方より使の人釆り津山の町より牛肉を買ひたればすぐにお出ありたしと言ふ。急ぎ小野旅館に至るに日本酒もまたあたためられたり。細君下戸ならず。談話頗興あり。九時過辞して客舎にかへる。…」
。と勝山で歓待されています。気が利きますね。流石、谷崎潤一郎です。

 翌15日は終戦です。勝山から岡山に戻る日でしたが、岡山につくまで終戦のことを知りませんでした。「…八月十五日。陰りて風涼し。。…飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。…午前十一時二十分発の車に乗る。新見の駅に至る間随道多し。駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。…新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすぴに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。…午後二時過岡山の駅に安着す。S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、…休戦の祝宴を張り皆ミ酔うて蹴に就きぬ。〔欄外墨書〕正午戦争停止。…」

左上の写真の車が止まっている所が荷風が勝山で泊まった「赤岩」という旅館です。現在は民家になっていました。

詳細は「谷崎潤一郎の津山、勝山を歩く」を参照して下さい。

岡山市地図-3-



【参考文献】
・断腸亭日乗(上)(下):永井荷風 岩波書店
・永井荷風ひとり暮し:松本はじめ 朝日文庫
・荷風散策:江藤 淳 新潮社
・荷風語録:川本三郎 岩波書店
・荷風と東京:川本三郎 都市出版
・永井荷風の東京空間:松本はじめ 河出書房新社
・「おかやまを語る」−岡山町並の残像−;岡山市立図書館

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