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最終更新日:2006年2月19日


●五木寛之の新宿を歩く 初版04/03/13 二版04/05/23 文章変更 V03L01

 今週は「小説家の新宿を歩く」に戻って、「五木寛之の新宿」を歩いてみました。五木寛之は戦後間もない昭和27年3月、九州から早稲田大学に入学するため上京、金沢に転居する昭和40年まで東京に滞在します。

<五木寛之の新宿>
 五木寛之は「風に吹かれて」のなかのエッセイ「新宿西口の酒場で」で街について書いています。「…整然たるパリの街なみと、見事な街路樹の景色に、現在の私たちは、すでに無邪気に感嘆することは出来ない。少くとも、エトワールからコンコルドの方角を眺めた私の感情は、強いアンビバレンツの状態にあった。この豪著を支えた富は、どこから来たのか?それはフランス人の勤勉と、美意識と、才智のみが創りあげたものではないことを私は感じていた。……<見事な街を作るのは、富の偏在ではないのか?>富の偏在がある種の文明を開化させる、という考えは、私にとってひどく重い観念のように感じられる。それは自明の理かも知れないが、私はそれに慣れることができない。私には、新宿西口の、巨大なビルの集団が、ひどく不吉な暗いもののように感じられた。私と友人とは、その日車を捨て、国電の沿線にしがみつくようにして残っている旧マーケットあとの、<コーシカ>というロシア酒場でウィスキーを飲んだ。客が五人も座れば満員になりそうなその店は、大デパートの陰に、点として存在しているに過ぎない。いずれ消滅するにちがいない、その<点>のカウンターで、私たちは黙って飲んでいた。最初、友人はオールドの水割りを頼んだのだった。「そんなものおいてないわ」 と、少し疲れた顔のロシア婦人が日本語で言ったのだ。「角ならあるけど」 恥じいった友人と私は、角を頼み、十年前、中野の酒場でアワモリのコップを宝石のように大事に抱えて、カウンターにねばっていた時のことを思い出してした.電車か通るたびに、私たちの椅子と、私たちのグラスが震えた。これからの日本の街を作るのは、日本人の美意識だろうか? 私には必ずしもそうとは考えられない。日本の市街を作るのは、日本の経済力だろうという気がする。少くとも新宿西口の様相には、それが露骨に感じられた。…」。パリの街並みはについて「フランス人の勤勉と、美意識と、才智のみが創りあげたものではない」といい、「その文化や富を支えてきたのは植民地の存在ではなかったか。」、と言っています。その国の街並みを作るのは国力そのものであるわけです。ただ、フィンランドは!と考えると単純ではありませんね。また、コンコルド広場を見ると気になるのは、コンコルド広場の中心にオベリスクが建てられており、このオベリスクはエジプト・ルクソールのルクソール神殿に立てられた一対のオベリスクのうちの1本で,19世紀にパリに運ばれてきたものです。もう1本はいまもルクソール神殿に残っているそうです。まさに、植民地の富そのものを表していますね。

左上の写真が、新宿駅西口から東口に抜ける通路の所にあった新宿西口七福小路(昭和30年代までは西口ロマンス小路と言っていたようです)です。写真の左側の少し下っている路が東口に抜ける現在もある通路で、右側に少し登る通路が新宿西口七福小路で、登った左側にお店が有りました。反対側はやきとり横町になり、1999年頃までは写真のような路地があったのですが、現在はビルが建ってしまっています。この新宿西口七福小路に上記の写真の看板にも書かれている「コーシカ」がありました。(写真:新宿の民族、新宿歴史博物館から)

平成9年(1997)前後の「新宿西口七福小路」「コーシカ」の写真を下記のサイトよりお借りました。ありがとうございました。【Site Y.M. 建築・都市徘徊 http://yma2.hp.infoseek.co.jp/】

五木寛之の東京 年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

五木寛之の足跡

昭和27年
1952
メーデー事件
20
4月 早稲田大学露文科入学
穴八幡神社の床下で寝泊まりする
4月 T社で東長崎(西武池袋線)に下宿しながら新聞配達を始める。
昭和28年
1953
スターリン死去
朝鮮休戦協定調印
21
2月 T社の新聞配達をやめる
5月 北区稲付町 Oさん宅方に下宿
戸塚のOさん宅に下宿
中井駅(西武新宿線)近くのNさん宅に下宿
昭和29年
1954
造船疑獄
22
都立家政(西武新宿線)近くのアパートに下宿
中野駅北口の一画を中心にして出没
昭和31年
1956
スエズ戦争勃発
24
大田区の久ヶ原町に下宿、蒲田から川崎方面に出没
昭和32年
1957
東海村原子炉に原子の火がともる
25
新宿二丁目の交通業界紙に勤める
昭和33年
1958
売春防止法施行
東京タワー完成
26
早稲田大学を除籍される

和田組マーケット跡>
 五木寛之は昭和27年に早稲田大学に入学していますので、このテーマのタイトルである昭和30年代からは少し前になります。その頃の新宿駅の周りは、終戦後の闇市から発展した東口のテキ屋、尾津組マーケット(新宿マーケット)、和田組マーケット、西口マーケットが、はばをきかしていました。「野坂昭如氏が月刊誌のエッセイで新宿回顧の文章を書いているのを読んだら、ふと私も学生時代の新宿を思い出してしまった。私は昭和二十七年度の早大入学生であるから、武蔵野館裏の和田組マーケットは知っている。私が通ったのは、<金時>という店だが、庶民的な名前に似ずかなり高い店だったように思う。もう一つ今の高野の手前あたりにマーケット風の一画があり、今新宿で高度成長をとげた<ノアノア>のオリジナルや、<満州里>や、<長崎>などという店が軒を並べていた。当時の<ノアノア>は、ひどくせまい店で、女主人もそれにふさわしいスリムな体っきだった。あれから幾星霜、店が大きくなると共に女主人も立派になつたようだ。…」、高野の手前が尾津マーケット、南口寄りが和田マーケットだったとおもいます。すごい生活力ですね。そのころは私はまだ生れておりませんでした。

左上の写真付近に尾津マーケット、和田マーケットがありました。丁度、道路の付近に間口1〜2mの小さな数百軒の店があったわけです。

どん底>
 五木寛之は新宿二丁目に行く前に、喫茶店で時間を潰していたようです。「…当時はまだ今のようにモダン・ジャズの店が流行つていなかったので、私たちのたまり場は自然とシャンソンの店に落ちついた。<モン・ルポ>という店が、私たち当時の仲間にとっては忘れ難い記憶となって残っている。今の<どん底>のちょうど向かい側にあり、そこには和服の似合うほっそりとした若いマダムがいた。ウエイトレスは女子美のアルバイトの娘で、これもツイギ一風のなかなかの美人だった。私たちはその店で、「ブラマント通り」だとか「枯葉」だとかいつた曲を聞き、カウンターの中のマダムとの一瞬の会話に胸をときめかせ、一杯のコーヒーで終日ねばり続けたものだった。私たちはその頃、どんなことを話し合っていたのだろう。記憶の底からよみがえってくるものといえば、どれもまとまりのないナンセンスな会話の断片ばかりである。『地獄』の作者の名前が、バルビュスであるかバビュルスであるかなどと、ある友人と大喧嘩したりしていたのだから、たあいのないことおびただしい。」。残念ながら「モン・ルポ」は無くなっていました。「どん底」は有名なので御存じかなと思いますが、営々と昭和26年から続いています。「モン・ルポ」についてはよくわかりまはせんでした。「どん底」については、井ノ部康之が「新宿・どん底の青春」という本を書いていましたので詳細がわかりました。昭和26年2月4日、今の場所から少し離れた所に開店、今の場所は昭和28年10月に移転しています。一度火災に遭って現在の建物は昭和30年9月に三階建てで建設されています。当時の有名人が出入りしており、三島由紀夫、石原慎太郎、岸恵子、他です。ちなみに「地獄」の作者はフランスの作家アンリ・バルビュスです。

右の写真が現在の「どん底」の看板です。新宿末広亭から数十メートルのすぐそばで、「どん底」の前に「モン・ルポ」があったようなのですが、現在の「どん底」の前は駐車場になっていました。

フランス座(新宿ミュージックホール)>
 男性は若いときは一度や二度はかならず見に行きますね。「…昼間の新宿の記憶といえば、ほとんどない。わずかに紀伊国屋の喫茶店と、木造だった以前の風月堂、それに中村屋ぐらいのものだ。のちにオペラハウスが昼間ジャズ喫茶をやっていた頃、ウェスタン音楽を聞きに通ったことを憶えている。それからフランス座の記憶が続く。新宿ミュージック・ホールと名前の変る前のフランス座は大変面白かった。後年、その頃私がひどく気に入つていた三笠圭子というストリッパーが、北海道のキャバレーに出ているのを見て、懐旧の念にかられたことがある。浅黒い肌をした、くせのある踊り手だったが、池袋フランス座の斎藤昌子と共に忘れ難い真のアーチストであった。…」。昭和40年代には新宿ミュージックホールはなくなっていたようです。それにしても、ストリッパーの名前までよく覚えていますね。流石、小説家です。建物は新宿国際劇場になって、映画館などに変わっています。南口からすぐです。

左の写真が現在の新宿国際劇場です。夕方撮影しましたので、すこしネオンサインが光っています。

青蛾> 文章変更 04/5/23
 最後に五木寛之の通った新宿の喫茶店を歩いてみました。「…当時は、それほど名画座というか、映画のリバイバルを専門にやる映画館は少なかったから、その「日活名画座」というのが、ぼくらにとっての映画勉強の場であったわけですね。「日活名画座」の裏には「青蛾」という喫茶店があり、さらにもう一つ真の通りには「風月堂」があった。「日活名画座」で映画を観て、そのあと「風月堂」でコーヒーを飲みながら映画の感想を喋るというのが、ぼくらの一つの新宿彷徨のコースだったわけですね。…」。昭和30年代から40年代にかけて新宿でお馴染みの喫茶店がならんでいます。今回は「風月堂」に負けないくらい有名な「青蛾」を紹介します。この喫茶店は現在はありませんが、戦後の昭和22年、新宿通りから三越の左側の路地を入り、すぐに細い路地を左に曲がると突き当たりの右側に「青蛾」が開店しています(現在はこの路地はありません)。昭和30年、区画整理で三菱銀行横通(新宿通りと中央通りの間)に転居しますが、昭和56年惜しまれつつ閉店します。このお店について八千草薫が『東京商工会議所小規模企業ニュース』のなかで書いています。「新宿の日活の裏にあるこのお店へ始めて連れて行かれたとき、何だかおよそ新宿らしくないのに驚ろきました。黄色くなった障子紙に「青蛾」と墨で書かかれた古びた木の扉を押すと、薄暗い店内で一番先に眼に入るのかイロリの自在鉤でした。レンガを積んだイロリに黒光りする自在が鉄ビンをぶら下げています。上の壁に埋まった柱、その柱にかかったボンボン時計を見上げながら、お煎茶でようかんをつまんでいると一瞬ふと飛騨高山あたりの田舎家で休んでいるような気分になります。…」、うむ…なにかわかるな〜!!

右の写真が現在の三菱銀行横通りです。「青蛾」は路地の左側角から4件目で、左角からカドマ屋洋品店、加藤果物店、亀井鮨、「青蛾」がありました。右隣は東京キャラリーだったとおもいます。現在はみなビルになってしまっていて昔の面影はまったくありません。(写真:新宿の民族、新宿歴史博物館から)

次回の「小説家の新宿を歩く」は”いかりや長介のドリフターズ”を予定しています。


五木寛之の新宿地図 itsuki-tokyo-map1.gif


【参考文献】
・風に吹かれて:五木寛之、角川文庫
・五木寛之全紀行6 半島から東京まで:五木寛之、東京書籍
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・葦笛のうた(足立・女の歴史):鈴木裕子、ドメス出版
・五木寛之全紀行5 金沢はいまも雪か:五木寛之、東京書籍
・現代作家シリーズ 五木寛之:浅尾忠男
・五木寛之エッセイ全集:講談社
・いま五木寛之(面白半分増刊号):五木寛之、面白半分
・曽野綾子、五木寛之、古井由吉(石川近代文学全集10):石川近代文学館
・五木寛之作品集:五木寛之、文藝春秋社
・五木寛之 日記:五木寛之、岩波新書
・琥珀色の記録〜新宿の喫茶店:新宿歴史博物館
・新宿区の民族(3)新宿地区編:新宿歴史博物館
・流されゆく日々 1975〜1987年:五木寛之、講談社
 
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