今週は五木寛之の「早稲田時代を歩く」を改版します。皆様からのご指摘や、面白半分7月臨時増刊号「いま、五木寛之」(昭和54年7月)が手に入りましたので、少しですが、五木寛之の早稲田時代が分かってきました。
今週は、先週に引き続き、「五木寛之の早稲田時代を歩く」の後編をおおくりします。五木寛之の早稲田時代については、エッセイに多く書かれており、調べるのは比較的簡単だったのですが、時期がはっきりせず、前後関係が不明です。若干、前後関係がおかしいかもしれませんがお許しください。<02/10/26>
< 旧中野美観街>
五木寛之は、西武新宿線 都立家政駅近くの三雁荘に下宿したころから中野付近に出没していたようです。その当時のことを「昭和二十八年から三十年にかけての中央線沿線には、不思議な自由さがあったように思う。そ れ以前のことも、最近のことも知らないが、それは奇妙な季節だった。ある街の空気を作るのは、そこに集まる種族たちであり、また同時に、街が人間を惹きつけるのでもあるのだろう。当時、私たちは、中野駅北口の一画を中心にして出没していた。その地帯は、私たちにとってのメコン・デルタであり、(私の大学)でもあった。『私の大学』というのは、ゴーリキイの自伝青春小説のタイトルである。…」と書いています。なにか、中野界隈に出没することが”青春そのもの”という感じですね。
★左の写真中央が、JR中野駅北口の中野美観街、現在の中野サンモールです。昭和41年にショッピングビル中野ブロードウェイができ、JR中野駅北口からブロードウェイに通じるアーケードを、中野サンモールと呼び名をかえたようです。 |