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●山谷 「重箱」を歩く
    初版2009年2月17日
    二版2009年7月21日 <V01L01> 旧軽井沢ゴルフクラブと料理の写真を追加

 今回は「青山二郎の世界」から少し離れて、戦前の浅草山谷を歩いてみました。青山二郎と全く関係がないことはなくて、鰻で有名な「重箱」と高級料理店「八百善」を歩きます。特に今週は「重箱」を中心に歩いてみました。写真を撮りきれなかったところもありますので、順次掲載していきます(「重箱」と「八百善」を知らないと面白くないかもしれません)。


「火事息子」
<「火事息子」 久保田万太郎>
 久保田万太郎が浅草物を得意にしているのは有名です。今回はその中でも特に有名な「火事息子」を参考にして歩いてみます。この「火事息子」は山谷の「重箱」をモデルにして書いています。
「…おれのところの先祖ッてものは、相州厚木の在の造り酒屋の二男坊で、名まえを儀平といったというんだが、それが、いつのまにか、儀兵衛になった。……儀兵衛のほうが、一応、もッともらしく聞えるからだろうナ。
……千住にあった鮒屋新兵衛という川魚問屋に住みこんだ。安全な主人もちになったッてわけだ。……で、ちゃんと、無事に何年かつとめ上げて、やがて暖簾をわけてもらい、大橋の近くに、メソヅコうなぎを焼いてうる屋台店をだした。……のが、鮒俵こと鮒屋儀兵衛というもののこの世に生れでたそもそもで、その後、また、何年か相立ち申したとき、浅草の山谷に、野放しどうようになってた地面をみつけ、それを安く買って、いまでいう食堂だ、入れごみの、気の張らない、手がる一式の、鯉こくとうなぎめしの店をはじめたとおはしめせ、だ。
 これが、当った。
 ところが、ここにおかしいのは、その地面うちに、小さな稲荷のお宮があった。伊勢屋、稲荷に、犬の糞といわれた位のものだから、そこにそんなお宮があったって、べつになにも不思議じゃァなかったんだが、その稲荷に、どういういわれがあったのか
重箱稲荷″という、世にもめずらしい名まえが附いていた。…」
 久保田万太郎が何故、重箱をモデルにして「火事息子」を書いたかというと、重箱の主人、大谷平次郎と浅草小学校の同級生だったからです(「雷門以北」に書いています)。この二人はその後も付き合いが続き、戦後「重箱」が東京に戻ってきたときも、口上を書いています。今の「重箱」は鰻屋ですが、当時(大正以前)は川魚料理屋と書かれています。名前も上記に書かれているとおり、”重箱稲荷”から名前が付いたようです。

写真は中央公論社の「火事息子」です。昭和31年9月から文藝春秋社の「オール読物」に掲載されたもので、新橋演舞場でも上演されています。

「山谷「重箱跡」」
山谷「重箱」>
 山谷の「重箱」については、様々な本に書かれています。今回は谷崎潤一郎です。「多磨」の昭和18年6月号に「白秋と私」と題して書かれた中に「重箱」が登場しています。
「…それは明治末期のことで、場所は常時青山北町にあった恒川陽一郎の家。たしか大貫晶川と私とが遊びに行ってゐたところへ、偶然興謝野大人が若き二人の愛弟子 ── 白秋氏と吉井勇氏とを伴って来られたのであったが、此の六人のうち今や勇氏と私とを除いて他は皆故人であると思ふと感慨に堰へない。その時私達は歌の会を開き、大人の講評を聴いたことであったが、中では「燕」と云ふ題で詠まれた白秋氏の歌の ── 「六波羅の大路にまろぶ油壷」と云ふ上の句だけを覚えてゐる。
その後、或る時吉原の朝帰りに、勇氏や長田(秀雄)氏などと
山谷の重箱で飲み、蒲焼の折詰を土産に提げて紫煙草舎時代の氏を訪ねたこともあったが、越えて氏の小田原在住時代、大正八九年頃の一二年間は私も小田原に住んでゐたので、自然最も氏と親しむ機合を持った。…」
 これらは、谷崎潤一郎が小田原十字町三丁目に住んでいたころなので、大正8年から10年頃だとおもいます。小田原事件が大正10年3月ですから、その前にります。又、上記に名前が登場する吉井勇氏はこの後、谷崎潤一郎と長い付き合いになります。京都の祇園「大友」跡の記念碑も吉井勇氏の詩です。「重箱」にも吉井勇氏は書いています。

「友も、われも、なほ華著にして、い往きたる、山谷重箱、ありやあらずや」

写真正面、やや左側のビルの所が山谷「重箱」跡です。当時の地番では山谷町十九番地となります。現在は東浅草二丁目17−17付近とおもわれます。下記の地図を参照してください(下記の地図は地番の入った震災前の地図に現在の地図を半透明にして重ねたものです。どうしてもピッタリとは合いませんでした。)。

「「八百善」跡」
「八百善」>
 吉野橋近くの「八百善」も掲載しておきます。「八百善」の詳細は別途掲載する予定です。山谷「重箱」の場所が分かりましたので、「八百善」の場所も必要かとおもいました。
「…私どもの商いの始まりについて、舅の八代目善四郎は、江戸もずっと昔、元亀(一五七〇〜一五七二)、天正(一五七三〜一五九一)のころ、徳川さんがまだ江戸に入城してこない以前から、善四郎という百姓が神田の福田村に住んでいたという言い伝えを話してくれた。
 ……屋号は神田福田村の、福田屋善四郎。元禄のころからは、八百屋善四郎がつまって通称八百善となり、その後は通り名の方が屋号になったということである。
 機嫌の悪いときは、昔のことを聞いても、「わかりゃしないやネ、そんな大昔のことは」とそっけなかった八代目であるが、なにやら気に入った茶道具でも手に入れて上々の機嫌のときは、九代目や姑と茶をたてながら昔話をしてくれた。八百善が浅草の新鳥越に移った時期については、こんな風に言っていたのを覚えている。
 「やはりなんだろうね、新鳥越に移ったのは明暦の大火(一六五七)のあとと言えるだろうね。吉原が盛んになってね、新鳥越付近は寺も多いし、大名家や金持などへの仕出し料理ぐらいから始まったのだろう。二代目善四郎のころは、もうずいぶんお出入りのお得意先も多かったろうね」…」

 栗山恵津子さんが書かれた「食前方丈 八百善物語」の中に、八百善の生い立ちが詳細に書かれていました。吉野橋近くに移ったのが、1600年後半といいますから、ビックリです。

写真正面の茶色いビル(城北信用金庫ビル)の所だとおもわれます。正面の通りは吉野通りで、戦前は浅草から千住に抜ける主要街道で、人通りも多かったようです。当時の地番で吉野町二一番地、現在で東浅草一丁目8−12付近です。


山谷地区地図(震災前の地図に現在の地図を重ねています)



「熱海「重箱」跡」
熱海「重箱」>
 関東大震災で山谷「重箱」は焼けてしまいます。当時の事は久保田万太郎の「火事息子」に詳細に書かれていますので、読んでください。震災後、しばらくして、山谷で小さな店を建てて復興しますが、昔ほどの商売は出来ませんでした。やむを得ず熱海に移ります。野々上慶一の「思い出の小林秀雄」からです。
「…その当時、小林さんは鎌倉の扇ケ谷に住んでいまして、私が訪ねると、「どうしたんだ?」 ときくので、「熱海に行く途中ですが、ちょっと寄りました」 と言いますと、「 ── ちょうどいいところに、君は来てくれた」 と言い、いま文藝春秋に頼まれて川端康成論を書いている最中だが、半分まできたが、あとどうにも進まぬ、気分を変えねば駄目だ、自分も熱海に行く、と言い出し、そしてニコッとして言いました。「仕事が終ったら、『重箱』で鰻を食いてえな、あそこはいいからな」。と言うことで、その時、一緒に熱海へ行きました。いま思えば昭和十六年の春のことです。
……翌日のお昼から「重箱」で、夕方まで、鯉のあらい、鰻の白焼、そして蒲焼と、食ったり飲んだりしました。小林さんは原稿を仕上げて、さっぱりしたのか御機嫌で、私もなにかさばさばした気分で酔ったのはおぼえていますが、あとどうしたのか、さっぱり思い出せません。…」

 山谷「重箱」は熱海の西山に移ります。鹿島組(現在の鹿島建設)が熱海西山に高級別荘地を分譲しており、高級店が欲しかったらしく、出店を依頼したようです。

写真の右側、木の繁った所が熱海「重箱」跡です。谷崎潤一郎が昭和19年4月に西山五九八番地に疎開してきます。熱海「重箱」から僅か数十メートルしか離れていない所でした。谷崎潤一郎も度々「重箱」を訪ねるようになります。

「旧軽井沢ゴルフクラブ」
軽井沢ゴルフ倶樂部前「重箱」> 2009年7月21日 写真を追加
 「重箱」が熱海に移る少し前に、軽井沢ゴルフ倶樂部前に出店しています。
「…昔、小林さんと食べた鰻といえば、いろいろありますが、旧軽井沢のゴルフ場前に店を出していた「重箱」、これは夏場、河上徹太郎さんたちとゴルフをやってはよく通った店で、いつも久留米絣を着て元気にサービスしてくれていたおかみさんと、すっかり馴染みになって…」
 昭和2〜4年頃のお話です。「重箱」は現在ある旧軽井沢ゴルフクラブの道路を隔てて反対側にあったとおもわれます。現在の「ホテル鹿島の森」の所だとおもいます。

写真は現在の旧軽井沢ゴルフクラブ(当時の軽井沢ゴルフ倶樂部)です。当時の軽井沢にはゴルフ場は軽井沢ゴルフ倶樂部しかありませんでしたので、場所も間違いないとおもいます。軽井沢出店も鹿島組(現在の鹿島建設)から出店依頼されたようです。
「…ある日、突然、其島姐″の勝兄さんという人がたずねて来た。……震災後、ちょうど、三年目のことで、何事かと思って逢うと、今度、軽井沢のゴルフ場のそばに、蕎麦屋だの、天麩羅屋だの、洋食屋だの、東京で有名な喰いものやの店をそろえたいと思う、ついては、ウナギの店を、是非、うけもってもらいたいのだが、というおもいもよらないはなしだった。…」

「赤坂「重箱」」
赤坂「重箱」>
 熱海に転居した「重箱」も昭和31年になると東京に戻ります。今度は、山谷ではなくて、歓楽街にほど近い赤坂の地でした。久保田万太郎が東京店開店の口上を書いています。
「「重箱」東京店 (口上)
 熱海、重箱主人五代目鮒屋儀兵衛こと大谷平次郎、このたび永年の念願かなひ、東京に店をもつことに相成りました。常人といたしては、八百善とゝもに山谷の重箱として、江戸のむかしからの東京の名物であった夢を、どこまでもとりもどしたいつもりでをります。何卒その意気をお買ひ下され、御支援お引立のほどを、卒攻部、子供の時分よりの友人といたして、常人に代り、わたくしよりおねがひ申上げるしだいでございます。
  昭和三十一年四月」

 良い場所にお店を開きました。多分、土地も購入されたのでしょう。現在の「重箱」は超高級店となっています。コース料理だけで、昼も夜も約2万円/人だったとおもいます。

現在の「重箱」です。赤坂二丁目十七番地です。本通りから少し入ったところありますので、赤坂ですが、静かなところです(お店の前にはちゃんと水が打たれていました)。お店には、山谷重箱時代の看板などが飾られていました。

「赤坂 重箱の料理」
<赤坂 重箱の料理> 2009年7月21日 写真を追加
 赤坂「重箱」の料理を食べてきました。コース料理ですので、順に料理が運ばれてくるのですが、”実にタイミング良く”、と言うのか、食べ終わっただけの間合いだけではない、間合いを見計らって、運ばれてきます。すばらしいです。料理の方は言うまでもなく、素晴らしいの一言です。

写真はメインの蒲焼です。白焼きも良かったのですが、やっぱりこの蒲焼が一番美味しかったです。ただ、コース料理の初めの方に登場する「鯉こく」は絶品でした。久しぶりの「鯉こく」だったのですが、こんなに美味しかったか!、とおもってしまいました。まあ、文句の付けようが無い料理でした。

  床の間に「文士の寄せ書き」がありました。谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤他のサインが見えました。素晴らしいです。


熱海地図(谷崎潤一郎熱海地図)



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