<「カール・ユーハイム物語」>
「ユーハイム」はドイツ人のユーハイム夫妻が創設したドイツ菓子のお店で、有名なので皆さん良くご存知だとおもいます。お二人はカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイム氏(Karl
Joseph Wilhelm Juchheim)とエリーゼ夫人(Elise)です。このお二人の「ユーハイム」創設を書いたのが「デモ私
立ッテイマス ユーハイム物語」です。”あとがき”にも書かれていますが、この出版時はまだご存命であったエリーゼ夫人の記憶と、関係者の皆様の記憶が頼りだったようです。特に初期の東京、横浜時代はエリーゼ夫人から聞き取らないと分からないことばかりだったとおもいます。昭和48年、「デモ私
立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行しています。いままで無償配布していたものを、内容をブラッシュアップし一般本化されたものとおもわれます。
頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」から、関東大震災とその後に神戸に向うところです。
「… 頭上には横浜いっぱいに広がった火勢にあおられた風が渦を巻き、燃えた畳や障子の断片を降らし続ける。熱さも熱いが、大火事のための酸素欠乏で、息が詰まるほど苦しい。一同は海岸にうつ伏して、空から降ってくる大きな火の粉を避け通した。
そんな中に谷戸の海岸に救援に来た最初の船から水が運ばれて来た。そして夕方六時、カール夫妻と赤ん坊は、外人被災者を収容に来た英国船ドンゴラ号まで誘導された。もちろん収容人員には制限があったが、生まれて七週間の女児とその母、足に大怪我をしているその夫一家は、優先的に乗船させられた。だが、ホビー、カールフランツの行方は依然不明のままだった。
この地震は、ちょうど昼食時であったため炊事の火からの火事が多く、そのため死人も多く出た。
E・ユーハイムでもお客九人のほか計十一人が悲しい犠牲になっていた。カールが耳にした
── 助けて! 助けて! という声も、その中の何人かだったに違いない。
被災者を船腹一杯満載した英国汽船ドンゴラ号は、九月六日いまは廃虚と化した横浜を見捨て、神戸に回航した。…」
★写真は昭和48年、「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行した本の表紙です。