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最終更新日:2007年1月30日

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●五木寛之の早稲田時代を歩く (1) 
  初版02/10/19 二版03/10/25 追加・修正 V02L01

 今週は五木寛之の「早稲田時代を歩く」を改版します。皆様からのご指摘や、面白半分7月臨時増刊号「いま、五木寛之」(昭和54年7月)が手に入りましたので、少しですが、五木寛之の早稲田時代が分かってきました。

  今週は、五木寛之の早稲田大学時代を歩いてみたいとおもいます。以前、「風に吹かれて」から、千住遊郭を巡ってみましたが、今回は早稲田大学入学の昭和27年から、早稲田大学を除籍される昭和33年までの6年間を追ってみました。一回では巡りきれませんので、二回に分けて歩いてみます。<02/10/19>

itsuki-waseda11w.jpg<早稲田大学>
 昭和22年、朝鮮半島から引き揚げてきた五木寛之は、昭和23年、福岡県立福島高等学校へ転入、昭和27年早稲田大学を受験、合格します。「…四万なにがしの入学金を作るために、東奔西走してくれた親父の姿がちらちらする。結核で自宅寮表中の親父は、ふらつくからだで自転車にまたがり、弟にその荷台を押させて金を借り歩いたらしい。元気なころは、かなり勝手な野郎だと反撥したこともあったが、今度はありがたかった。「金のことなぞ心配するな。おれだってダテに年を食ってるわけじゃない」などと、強がりを言っては、自分で苦しんでいる親父が哀れな気がした。入学金と、三千円の現金が、親父の精一杯のはなむけだった。泣いても笑っても、これきりだ。どんな具合にやっていけばよいのか、まださっばり見当はついていない。…」。家族は朝鮮半島から引き揚げでもあり、終戦後直ぐの昭和22年の経済状態は並大抵ではなかったとおもいます。それでも4万円もの入学金を工面してくれた”親父は凄い”の一言です。

左上の写真は皆様良くご存じの早稲田大学 大隈講堂です。私は早稲田大学卒業ではありませんが、何時見てもすばらしい建物です。

五木寛之の東京 年表 -1-

和  暦

西暦

年    表

年齢

五木寛之の足跡

昭和27年
1952
メーデー事件
20
4月 早稲田大学露文科入学
穴八幡神社の床下で寝泊まりする
4月 T社で東長崎(西武池袋線)に下宿しながら新聞配達を始める。
昭和28年
1953
朝鮮戦争休戦協定
21
2月 T社の新聞配達をやめる
5月 北区稲付町 Oさん宅方に下宿
戸塚のOさん宅に下宿
中井駅(西武新宿線)近くのNさん宅に下宿
   ※ 一部推定です。

itsuki-waseda12w.jpg早稲田大学露文科入学>
 五木寛之は昭和27年4月、早稲田大学露文科に入学します。その初めて東京にでて、早稲田大学に入った当時のことを『早稲田に着いたときは、あたりはすでに暗くなりかけていた。大隈講堂の時計台の上に、冷えびえとした夜の気配が漂っている。文学部の校舎を眺め、体育館のあたりを一廻りすると、もう夜だった。どこかに今夜の宿を定めなければならない時間である。理工学部の横に、地下へ通ずる階段があった。その階段を降りて、閉鎖されている扉の前に荷物をおろす。軍用毛布をほどいてひろげ、洋服の上から引っかぶると、ポストンを枕にごろりと横になる。……その時、どこからか足音が近づいてきた。それが階段の上でぴたりと止ると、懐中電灯の光の輪が、頭の上から降ってきた。「もしもし、あんた、何してるんです」日をこすりながら闇をすかして見上げた。国鉄の駅員みたいな服を着た男である。「いや、べつに」「そこで何してるの」と、言葉づかいが横柄になった。「こんな所に寝たりしちゃ困るよ、あんた」どうやら大学の守衛氏らしいと、ようやく気がついた。ほっとする。「ぼく、この学校の学生ですが」「学生? ほんとかね」私はポケットから、オレンジ色の真新しい学生証を光の中にかざして見せた。「ちょっと今夜泊る所がないんでね。朝までここ使わしてもらおうと思って」「駄目だよ、そんなこと。さあ、早くどこかへ行くんだね」』。結局その晩は早稲田大学構内に泊まれず、追い出されてしまいます。昭和27年当時は、どこで寝ていても不思議ではなかったようです。

左の写真の両側辺りが昭和27年ころの早稲田大学理工学部があったところです。右側が現在の6号館、左側が現在の14号館です。共に教育学部や社会学部の教室になってしまっていて、理工学部は大久保3丁目の戸山公園のところに移っています。

itsuki-waseda13w.jpg穴八幡神社の床下>
 早稲田大学構内で寝ることをあきらめた五木寛之は、大学直ぐそばの馬場下町交差点近くの穴八幡神社の床下に寝るところを見つけます。「私が神社の床下に寝泊りしだしたのは、その晩からである。大学の近くの穴八幡の社殿が、まず最初のねぐらになった。この床下はスペースが広く、高さもかなりあるのだ。夜、毛布にくるまって寝ていると、しばしば恋人たちがやって来て私を悩ませた。季節外れの薮蚊がおそって来ても、ビシャリとやるわけにはいかない。彼と彼女を驚かせるのは同世代の青年として忍びなかったし、社務所に報告されても困る。女の子の押し殺した溜め息や、奇妙に想像力をそそる物音に耐えるのは、かなり辛い作業だった。いつの日か自分が、あのように若い恋人を獲得したなら、と考えながら、私は軍用毛布の中で身を固くしていた。」。アベックには五木寛之も20歳の若さで、悶々として困ったのではないかとおもいます。ただし、ここでは早稲田大学を追い出されて、最初のねぐらが穴八幡神社の床下だったと書いていますが、一方では、「九州から上京して、すぐに住んだのは西武線沿線の田無という場所です。……その後、北区の赤羽に住んだことがあります。実はその部屋へ移る前の数カ月は、早稲田の近くの神社の床下で野宿をして過ごしています。」とも書いています。面白半分の臨時増刊号「いま、五木寛之」のなかに下宿の実名入り日記が掲載されており、それによると、上記の年表になります(一部日付がはっきりいないのがあります)。

右の写真が現在の穴八幡神社です。場所も当時とまったく変わっていません。変わったのは神社の床下がコンクリートで固められたしまったことでしょうか。

itsuki-waseda14w.jpg東長崎駅近くのT社下宿(推定)>二版03/10/25 追加
 五木寛之が早稲田大学に入学したのが昭和27年4月です。入学した4月から五木寛之はアルバイトに精を出すことになります。。「そのころ私は、池袋の近くに住んでいた。立教大学の前を通りすぎて、もっと先だ。十畳ほどの二階の部屋に、十人はどのアルバイト学生が住み込んでいた。私もその一人だった。呆れるはど金のない連中ばかりで、なんだかいつも腹をすかしていたように思う。仕事は専門紙の配達である。業界紙とは言わずに、専門紙と言っていた。……毎朝、まだ暗い東京の街を、私たちは青い自転車をとばして出動した。目白を通り、飯田橋を抜け、日本橋の一角まで、十数台の自転車を連ねて全力疾走する。」、池袋の駅前 から立教大学の前を通り、少し走ると山手通りにでます。この先を自転車で東長崎まで走り抜けていたのです。面白半分の臨時増刊号「いま、五木寛之」の「五木寛之の下宿訪問記」によると、「…順序って書くと、五木さんの下宿は、穴八幡の床下から、東長崎(西武池袋線)のT社という新聞販売店に移る、ここに住み込んで、一時期、新聞配達をしながら暮らしをたてた。…」。と書いています。

左の写真は西武池袋線東長崎駅です。この近くにT社の下宿があったはずなのですが、詳細の場所は不明です。この下宿には六帖二間に十二人いたそうです。

<新聞配達の仕事>
 新聞配達のバイトといっても大変な仕事だったようです。下宿が東長崎で、会社の事務所が日本橋人形町で、配達区域が中央区なのです。それも、東長崎から自転車で出て、日本橋から晴海まで回り、また東長崎まで自転車で戻ってくるのですから、並大抵の距離ではありません。今なら誰もやらないでしょう。当時の日記に配達の区域について詳しく書いています。
「一九五三年一月ニ十日、曇後雨。此頃寒い日が続く、体具合もよくないし懐も淋しい。久しぶりに学校へ行く。試験二十四日より二月四日まで。明日は月曜日なり。アイゼンハウワ一大統領就任す。支出(十六日〜二十日) 映八十、交百二十、食三百、返二百、本二十。
(配達区域について)
 先ず日本橋の事務所を出て、日本橋の手前を実直ぐ電車通りをつっ切ると、西川の次の通りを右に回り、丁度日本橋の電車通りと昭和通りにはさまれた道路をどこまでも真直ぐに、京橋に入って右にテアトル銀座を挑める所で左に昭和通りを横切り、配達区域に入る。先ず新富町、ここには松竹の本社がある。次に湊町、聖路加病院の明石町。松竹本社の前の橋を渡って築地一丁目、二丁目にはビクターがある。築地警察、京橋公会堂などのそばを通り東本願寺の前を過って、華僑ビルを配り東劇を回って小田原町、勝鬨橋を渡って月島に入る。石川島重工等を経て又築地五丁目へ回り、中央市場を配って終わる。約三時間。配る新聞は、建設工業、株式、電気、重工、工経、証券、交毎、砂糖、通産公報、日本教育新聞の十種。」、俗に言う、業界紙の配達ですね。

itsuki-waseda14w.jpg北区稲付町 Oさん宅方> 二版03/10/25 追加
 アルバイト先のT社の下宿から北区の赤羽駅近くのアパートに転居します。友達二人が借りていたアパートに転がり込むわけです。「1953年5月18日、曇り、早明決戦に敗れ、早稲田優勝をのがす。今日から新しい部屋に移った。北区稲付町…、O方。東京都の役人生活三十六年という親父さんと、ハッハッハと、気持ちよく哄笑する気の若い奥さんの二人。A、とBとの二人が今年一年の共同生活者だ。六帖の洋間で家のまわりは緑の木々にかこまれた谷あいである。正面には禅宗のお寺が静まり返っている。今日は一円もない。本を少々売って今日一日の命をつないだ。労働安定所に出頭、保険金がもらえるのは六月二十九日だそうだ。…」、アルバイトではなくて、ちゃんと働いていたのですね。失業保険がもらえるとは、考えましたね。

左の写真が赤羽のOさん宅(実名は控えます)です。名前も全く同じでしたので間違いないとおもいます。道の正面突き当たりが禅宗のお寺です。赤羽の駅から徒歩15分位です。

itsuki-waseda14w.jpg戸塚のおばあちゃん宅> 二版03/10/25 場所修正
 北区稲付町から早稲田大学に近い新宿区戸塚町に転居します。先輩の下宿に転がり込んだわけです。『戸塚のおばあちゃん、というのは、べつに血のつながりもなにもない下宿の老女主人のことだ。Sさんという郷里の先輩がいて、ぼくの困っているのを見かねたらしく、自分の部屋に同居させてくれたのである。……Oさんのお宅は、立派な門構えで、すでに昔日のおもかげはない。先輩と二人、薄暗い部屋で煙草のすいがらを拾ってきてはキセルで吸っていた文学青年の頃のことを、急に鮮かに思い出す。「近くに(源兵衛)というおでん屋があってね」「今でもありますよ。さっき表通りで見ました」「銭湯の帰りに寄ってシュウマイなんぞ食ってると、当時の早稲田の野球部の猛者たちがゾロゾロやって来て、盛大に飲み食いしてたのを思い出すよ」「どんな人たちです。当時の選手というと」「広岡、小森、石井、荒川、沼沢、福島、とか、ね。…」』。Oさん宅は穴八幡神社の少し先の住宅街の中でした。上記に書かれている通り、立派な個人住宅に建て直されて、昔の面影はまったくありませんでした。また早稲田通りの「源兵衛」は、建物は変わっていますが、むかしのままにありました。

左の写真が戸塚のOさん宅です。初版の場所は間違いでした。今回の場所が正しい下宿先です。


五木寛之の東京地図 -1-
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五木寛之の東京地図 -2-
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【参考文献】
・風に吹かれて:五木寛之、角川文庫
・五木寛之全紀行6 半島から東京まで:五木寛之、東京書籍
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・葦笛のうた(足立・女の歴史):鈴木裕子、ドメス出版
・五木寛之全紀行5 金沢はいまも雪か:五木寛之、東京書籍
・現代作家シリーズ 五木寛之:浅尾忠男
・面白半分7月臨時増刊号「いま、五木寛之」
 
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