<「火事息子」 久保田万太郎>
久保田万太郎が浅草物を得意にしているのは有名です。今回はその中でも特に有名な「火事息子」を参考にして歩いてみます。この「火事息子」は山谷の「重箱」をモデルにして書いています。
「…おれのところの先祖ッてものは、相州厚木の在の造り酒屋の二男坊で、名まえを儀平といったというんだが、それが、いつのまにか、儀兵衛になった。……儀兵衛のほうが、一応、もッともらしく聞えるからだろうナ。
……千住にあった鮒屋新兵衛という川魚問屋に住みこんだ。安全な主人もちになったッてわけだ。……で、ちゃんと、無事に何年かつとめ上げて、やがて暖簾をわけてもらい、大橋の近くに、メソヅコうなぎを焼いてうる屋台店をだした。……のが、鮒俵こと鮒屋儀兵衛というもののこの世に生れでたそもそもで、その後、また、何年か相立ち申したとき、浅草の山谷に、野放しどうようになってた地面をみつけ、それを安く買って、いまでいう食堂だ、入れごみの、気の張らない、手がる一式の、鯉こくとうなぎめしの店をはじめたとおはしめせ、だ。
これが、当った。
ところが、ここにおかしいのは、その地面うちに、小さな稲荷のお宮があった。伊勢屋、稲荷に、犬の糞といわれた位のものだから、そこにそんなお宮があったって、べつになにも不思議じゃァなかったんだが、その稲荷に、どういういわれがあったのか重箱稲荷″という、世にもめずらしい名まえが附いていた。…」。
久保田万太郎が何故、重箱をモデルにして「火事息子」を書いたかというと、重箱の主人、大谷平次郎と浅草小学校の同級生だったからです(「雷門以北」に書いています)。この二人はその後も付き合いが続き、戦後「重箱」が東京に戻ってきたときも、口上を書いています。今の「重箱」は鰻屋ですが、当時(大正以前)は川魚料理屋と書かれています。名前も上記に書かれているとおり、”重箱稲荷”から名前が付いたようです。
★写真は中央公論社の「火事息子」です。昭和31年9月から文藝春秋社の「オール読物」に掲載されたもので、新橋演舞場でも上演されています。