●「ユーハイム」を歩く 大阪_大正区、広島_似島編
    初版2014年12月13日  <V01L03>  暫定版

 ユーハイムの大阪、広島編を掲載します。ユ−ハイムで残っているのは捕虜として収容所に入っていた、大阪と広島の時期です。大正4年(1915)9月20日、カール・ユーハイムは大阪市木津川尻にある西区南恩賀島町地先の陸軍廠舎跡の大阪俘虜収容所に収容されます。中国、青島からの移送でした。


「ユーハイム物語」
<「カール・ユーハイム物語」>
 「ユーハイム」はドイツ人のユーハイム夫妻が創設したドイツ菓子のお店で、有名なので皆さん良くご存知だとおもいます。お二人はカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイム氏(Karl Joseph Wilhelm Juchheim)とエリーゼ夫人(Elise)です。このお二人の「ユーハイム」創設を書いたのが「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」です。”あとがき”にも書かれていますが、この出版時はまだご存命であったエリーゼ夫人の記憶と、関係者の皆様の記憶が頼りだったようです。特に初期の東京、横浜時代はエリーゼ夫人から聞き取らないと分からないことばかりだったとおもいます。昭和48年、「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行しています。いままで無償配布していたものを、内容をブラッシュアップし一般本化されたものとおもわれます。

 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」から、捕虜から解放された頃です。
「… 日本側でもドイツ捕虜の豊富な技術面を高く買い、その活用を考えていた。
 カールと同じ捕虜仲間だったブロインドリーフが、愛知県半田町の「敷島パン」の主任技師に迎えられたのも同じ時期だった。現在銀座西五にあるドイツ料理「ローマイヤー」の先代のアウグスト・ローマイヤーも同じ青島の捕虜で、ソーセージの店「デリカテッセン」を始めたのも、同じこの時期だった。
 先のクルップ会社の前日本総支配人ランド・グラーフの運動に強く賛成した日本人は磯野長蔵だった。
「では、私の店でも何人か引き受けましょう」
 と卒先して申し入れた。彼は、横浜に本店を持つ食料品店明治屋の社長で、当時朝鮮京城に支店を持っていたという視野の広い人物だった。
 彼はこの機会に東京支店のほかに、新しく洋風喫茶店を銀座に持とうと決心したのだ。そこの製菓部の主任に三年契約でカール・ユーハイムを採用する。もうひとり、ヘルマン・ウォルシケをソーセージ製造主任に、バンーフオーテンを喫茶部主任をかねた支配人に。
 この三人のドイツ捕虜によって「カフェー・ユーロップ」が東京銀座の真中に開店されることになうた。…」


写真は昭和48年、「デモ私 立ッテイマス ユーハイム物語」とほとんど同じ内容で、頴田島三郎氏が新泉社から「カール・ユーハイム物語」を発行した本の表紙です。

「大正駅」
<JR環状線 大正駅>
 カール・ユーハイムは大正4年(1915)9月20日、大阪市木津川尻にある西区南恩賀島町地先の陸軍廠舎跡の大阪俘虜収容所に収容されます。第一次世界大戦で日本が占領した獨エの中国山東半島での租借地青島からの移送でした。奥様のエリーゼは青島に残されたままでした。大正7年(1918)までの三年間が捕虜期間となります。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。  
「… 一九一五<大年四>年九月二十日。『朝日新聞』は、この日青島から新しく捕虜二十八名が、大阪市木津川尻にある西区南恩賀島町地先の陸軍廠舎跡の大阪俘虜収容所に収容されるべく、午後四時大阪港阜頭に到着したことを報じている。もうこの頃になると前年十一月第一回捕虜到着の時のように、見物の群衆が朝早くから雲霞の如く桟橋上に集まったので上陸を変更したというようなことはない。港に働いている物見高な人びとが集まるというだけで、そのまま築港から小船に移乗し、木津運河を経て収容されていった。
 一行の中には、明らかに市民であるビール会社の社長およびその技師らが加えられている。この青島ビール会社の消滅に伴い、ドイツが膠州湾租借以来営々として築きあげ、経営して来た事業のすべてがなくなったという。
 カールーユーハイムが日本に移送されたのは、この一行二十八名の中のひとりと考えられる。そしてこの日から彼の日本俘虜収容所での生活が始まったのだ。…」

 今回は車では無く徒歩での訪問だったので、最寄りの大正駅からバスを探しました。ただ、”大阪俘虜収容所”について少し調べたかったので、最初に大正区立図書館に向かうことにしました。ここで「大阪俘虜収容所の研究」という本をコピーするためです。この本で大正時代にあった”大阪俘虜収容所”の全てが分るわけです。

写真は大阪環状線大正駅です。大阪市木津川尻にある西区南恩賀島町(現在の大正区南恩賀島一丁目)に向かう最寄駅となります。当然ですが大正駅は当時はありませんでした。大正駅開業は環状線開業と同じ昭和36年です。それまでは市電か市バスしかなく、陸の孤島でした。

「大阪俘虜収容所跡」
<大阪俘虜収容所>
 ”大阪市木津川尻にある西区南恩賀島町地先の陸軍廠舎跡の大阪俘虜収容所”の場所がなかなか分りませんでした。仕方が無く、大阪市の古い地図(大正3年)から西区南恩賀島町を探したところ、”隔離所(「大阪俘虜収容所の研究」ではペスト隔離所)”で記載があり、すぐに場所は分りました。”西区南恩賀島町”は当時の住所で、現在は大正区南恩賀島一丁目となるようです。

 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「… 大阪俘虜収容所では、すでにハス海軍中佐以下四百七十七名のドイツ人が収容されていた。やはり、すべてが軍人というのではなかった。青島独清高等学校長カイペル博士以下、市民も多かった。
 青島はすでに秋も終ろうとしていたが、大阪はまだ激しい残暑の季節だった。ドイツ本国で摂氏二五<華氏七七>度になれば、学校も休校になるという。此処は連日九〇度を越した。カールは、まずこの暑さに参った。眼の前の木津川を上下する日本の帆かけ船がゆったり進むのも、暑さのためのように見え、他の捕虜らにも堪えがたい毎日だった。…」

 本当に交通の便が悪いところで、一時間に一本程度のバスしかありません。仕方が無いので大正図書館から南恩賀島町一丁目のバス停まで1.8Kmを歩いてしまいました。夏だったので途中でコンビニによりよりでした。本当に暑かったです。

写真の左端にあるのが南恩賀島一丁目のバス停です。この先の交差点の先、左側一帯が大阪俘虜収容所跡となります。バス停の後ろ側の平尾亥開公園内に記念碑あります。平尾亥開公園は道路を挟んで二つに分かれており、住居表示で大正区平尾一丁目11番側に記念碑があります。向こう側の公園は大正区南恩加島一丁目10番となります。「大阪俘虜収容所の研究」から当時の大阪俘虜収容所の寫眞を掲載しておきます。



大阪市地図



西区恩加島町(現在の大正区南恩加島町)



「似島−宇品フェリー」
<似島−宇品フェリー>
 大阪市木津川尻にある西区南恩賀島町地先の陸軍廠舎跡の大阪俘虜収容所が広島の似島に移転します。移転した理由は「大阪俘虜収容所の研究」によると、もともと西区南恩賀島町地先の施設は大阪府の伝染病隔離施設で、大正5年(1917)8月のコレラの流行と12月のペストの流行の徴候により、施設の返還を求められたためのようです。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「… 大阪俘虜収容所全員が、大阪をあとにしたのは一九一七<大正六>年二月十八日だった。
 開設以来足掛け四年、まる二年ニカ月である。捕虜たちの荷物も相当量に昇り、前日一日がかりで三千個の荷造りをした。その中には大きなチェロやバイオリン数個も入っている。そのうえ身の回り品は、各自が身につけた。
 午前九時出発の時の彼らの恰好を、当時の新聞は「百鬼夜行」と書き残している。
 マルチン海軍中尉のカナリヤの籠を手にしてなどは例外で、三十名の将校下士団の一隊以下四百五十余名。その他の兵卒の一団は各自、肩に、両手に、鞄、行李、毛布、薬罐、バケツ、持てるだけの物を持っている。それが着け剣の衛兵に護衛され、五百メートルという長い行列を作って、徒歩で梅田駅に向かうのである。…

 広島駅着は翌十九日の午前六時四十六分。十七名の病人を広島衛戌病院に送り、他は宇品線で七時二十三分宇品駅着。あとは陸軍運輸本部の団平船に分乗して海を渡るのだが、当時のニュースは、この日午後大阪医科大学全焼の記事に埋められ、彼らの消息は、伝えられなかった。かつ、それ以後似島俘虜収容所の記事は新聞から影をひそめてしまうのである。
 似島は、カールが心配したのと反対に、妻子を残した青島からは、むしろ一日の航程ほど近くなったといえるかもしれない。しかし、大都市大阪市内と、小さな孤島である。心細さからいえば、カールの心配が適中したといえる。夜になると、対岸左方に広島市の灯が賑やかに見える。といっても、当時の広島は、まだ人口十七万人にも及ばない都市でしかなかった。…」

 似島はもともと陸軍の施設があり、その施設に俘虜収容所を建てたため半永久的に使えるわけです。その上、島なので脱走の心配もありません。

写真は広島市南区宇品海岸一丁目にあるフェリー乗場で、似島行きのフェリーが着岸しています。ここには広島湾にある島へのフェリーや、四国向けのフェリーの乗場があります。ここから20分で似島です。フェリー乗場から似島を見ることができます。私はここまで車で来て、自転車を組み立てて、フェリーに乗込みました。フェリー代は片道 人450円(令和元年10月より)、自転車160円で、計610円となります。

「似島俘虜収容所跡」
<似島俘虜収容所>
 似島はおもったよりも小さな島でした。フェリー乗場から俘虜収容所まで1Km程の距離でした。自転車だったのですが、山の峰を超えていく為、坂道が急で、又路が狭く、大変でした。歩いて行く方が良かったかもしれません。
 
 頴田島三郎氏の「カール・ユーハイム物語」からです。
「… この第二検疫所は七棟あったが、捕虜たちの使用していたのは、その中の三棟で、すべて板張りだが、居住区は人数だけのベッド、サイドテーブル、ストーブ数個、大きな薬罐ののった火鉢数個と広かった。七棟全部すっぽり高い板塀で囲まれ、切れ目切れ目は鉄条網が張りめぐらしてある。しかし捕虜らも収容所狎れしたというのか、大阪時代よりとげとげしたものは薄れていた。自給自足というほど大袈裟ではないが、好きな者には、野菜ぐらい作れる場所も数力所あった。しかしカールはあんまり土いじりには加わらなかった。…

 収容所にいるカール・ユーハイムが本格的な菓子作りを行ったのは、そうした日独親善ムードのひとつとして、広島県が広島市内の物産陳列館<現在の原爆ドーム>でドイツ捕虜の作品展示即売会を催した時だった。
 他の捕虜たちも各自の専門に従い、手芸品、家具、ハム、ソーセージとそれぞれ腕に縒をかけてその日に備えていた。
「ユーハイム……あんたも出す……なに出す……ドイツ菓子……ドイツの国の……青島の……」
 それは手真似半分の加藤炊事夫の問いかけだった。それを理解しようとカールが額に皺をよせていると、傍らからブロインドリーフが、「ユーハイム、バウムクーヘン、それからサンドケーキ。わたし、それはパンね」
 と答えながらカールを見た。加藤炊事夫の問いかけがようやく理解できたカールはにっこりしなが
「できますか」
 といたずらっぽく眉をしかめて見せた。
 バウムクーヘンを正式に焼くには、まず堅い樫の薪がいる。一度爆し上げ。火がはぜないように皮をはぐ作業から始めねばならない。まず不可能だろう。カールが眉をしかめて見せたのは、そのためだった。
「できるも、できないもない。作るんだよ。できるさ」
 元気よくそうけしかけるのはソーセージを出品するウォルシケだった。
 捕虜の中には、古い板切れ一枚と、一本のナイフだけで三本マストの大型帆船を彫り上げたりする者もいた。そこそこの材料は主催側で調達してくれたので、この時ほど収容所内が活気づいたことはない。それはまた第一次大戦の講和が近いことがささやかれ始めている頃で、捕虜たちにとっても、よかれ悪しかれ何らかの結着が近い、その気持が裏にあってのことかもしれない。 カール・ユーハイムも曲りなりにもバウムクーヘンを出品することができた。 …」

 似島には大正6年(1917)2月に入り、大正7年(1918)末には釈放されたようです。約2年間です。その後、カール・ユーハイムは日本に残る決心をし、明治屋の社長磯野長蔵が銀座に開店した喫茶店「カフェー・ユーロップ」に月給350円で採用さます。物凄い高給です。現在も神戸で有名なブロインドリーフが、愛知県半田町の「敷島パン」の主任技師に迎えられています。又、アウグスト・ローマイヤーも東京銀座でソーセージの店「デリカテッセン」を始めています。敗戦後の獨エ本国や統治権の無くなった青島に戻るよりは市場の大きな日本で店を開いた方が良いということだったのだとおもいます。

写真は現在の似島臨海公園似島臨海少年自然の家)です。ここに似島俘虜収容所がありました。この附近で当時の遺構が無いか探したのですが、明治28年(1895)から第二次世界大戦終了直後まで陸軍の似島検疫所が置かれており、その遺構が残っているのみでした。似島俘虜収容所については、上記のようにカール・ユーハイムがバウムクーヘンを作ったことが観光看板に記載されているのみでした。

似島陸軍検疫所跡の碑
旧陸軍馬匹焼却炉跡
似島弾薬庫跡
第二検疫所の井戸
 この他にドイツ菩提樹があるようです。



広島市南区宇品−似島附近地図



広島市南区似島地図