●「ユーハイム」を歩く 東京・横浜編
    初版2014年5月31日  <V01L03>  暫定版

  横浜の居留地について調べていたら、ユーハイムのことを思い出したので少し調べてみました。カール・ユーハイム氏は第一世界大戦でドイツの捕虜として中国の青島から日本に連れてこられて、捕虜解放後も日本に滞在してドイツ菓子を日本に広めます。最初は東京で、次に横浜で、関東大震災後は神戸でドイツ菓子作りをします。


「ユーハイム物語」
<「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」>
 「ユーハイム」はドイツ人のユーハイム夫妻が創設したドイツ菓子のお店で、有名なので皆さん良くご存知だとおもいます。お二人はカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイム氏(Karl Joseph Wilhelm Juchheim)とエリーゼ夫人(Elise)です。このお二人の「ユーハイム」創設を書いたのがこの「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」です。”あとがき”にも書かれていますが、この出版時はまだご存命であったエリーゼ夫人の記憶と、関係者の皆様の記憶が頼りだったようです。特に初期の東京、横浜時代はエリーゼ夫人から聞き取らないと分からないことばかりだったとおもいます。

 「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」からです。
「    1

 「一九一四年。十一月七日……
 ソレカラ、コトシ。チョウド五十年ネ」
 エリーゼ夫人は、聞き手に、同意を求めるように、また、自分白身に言い聞かせるように、青い眼を輝かせながら、ちいさいかわいい顎を引いていた。たどたどしい日本語に、かえって実感がこもる。
 一九一四年といえば、大正三年。一九六四年のことしから数えて、まさに五十年前だ。
 その十一月七日の午前三時。それはエリーゼ夫人にとって、忘れられない日時となった。
 その日、その時刻。いままで日本軍に頑強に抵抗していた青島背面のイルチス山・ビスマルク山・モルトケ山などの各要塞陣地が、いっせいに白旗を掲げたのだ。
 つい三ヵ月前。セルビア国青年のオーストリア皇太子狙撃に端を発した戦争は、一瞬の間に全世界をその渦中にたたきこんでいった。第一次世界大戦である。
 その時の日本は、第二次世界大戦とは反対に、連合国側に立って参戦した。八月二十三日。ドイツに宣戦を布告すると同時に、ドイツ東洋艦隊の根拠地である膠州湾攻略に、イギリスとともに兵を出した。…」

 昭和48年、「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行しています。一般本化されたものとおもわれます。

 頴田島三郎氏の「菓子は神様 カール・ユーハイム物語」から、同じ場面からです。
「      3

 一九一四<大正三>年十一月七日午前三時。それはカール夫妻にとって、忘れられない日時となった。
 その日、その時刻。いままで日本軍に頑強に抵抗していた青島背面のイルチス山、ビスマルク山、モルトケ山などの各要塞陣地が、一斉に白旗を掲げたのだ。
 つい三ヵ月前、セルビア国青年のオーストリア皇太子狙撃に端を発した戦争は、一瞬の聞に全世界をその渦中に叩き込んでいった。第一次世界大戦である。
 その時の日本は、第二次世界大戦<太平洋戦争>とは反対に、連合国側に立って参戦した。青島攻撃は必至である。
 八月一日、ドイツの対仏・露宣戦布告と同時に東洋所在のドイツ軍艦のすべてが青島軍港に集結し、陸軍も勇躍国歌を歌いながら膠州湾防禦要塞の守備についた。二日には戒厳令が出た。
 日本の新聞にも「挙国皆兵の実を挙げつつあるは即ちドイツで、老幼婦女子とヨタヨタ腐甲斐のない男子とを除いて全国民の百分の一強は兵籍に入っている」(八月八日『朝日新聞』)と報道されているくらいである。…」

 ほとんど同じです。いままで無償配布していたものを、内容をブラッシュアップし、一般本として発行しています。

写真は昭和39年9月に株式会社ユーハイムから《非売品》として発行されたものです。当初は社史扱いで配布されていたとおもいおます。私の取得した本は昭和45年5月三版です。ご主人のカール・ユーハイム氏は昭和20年(1945)に、エリーゼ夫人は昭和46年(1971)に神戸で死去されています。

「銀座尾張新町十七番地」
<「カフェー・ユーロップ」は銀座尾張新町十七番地>
 カール・ユーハイム氏は終戦後の大正7年(1918)、捕虜から解放されます。日本で職を探していたカール・ユーハイム氏は明治屋の社長磯野長蔵が銀座に開店した喫茶店「カフェー・ユーロップ」に月給350円で採用され、製菓部主任の肩書が与えられています。カール・ユーハイム氏はエリーゼ夫人と息子を青島市から日本に呼び寄せ、一家は「カフェー・ユーロップ」の3階で暮らすことになります。(ウイキペディア参照)

 「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」からです。
「…当時「明治屋」は、朝鮮京城にまで支店を持っていたが、東京支店のほかに新しく洋風喫茶を銀座に持つ計画をたて、その製菓部の主任に三年契約でユーハイムさんを採用しようというのだった。…

… ユーハイムさんの月給は、大正九年のその当時三百五十円という目の飛び出るような高給だった。
 エリーゼ夫人は、新しい職場に希望を燃やしている夫の話を聞きながら、自分も懸命に貯金しようと思った。
 「そして、アメリカに行く資金を作らなければ……」
 と、深く決心した。

    4

 「カフェー・ユーロップ」は銀座尾張新町十七番地にあった。
 現在の「和光」の裏側にあたり大正十年代には「和光」の四ッ角は交番(巡査派出所)だった。その少し新橋寄りに「鳩居堂」(現在場所)その脇に、割に広い路地があって本屋などが並び、その路地の右の角が「ユーロップ」だった。現在の「三愛デパート」の、西となり。「竹葉亭」の一軒おいてとなりということになる。当時の「ユーロップ」のとなりは「住吉亭」とかいった小さな洋食店だった。
 道をへだてた前は角が「安藤七宝店」。それから新橋よりに順に高級な陶器店、銭湯などがあった。
 服部時計店は、当時も現在の場所にあって、後が「天金」。「安藤七宝店」とは、数寄屋橋←→三原橋の道をへだてて対角線の角店同士ということになる。
 「ユーロップ」の建物は、エリーゼ夫人がいつも、 「マッチ箱ネ」
 といっていたというように、奥に細長く、問口は四bそこそこ、それほど広くなかった。しかし何といっても銀座である。しかも外人の経営する最先端をゆく店だ。それだけに、なかなか凝っていた。…」

 物価から考えると、大正時代の1000円は現在の約100万円と考えると、1000倍ですから、350円は35万円となります。ただ当時の初任給や借家の賃貸料で考えると、東京帝大出の初任給が40円程、長屋の家賃が10円程度ですから、350円は破格の給料です。

写真は晴海通りからすずらん通りの西側を見ています。左側から二軒目附近が”尾張新町十七番地”になります(「鳩居堂」の真裏になります)。大正元年の地図では”安藤七宝店”と”「鳩居堂」(現在場所)その脇に、割に広い路地”、”尾張新町十七番”を確認する事ができます。昭和初期の火保図によると、すずらん通りから晴海通りに出る東南角が”竹葉亭”となります。”銭湯”は”安藤七宝店”の左隣です。上記に書かれている”現在の「和光」の裏側”と”「安藤七宝店」とは、数寄屋橋←→三原橋の道をへだてて対角線の角店同士”は勘違いとおもいます。「安藤七宝店」は昔と同じ場所に健在です。”尾張新町十七番地”は大正12年(1923)の「職業別電話名簿. 東京・横浜」で ”カフェー・ユーロップ 京、尾張、新地十七”とあり確認済みです。

「The Direct…」
<「The Directroy of Japan Yokohama」>
 大正11年、ユーハイム夫妻は自らの店を持つため、横浜の居留地で売りに出ていた店を検分しています。「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」にエリーゼ夫人が店の付近を描写していますが、正確ではなく、これだけでは店の位置が良く分りませんでした。調査先として最初は横浜市立図書館で調査しましたが、調査しきれず、二番目として横浜開港資料館での調査となりました。ここは資料調査でも入館料100円が取られます。ただ、閲覧する人はほとんどおらず、私一人でしたので丁重に教えて頂きました。ありがとうございました。「The Directory of Japan」という本に外資関連企業の一覧があり、その中のYokohamaの欄に”60 E. Juchheim, Confectioner”を見つけることができました。最初に書かれている”60”は居留地60番地のことで、”E. Juchheim(E.ユーハイム=エリーゼ夫人が登録か?)”の”Confectioner(お菓子屋)”となります。この場所での営業は関東大震災の9月までですので、一年弱となり、電話番号簿等には記載はありませんでした。

写真は大正14年(1925)版の「The Directroy of Japan」の表紙です。調べたのは大正12年版なのですが、大正12年版に表紙が無かったので大正14年(1925)版の表紙を掲載しました。この本は明治から大正、昭和初期にかけて年度別に揃っています。他の地区(Kobe等)も記載があり、かなり有効な資料です。

「居留地60番」
<「60 E. Juchheim,Confectioner」>
 ここでは再度「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」に戻ります。書かれている固有名詞(商店名)を探してみることにします。ただ、英語読みなのかフランス語、ドイツ語読みなのか良く分からないので判読に苦労しました。

 「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」からです。
「 横浜駅(現在の桜木町駅)から橋を渡っで千五百bぐらい本町通りを行った山下町。
 弁天通り、横浜公園と平行した通りで、横浜のメインストリートではあっだが、役所や船会社。それにレイシンクロフォードなどしやれた西洋の店があり、丸善、さむらい商会、ひつじや等と落着いた町並みだった。海岸に近く堀川を渡ると磯子の方へ出る。
 ユーハイムさんを誘い出したエリーゼ夫人は、リンゾンさんの店の見えるフランス銀行の前あたりに立つたまま様子をうかがった。
 あたりは、日曜のせいもあってか、メインストリートというのに人通りは数えるぼどしかない。
 右側にフレッツ薬局、バンク・オブ・フランス、クーウ・ウント・コーモア洋服店などがあり、左側にリンゾン店。隣りがフリーメーソン。少しいった向う角がコーウ・ド・レーリヤ食料品店。」

 順に記載します。
・横浜駅(現在の桜木町駅)から橋を渡っで千五百bぐらい本町通りを行った山下町
 →桜木町駅から居留地60番(中華街東門前)までは1500mで正確な距離です。
・フランス銀行
 →当時、この名前の銀行は無かった、露亜銀行(露清銀行)のことか、「The Directroy of Japan」に”80 Societe Francaise de Gerance de la Banque Industrielle de Chine ”とあり、80番は60番の丁度向い当たりとなります。
・フレッツ薬局
 →ブレッド商会(イギリス系薬局)  ”60 Brett's Pharmacy”
・クーウ・ウント・コーモア洋服店
 →クーン及コモル(株)        ”37 Kuhn & Komor,Ltd.”
・フリーメーソン
 →フリーメーソンのホール      ”61 The Masonic Hall,Ltd”
・コーウ・ド・レーリヤ食料品店
 →コードクエ商會           ”62 L.Caudrelier”
 ※” ”の記載は「The Directroy of Japan」からです。
 クーウ・ウント・コーモア洋服店の位置関係が合いません。困ったものです。

写真の正面が居留地60番です。「The Directroy of Japan」には60番地のお店が複数あるので、一つのビルに複数のお店が入っていたのではないかとおもわれます。写真の右側に中華街東門があります。道路も拡張されていますので当時のビルはもう少し道路側にあったとおもわれます。

 このお店は大正12年9月の関東大震災で倒壊し、ユーハイム夫妻は船で神戸に逃れます。
 続きはいつになるか分りません。



昭和5年〜10年の銀座(参考)



横浜、山下町(居留地)附近地図(明治38年)、孫文の地図を流用



横浜、山下町(居留地)附近地図、孫文の地図を流用