今週は五木寛之の「早稲田時代を歩く」を改版します。皆様からのご指摘や、面白半分7月臨時増刊号「いま、五木寛之」(昭和54年7月)が手に入りましたので、少しですが、五木寛之の早稲田時代が分かってきました。
今週は、五木寛之の早稲田大学時代を歩いてみたいとおもいます。以前、「風に吹かれて」から、千住遊郭を巡ってみましたが、今回は早稲田大学入学の昭和27年から、早稲田大学を除籍される昭和33年までの6年間を追ってみました。一回では巡りきれませんので、二回に分けて歩いてみます。<02/10/19>
<早稲田大学>
昭和22年、朝鮮半島から引き揚げてきた五木寛之は、昭和23年、福岡県立福島高等学校へ転入、昭和27年早稲田大学を受験、合格します。「…四万なにがしの入学金を作るために、東奔西走してくれた親父の姿がちらちらする。結核で自宅寮表中の親父は、ふらつくからだで自転車にまたがり、弟にその荷台を押させて金を借り歩いたらしい。元気なころは、かなり勝手な野郎だと反撥したこともあったが、今度はありがたかった。「金のことなぞ心配するな。おれだってダテに年を食ってるわけじゃない」などと、強がりを言っては、自分で苦しんでいる親父が哀れな気がした。入学金と、三千円の現金が、親父の精一杯のはなむけだった。泣いても笑っても、これきりだ。どんな具合にやっていけばよいのか、まださっばり見当はついていない。…」。家族は朝鮮半島から引き揚げでもあり、終戦後直ぐの昭和22年の経済状態は並大抵ではなかったとおもいます。それでも4万円もの入学金を工面してくれた”親父は凄い”の一言です。
★左上の写真は皆様良くご存じの早稲田大学 大隈講堂です。私は早稲田大学卒業ではありませんが、何時見てもすばらしい建物です。
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