●「ユーハイム」を歩く ~戸編
    初版2014年7月12日  <V01L01>  暫定版

 ユーハイムの神戸編を掲載します。東京・横浜編を掲載しましたので、残っているのは捕虜として収容所に入っていた大阪と広島の時期と、関東大震災後から終戦まで神戸で過ごした時期となります。今回は神戸でお店を開いた時期を中心に掲載します。


「ユーハイム物語」
<「カール・ユーハイム物語」>
 「ユーハイム」はドイツ人のユーハイム夫妻が創設したドイツ菓子のお店で、有名なので皆さん良くご存知だとおもいます。お二人はカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイム氏(Karl Joseph Wilhelm Juchheim)とエリーゼ夫人(Elise)です。このお二人の「ユーハイム」創設を書いたのが「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」です。”あとがき”にも書かれていますが、この出版時はまだご存命であったエリーゼ夫人の記憶と、関係者の皆様の記憶が頼りだったようです。特に初期の東京、横浜時代はエリーゼ夫人から聞き取らないと分からないことばかりだったとおもいます。昭和48年、「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行しています。いままで無償配布していたものを、内容をブラッシュアップし一般本化されたものとおもわれます。

 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」から、関東大震災とその後に神戸に向うところです。
「… 頭上には横浜いっぱいに広がった火勢にあおられた風が渦を巻き、燃えた畳や障子の断片を降らし続ける。熱さも熱いが、大火事のための酸素欠乏で、息が詰まるほど苦しい。一同は海岸にうつ伏して、空から降ってくる大きな火の粉を避け通した。
 そんな中に谷戸の海岸に救援に来た最初の船から水が運ばれて来た。そして夕方六時、カール夫妻と赤ん坊は、外人被災者を収容に来た英国船ドンゴラ号まで誘導された。もちろん収容人員には制限があったが、生まれて七週間の女児とその母、足に大怪我をしているその夫一家は、優先的に乗船させられた。だが、ホビー、カールフランツの行方は依然不明のままだった。
 この地震は、ちょうど昼食時であったため炊事の火からの火事が多く、そのため死人も多く出た。
E・ユーハイムでもお客九人のほか計十一人が悲しい犠牲になっていた。カールが耳にした ── 助けて! 助けて! という声も、その中の何人かだったに違いない。

 被災者を船腹一杯満載した英国汽船ドンゴラ号は、九月六日いまは廃虚と化した横浜を見捨て、神戸に回航した。…」


写真は昭和48年、「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行した本の表紙です。

「三宮町一丁目三〇九番地」
<神戸市生田区三宮町一丁目三〇九番地>
 ユーハイム一家が神戸に着いたのは大正12年9月7日〜8日頃だったとおもわれます。神戸に船で到着後、知合いであった塩屋のウイットの家に身を寄せています(現 神戸市垂水区)。関東大震災から一週間後で関西にも東京からの避難民が続々到着していた時期だとおもわれます。そんな中で、カール・ユーハイム氏は何処かで働くか、自身のお店を開くかの決断を迫られます。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。  
「… そんなことを考えながら、その日カールは、とぼとぼと三宮警察署<現生田警察署>前の通りを歩いていた。そして当時市電の営業所のあった現在のダイエーあたりまで来た時、ばったりロシアの有名な舞踊家アンナ・パブロバ夫人に会った。
「まア、横浜のユーハイムさんじゃないの」
「おう、パブロバ夫人。これは珍しい」
 話は当然のこととして、被災のすさまじさから始まり、次第に現実化して、家探し。職探し。 ── そこまで来るとパブロバ夫人は、カールの口を塞ぐような仕種で、至極無造作にこういった。
「そんなの心配ないわ。この家でお店開きなさいよ」
 彼女の指さしている家は、ビーフステーキで有名な弘養軒や橋本食堂の並びの東角、神戸っ子か
「サンノミヤイチ」と略称で呼んでいる三宮一丁目電停のすぐ前のレンガ建て三階の洋館だった。…

…  神戸市生田区三宮町一丁目三〇九番地。家主はチェック。名前はドイツ風だがフランス人で、夫人は日本人。娘のポーリン・チェックは三階にタップ・ダンスの教習場を開いていた。
 カールは急に忙しくなった。資金作りに駆け廻らなければならない。まず万国救済資金から千五百円借り、同じドイツの救済資金からも同額借り入れた。そして十月十五日。家主チェックとの契約を終った。といっても、はじめは一階だけの間借りであった。…」

 ”神戸市生田区三宮町一丁目三〇九番地”の場所は正確にわかっています。現在の地番で神戸市中央区三宮町1丁目4−1です。”三〇九番地”では分りませんでした。地番ではなく屋敷番号ではないかと推測しています。屋敷番号は明治初期から使われ初め、昭和5年頃までは使われていたようです。簡単に言えば建物に付いた番号です。今となってはこの番号の場所が分りません。”三宮一丁目電停”については、昭和10年頃までの地図では記載がありません。戦後の昭和29年頃の地図には記載があります。”三宮一丁目電停”は戦後の区画整理後、市電のルートが変ってから出来た停留所とおもわれます。丁度上記の写真の所附近です。

写真は”洋服の青山”、”ケーニヒスクローネ”前から北側を撮影したものです。京町筋商店街の入口、左側、ローソンの入っているビルのところが戦前のユーハイム跡です。京町筋を入って右側二軒目のアーバンテラス三宮ビルのところが工場跡となります(昔のコスモポリタンのところ)。今でも三宮の一等地です。当時、良くこの場所でお店を開く事が出来たとおもいます。

「三星堂喫茶跡」
<神戸元町六丁目の三省堂喫茶(三星堂が正しい)>
 神戸で新しい店を開店して以来、新しい顧客を開拓していきます。お菓子の人気が高く、顧客が寄ってくるのですから、商品作りだけを考えていれば売れた時代とおもいます。

 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「… 神戸三宮に開店して丸一年。大正十四年になると、ユーハイムの菓子は、大阪のレストランからも買いに来るようになった。大阪みなみ松竹座裏のコノミ。小さい洋食店だが、うまいもんの店で知られていた。
 その他、次々とユーハイムの菓子を売り出した店は、神戸元町六丁目の三省堂喫茶。エスペロ。新開地多聞通り八丁目停留所前のデリカッセン。栄町二丁目角のテンカ。元町のブラジレイロ。湊町のミカド。夙川のキリン屋。住吉駅前の近江屋などだった。…」

 上記の内、「三省堂(三星堂が正しい)」と「ビーハイプ」を歩いてみました。(順次調べていきますのでお時間を下さい)

 「三星堂」について神戸元町商店街のホームページより
「…元町通の喫茶店の第一号は、6丁目山側の薬局「三星堂」内に大正12年(1923)に開店した 「三星堂ソーダファウンテン」です。「三星堂」は同地に創業した市内の病院・市役所などに薬品を卸小売する薬局で、「三星堂ソーダファウンテン」は店主の熊田佐一郎が銀座の資生堂のソーダファウンテンを真似てオープンしたソ―ダ水等を製造販売する喫茶店でした。薬局の一角に開店するや入店待ちの行列客のために本通りに椅子を出し、大阪からもわざわざ客が来る盛況ぶり、そこで翌大正13年(1924)10月に70坪の店舗を大改築し、2階ワンフロアに70人の客が入店できる革のソファを置いた本格的な喫茶店、『神戸の画廊喫茶の草分け』『日本で最初に客にオシボリを出した喫茶店』として再スタートしました。…」
 かなり有名な喫茶店だったようです。

 神戸元町商店街のホームページより
「…「ビーハイブ」(今の1番街の山側にあった)
「川瀬日進堂書店」の2軒東隣、「宮崎ギフトショップ」の西隣(当時)にあった純米国式レストラン・カフェー。UA(ユナイテッド・アーティスツ)大阪支社勤務の20代の淀川長治(兵庫在住)が常連客で、映画愛好者が集まり映画談議に花が咲いた。
「エスぺロ」(3丁目の山側にあった)
「マスヤ」の隣の角にあり、開店が大正14年(1925)頃のカフェー。店主は外国航路の元船長で、「エスペロをまだ訪れて見ない方が神戸にありませうか?」の宣伝文句、「深夜の太陽」と呼ばれた美しい女給がいるモダンな店だった。しばしば個展が開催され、また詩人が集まった店はミルクコーヒーを「コンデッチ」という名で神戸で最初に売りだした。…」

 ここでは淀川長治が登場します。「ビーハイブ」は、業態は変っていますが現在もそのままの名称で同じ場所にお店があります。写真を掲載しておきます(看板元町一丁目通り)。「エスペロ」は元町三丁目山側、現在のパルパローレビル(写真右側)のところにありました。

写真は現在の元町六丁目、「キリンヤ」の左隣二軒目に三星堂がありました(現在の道路付近)。「キリンヤ」は当時からそのままですので、場所がよくわかります。「こうべ元町100年」の店舗の変遷を参考にしました。

「水源池の下の熊内二丁目」
<水源池の下の熊内二丁目>
 ここで、ユーハイム一家の住まいの変遷を追ってみました。神戸に到着して直ぐは塩屋のウイット家に居候しています。お店を借りてからは、お店を住まいとしていました。根性があります。昭和2年(1927)3月、ユーハイム夫妻はお店以外に初めて住まいを持ちます。神戸に来てから3年半が経っていました。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「…そしてはじめて店の外に自宅を持った。水源池の下の熊内二丁目、熊内八幡の下。はじめ同じドイツ人のフォクターがおり、そのあとボット夫人がいたというのだが純日本式の二階建ての家だった。家賃四十円。畳にテーブルという様式で、エリーゼは刺繍仕立ての四つの屏風を立てたり、大きな九谷焼の皿を床間に飾ったりして調和をつけた。日本に来てはじめて職場と切りはなれた自分の家を持ったエリーゼの喜びの表現だったろう。それは、カールを慰める何よりのものであった。…」
 銀座の喫茶店「カフェー・ユーロップ」の場所の表現でもそうでしたが、曖昧な記憶で書くので、場所が正確ではありません。上記の”水源地”は現在の熊内ポンプ室のことか、”熊内二丁目、熊内八幡の下”は場所が合致しません。”熊内二丁目”と”熊内八幡の下”は200m位はなれています。

写真の正面附近一帯が神戸市中央区熊内二丁目です。上筒井通りから北側を撮影しています。番地が分らないため詳細の場所は不明です。

「通称青谷」
<灘区上野字芋谷二四九ノ一二ノ一三>
 ユーハイム夫妻が昭和22年ドイツに強制送還される日まで住んでいた場所です。熊内町二丁目から北東に1.5Km程行ったところです。当時は分譲住宅だったようですが、現在では山の手の高級住宅街です。昭和8年(1933)9月のことです。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「… その月に、熊内の家から灘区上野字芋谷二四九ノ一二ノ一三の通称青谷に移転した。
 松村商事から建て売りの二階建一戸を買ったものだった。普通のペンキ塗の低い塀に囲まれ、西側は庭。コンクリートの道を二、三メートル入ると広い玄関。それがホールにつながり、山側に階段。
左にダイニングルーム。奥はリビングルームと台所。カタセマツ・アマの部屋。熊内の家と違って、畳はこの女中部屋だけの純洋式だった。
 大変変わっていたのは、ダイニングルームとリビングルームと並んだ窓外に、二本の旗竿が立っていたことだ。
 カール・ユーハイムは、ドイツの祭日はもちろん、日本の祭日にも、その二本の旗竿に両国の国旗を立てるのを習慣にしていた。
 風にはためく日独両国旗。それはカール・ユーハイムの人柄を象徴していた。それから十幾年の後、この二本の国旗が並んで世界を相手に第二次大戦の火蓋を切るのだが、カール・ユーハイムもその戦いを体で体験することになろうとは、想像もつかないことだったろう。 …」

 交通の便が余り良くありません。神戸市電に乗るには坂道を1Km弱程下り、上筒井二丁目の停留所まで行かないと乗れませんでした(帰りは登りで大変です)。当時、神戸市電は上筒井二丁目までしか来ていませんでした。阪急も三宮まで開通しておらず、この上筒井二丁目に駅がありました。三宮まで開通したのは昭和11年です。当時は交通の便が良くなかったので価格もそれなりだったとおもわれます。

写真の正面の道を少し入った左側が灘区上野字芋谷二四九ノ一二ノ一三です。この住所表記もよく分らないところがあります。”249”はこの附近一帯の地番のようです。”12−13”がよく分りません。戦後の地番の入った地図をみると12とか13はあるのですが、枝番には別れていません。13は写真の左角で、12はその上側になります。ですからこの付近と推定しました。

「ユーハイム夫妻の墓」
<カール・ユーハイムの死去>
 カール・ユーハイム氏は昭和20年8月14日に亡くなります。終戦勅書が内閣に回付され、各大臣が副署し手続きが終わったのが昭和20年8月14日午後11時なので、終戦日は14日なのですが、玉音放送があった15日が終戦日になっているようです。ですから亡くなられたのは終戦の一日前となります。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「… そのままカール・ユーハイムは死んでいたのだ。
 エリーゼが自らの悲しみに気がついたのは、それから大分過ぎてからのことだった。部屋の中は、夕闇と山の霊気がしんと淀んでいた。

 医師エー・フオン・チュートルの書いたカールの死亡診断書は、次の通りであった。
   死亡診断書
一、氏名      カール・ユーハイム
ニ、男女別    男
三、出生年月日 西暦千八百八十六年十二月二十五日生(当年五十九才)
四、職業     製菓業、家計主の職業 仝上 
五、死因別    病死
六、病名     中風症 
七、発病年月日 昭和二十年六月三日
八、死亡年月日 昭和二十年八月十四日午後六時
九、死亡場所   神戸市灘区六甲山、六甲ホテル百九号室
  右証明す
    昭和二十年八月十五日
        神戸市生田区北野町一丁目一三八番屋敷
            医師 エー・フォン・チュートル…」

 カール・ユーハイムの死後、その親族(エリーゼおよびカールフランツの妻子)は連合国軍最高司令官総司令部によって昭和22年(1947)ドイツに強制送還されます。第二次世界大戦中にエリーゼがドイツ婦人会の副会長を務め、かつドイツへ帰国した経験があること、カール・フランツがドイツ軍に在籍したことが問題視されたためです。昭和23年(1948)10月、かつて「JUCHHEIM'S」に勤務していた山口政栄・川村勇ら3人が同店の復興を目指して任意組合ユーハイム商店(1950年1月、株式会社に改組。1963年から株式会社ユーハイムに商号を変更)を設立。昭和28年(1953)3月にはエリーゼがドイツから戻り、帰国直後から会長に、1961年10月からは社長に就任します。エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、昭和46年(1971)5月2日に兵庫県神戸市で息を引き取ります。ユーハイム夫妻の墓は兵庫県芦屋市の芦屋市霊園にあります。(ウイキペディア参照)

写真が芦屋市霊園にあるユーハイム夫妻のお墓です。大きなお墓です。株式会社ユーハイムの方々が面倒を見ていられるのだとおもいます。場所が分りにくいので芦屋市霊園の地図に場所を記しておきます

 続きます。



昭和初期の神戸(谷崎潤一郎と堀辰雄の地図を参考)



神戸市中央区東部の地図



芦屋市地図(村上春樹の地図を流用)