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最終更新日:2007年1月30日

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●五木寛之の早稲田時代を歩く (2) 
  初版02/10/26 二版03/10/25 追加・修正 V02L01

 今週は五木寛之の「早稲田時代を歩く」を改版します。皆様からのご指摘や、面白半分7月臨時増刊号「いま、五木寛之」(昭和54年7月)が手に入りましたので、少しですが、五木寛之の早稲田時代が分かってきました。 

 今週は、先週に引き続き、「五木寛之の早稲田時代を歩く」の後編をおおくりします。五木寛之の早稲田時代については、エッセイに多く書かれており、調べるのは比較的簡単だったのですが、時期がはっきりせず、前後関係が不明です。若干、前後関係がおかしいかもしれませんがお許しください。<02/10/26>

itsuki-nakano61w.jpg旧中野美観街>
 五木寛之は、西武新宿線 都立家政駅近くの三雁荘に下宿したころから中野付近に出没していたようです。その当時のことを「昭和二十八年から三十年にかけての中央線沿線には、不思議な自由さがあったように思う。そ れ以前のことも、最近のことも知らないが、それは奇妙な季節だった。ある街の空気を作るのは、そこに集まる種族たちであり、また同時に、街が人間を惹きつけるのでもあるのだろう。当時、私たちは、中野駅北口の一画を中心にして出没していた。その地帯は、私たちにとってのメコン・デルタであり、(私の大学)でもあった。『私の大学』というのは、ゴーリキイの自伝青春小説のタイトルである。…」と書いています。なにか、中野界隈に出没することが”青春そのもの”という感じですね。

左の写真中央が、JR中野駅北口の中野美観街、現在の中野サンモールです。昭和41年にショッピングビル中野ブロードウェイができ、JR中野駅北口からブロードウェイに通じるアーケードを、中野サンモールと呼び名をかえたようです。

五木寛之の東京 年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

五木寛之の足跡

昭和28年
1953
朝鮮戦争休戦協定
21
2月 T社の新聞配達をやめる
5月 北区稲付町 Oさん宅方に下宿
戸塚のOさん宅に下宿
中井駅(西武新宿線)近くのNさん宅に下宿
昭和29年
1954
造船疑獄
22
都立家政(西武新宿線)近くのアパートに下宿
中野駅北口の一画を中心にして出没
昭和31年
1956
日ソ国交回復
24
大田区の久ヶ原町に下宿、蒲田から川崎方面に出没
昭和32年
1957
愛新覚羅慧生が天城山で心中
25
新宿二丁目ある交通業界紙に勤める
昭和33年
1958
売春防止法施行
東京タワー公開
26
早稲田大学を除籍される
   ※ 一部推定です。

itsuki-toritsukasei11w.jpg中井駅近くのNさん宅(推定)> 二版03/10/25 追加
 「戸塚のおばあちゃん宅」の後に住んだのが西武新宿線中井駅近くの下宿でした。「…中井駅(西武新宿線)から歩いて十分ほどの中落合のNさんというお宅である。この家の玄関のわきにあった二帖半の小部屋に間借りをしていた。「松田、なんとか言ったな、ピーターというニック・ネームのファッションモデルがいたでしょ」「松田……和子ですか、小柄た瞳の大きい」「そう、その松田和子が下宿の裏の家に住んでいたんですよ」この中落合にいた頃が、五木さんにとって最も経済的に苦しかった時期だったようだ。冬の夜、軍用毛布を敷き、あるだけの古雑誌や新聞を集めて身をくるみ、布団代りにして暖をとった。朝遅く眼を覚まして小窓から外の通りを見ると、雨の中を、隣家の松田和子が酒落た白いレインコートを羽織って、軽く跳びながら迎えの自動車に乗りこんでいる。五木さんの眼には彼女が妖精のように見えたという。…」、本当に妖精にみえたのでしょう。

左の写真の左奥のところにNさん宅があったようです。ただ、名前からだけで探しましたので、あくまでも推定です。本文には中落合との記述がありますが、写真の所は西落合です。

itsuki-toritsukasei11w.jpg都立家政に下宿>
 「戸塚のおばあちゃん」の後、西武線都立家政駅近くの三雁荘というアパートに引っ越します。「都立家政の駅を降り、商店街を抜けて右折して、左手の畠の中に木造の白いアパートがあった。その名を(三雁荘)という。ミツカリソーとは変な名前だが、その二階にしばらく住んでいたのだ。……ここに住んでいた時代が、ほくにとっては確かに青春といえる時期だったような気がするのだ。……高円寺の平和座や、野方の名画座へ、下駄を鳴らして映画を見に通った日々。中野の(クラシック)や、(ルド ン)などという店に出没して、無頼とまではいかないが、かなり勝手な生活をすごしたのも、この三雁荘時代だった。」。とあります。この三雁荘は、五木寛之が再び訪ねた1979年にはまだ健在だったようですが、その後建て直されて、こちらも個人の住宅になっていました。村上春樹も早稲田時代に都立家政で下宿しています。国電中野駅北口前の美観街については別に特集したいとおもいます。

右の写真の右奥のところに三雁荘がありました。停まっている車の先の白い建物のところです。ここの場所は確定です。

itsuki-tateishi11w.jpgN製薬跡> 二版 03/10/25 場所修正
 五木寛之は、早稲田大学に入学した当時の昭和27年から28年にかけては生活するのに必死であり、そのため売血もたびたびしていたようです。「…立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百C。抜いて、手取り 四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。当時の立石は、ひどく荒涼たる感じの土地で、たんばの中に高い煙突の製薬会社が見えた。採血の前に、血液の検査がある。病毒の検査ではなく、比重を調べるのだ。……「はい、合格−」少女は私の二の腕に、ベタリと紫色のゴム判を押す。丸の中に「合」という字を押された私は、顔をほころばせて採血場の方へ向かって歩き出す。裸の腕の○の印を、行列の仲間に誇示しながら、軽い優越感に酔った足どりで歩いて行くのだ。「駄目、足りない」「はい、合格」採血場のベッドに横になり、掌を握ったり開いたりする。そのたびに赤黒い血液が、強く弱く抜けていく。二列に分れたベッドの上で、開いたり閉じたりする数十本の痩せた腕。四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった。…」、当時の400円はどの位の価値だったのでしょうか。きつねうどんや天ぷらそばが35円から50円位だったとおもいますので、10倍かなと思ったのですが、消費者物価指数で昭和30年と現在を比べると、6倍位だそうです。このN製薬についてはAさんから教えていただき修正しました。ありがとうございました。

左の写真の建物のところにN製薬がありました。。現在は葛飾税務署になっています。京成電鉄立石駅から歩くと1Km弱くらいあります。

itsuki-nakano62w.jpg中野美観街の(K)>
 JR中野駅北口付近は昭和20年代後半と比べると様変わりしてしまっています。当時は国電中野駅北口を降りると、左側は警察大学、直ぐ右側には共同便所、正面には美観街でしたが、今は、警察大学が中野サンプラザに変わり、駅前はロータリーで、美観街は中野サンモールに変わってしまっています。「国電中野駅北口に降りると、当時は正面に(中野美観街)の入口があった。…左手に警察学校が見え、右手に公衆便所があって、雨の日にはよく臭った。…美観街を少し行くと、(人魚)という酒場があった。私は何百回となくその店の前を通りながら、最後までその店にははいらずじまいだった。…さらに進んで、右に小路を折れ、体がやっとはいるくらいの暗い階段を上ると、(シャノア)という店があった。ここに最初に迷い込んだ晩に、非常な美人に遭遇した。友人たちは(シャノア)のミッちゃん、と彼女のことを呼んでいた。…美観街をさらに進むと、左に数本のせまい小路が走っており、その一本に風変りな契茶店があった。いや現在も残っているから、ある、と書くべきだろう。古典を意味する(K)という名のその店は、私たち中野コンミューンの昼間の議場のようなものだった。」、とあります。「人魚」は美観街を入って、右側7軒目にありました。(K)とは「クラシック」という喫茶店で、店はぼろぼろですがまだ現存しています。もう一軒、五木寛之が紹介しているお店があります。「中野美観街の一角にあった契茶店、(K)について語ったからには、その姉妹店であり、また本格的な酒場であった(R)について述べねばなるまい。(R)は、美観街を突き当って右へ折れ、更に左、内外映画へ向かって曲った場所にあった。……ウイスキーのシングルは三十円である。十円銅貨三枚を、手の中に汗ばむはど握りしめて、私は西武線の下落合から中野まで歩いてやってくるのだった。当時、私たちは皆、例外なく貧しかった。にもかかわらず、なぜあのように毎晩、酒場で酒が飲め、かつ、若く個性ある女性たちに支持されたか、判断に苦しまざるを得ない。思うに、それはある時代に不意に現出するエアポケットのようなものだったのだろう。私たちのグループの性格と、その店のキャラクターが、全く偶然に一致したためとしか考えられない。その店のマダムは、コミュニストだということだった。私は今もコミュニストに対して一種の親愛感を抱いている。それは、私の個人的な感情にすぎない。コミュニストと聞くたびに、私はあの中野の(R)のマダムの顔や言動を反射的に思い出すためだ。…」、(R)とは「ルドン」で、上記に書かれた後、すぐに無くなったようです。昭和37年には内外映画館の方へ曲がったところには見当たりませんでした。また上記に書かれている「シャノア」に関しては、場所不明です(何方か教えてください)。

右の写真が現在の「クラシック」です。横からの写真なのであまりぼろぼろなのが見えませんが、正面でみると、何時くずれても不思議ではないような建物です。(持ち主の方、ごめんなさい)。

itsuki-kamata11w.jpg久ヶ原のSさん宅>
 どういうわけか、大田区の久ヶ原に住んだことがあるようです。『「大田区の久が原町というところ。池上警察の先を右へ入るんだ」すでに日暮れの気配がただよって、何となくものがなしい気分。久が原のSさんのお宅は、奇妙な家だった。老夫婦が全く独力で建てた家なのである。一部屋ずつつぎ足して、ついに二階建ての軍艦の司令塔のような、または蜂の巣城のような、不思議な形をした家が出来あがったのだ。』、最寄りの駅は東急池上線の千鳥町駅です。五木寛之は、今までのよく通っていた中野の方面 ではなくて、蒲田から川崎方面によく出没していたようです。当時のことを「私は以前、蒲田の街から少し離れた場所に住んでいたことがあった。……私はその頃、蒲田西口の入り組んだ迷路のような飲食街でよく安いトリスを飲み、三本立ての映画を見、ギョウザをおかずに深夜一人で食事をし、それから更に何時問も夜更けの街を歩きまわったあげく、池上線の白く光る線路に沿ってボロアパートへの道を歩いて帰ったものだった。」と書いています。蒲田西口の迷路と 「トリスバー」と言えば、これはもう松本清張の「砂の器」の世界です。昭和30年代の雰囲気ですね。

左の写真が久が原のSさんのお宅です。表札の名前はSさんではなくなっていますが、当時はSさんでした。

itsuki-shinjyuku11w.jpg<週刊交通ジャーナル編集長>
 五木寛之は、さまざまな月刊誌の編集をします。「あれは確か、私が新宿二丁目の業界紙の会社に勤めていた時代だったと思う。その新聞社は、社長と、経理の女の子と、編集長の私と、記者の少年との四人しかいないミニ・コミだった。内外ピルというピンク色のビルの二階にオフィスがあり、窓からは隣りの建物の裏口が手に取るように見えた。隣りの建物といぅのは、恐らく内外ビルと同系列と思われる内外ニュースという劇場で、実演のストリップが呼び物というおかしな映画館だった。紙面の割付けをやっていると、時たま窓から美味そうな秋刀魚の匂いが流れて来たりする。見おろすと、バタフライをヒラヒラさせたストリッパーが、七輪の上に秋刀魚霊べて、うちわで熱心にあおいでいたりするのだった。」のあります。この他にも社団法人運輸広報協会でPR誌の編集をしたりしています。週間交通ジャーナルはいまも発行を続けており、現在は銀座に会社があります。当時とはまったく違いますね。

右の写真の薄緑色のビルの建っている所に内外ビルと 隣の内外ニュースという劇場があったようです。昔はピンクだったのが薄緑に変わっていますね、現在は飲食店のビルになっています。


五木寛之の東京地図 -3- itsuki-tokyo-map1.gif


五木寛之の東京地図 -4-
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【参考文献】
・風に吹かれて:五木寛之、角川文庫
・五木寛之全紀行6 半島から東京まで:五木寛之、東京書籍
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・葦笛のうた(足立・女の歴史):鈴木裕子、ドメス出版
・五木寛之全紀行5 金沢はいまも雪か:五木寛之、東京書籍
・現代作家シリーズ 五木寛之:浅尾忠男
・五木寛之エッセイ全集:講談社
 
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