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最終更新日:2006年7月3日


●五木寛之の京都を歩く
  初版2004年6月26日
  二版2004年9月20日
  三版2006年7月2日
<V01L01> 喫茶店「LA VOITURE」の写真を追加

 今週は「水上勉を歩く」をお休みして、「五木寛之の京都」を歩いてみました。きっかけは愛車を運転しているときに辻香織の「コーヒーブルース」を聞いたのがキッカケです。ほとんど、閃きで歩いています。

<コーヒーブルース>
 辻香織の「春待ち詩」というアルバムに入っている曲なのですが、妙に気になってCDを買っちゃいました。気になったフレーズは”三条堺町のイノダっていうコーヒー屋”なのです。京都にお住まいの方やコーヒーの好きな方なら有名なコーヒー屋なのでよくご存じだとおもいます。「三条にいかなくちゃ 三条堺町のイノダっていう コーヒー屋へねあの娘に逢いに なに 好きなコーヒーを 少しばかり お早う かわいい娘ちゃん ご機嫌いかが? 一緒にどう少しばかりってのを オレの好きなコーヒーを 少しばかり…」。なにか、この”イノダというコーヒー屋”をうまく表している歌なのです。

左上の写真が、辻香織の「春待ち詩」のアルバムです。辻香織の「コーヒーブルース」という曲は1971年の高田渡のカバー曲です。作詩作曲は当然高田渡です。原曲を聴いたことがないので、購入したいとおもっています。

イノダコーヒー>
 「コーヒーブルース」と五木寛之との関係なのですが、エッセイの中にこの”イノダっていうコーヒー屋”が出てくるのです。「…イノダの支店でコーヒーを飲んでいたら、ひげを生やした青年に話しかけられた。アマリア・ロドリゲスのことなど少し喋って別れた。東寺の近くで、東寺書院という本屋をやっています、と言っていた。子供の頃、東寺の境内で鞍馬天狗の真似などして遊んでいた、などという話を聞いたりすると、なんとなく京都らしいなあ、と思ってしまう。京都でもアイスコーヒーのことをコールコーヒーというらしい。大阪のレイコーより、こっちのほうが語調がいい。アイスコーヒーというのも、よく考えてみると随分、即物的な言い方ではある。…」。アイスコーヒーの呼び方は場所によってさまざまです。京都のコールコーヒーも、なにかちょっとひっかかります。イノダのコーヒーの特徴は、オーダーするときに”砂糖の有る無し”、”ミルクの有る無し”などを詳細に伝えます。ですから、コーヒーしか出てきません。普通のコーヒー屋になれていると面食らってしまいます。

 上記に書かれている「東寺書院」は九条通りを挟んで東寺の反対側に実存します。やっと写真を撮影してきました。かなり遅くなりましたが掲載しておきます。(周りの地区が再開発されつつあり、風前の灯火でした)

右上の写真が、京都市中京区堺町通りイノダコーヒー本店です。近くにもイノダコーヒーの支店がありますので、混んでいるときは支店の方に回られた方がよいとおもいます。昼の時間は結構混んでいるんです。

五木寛之の京都 年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

五木寛之の足跡

昭和47年
1972
連合赤軍浅間山荘事件
田中角栄内閣
40
4月 執筆活動休止を宣言。京都に転居
昭和49年
1974
小野田少尉帰国
42
2月 京都から横浜に戻る。
9月 執筆活動を再開
昭和56年
1981
セーラー服と機関銃
49
2度目の執筆活動休止
京都に転居し、龍谷大学の聴講生となる
昭和59年
1984
江崎グリコ事件
52
執筆を再開

京都の住まい> 06年7月2日喫茶店「LA VOITURE」の写真を追加
 五木寛之は昭和44年、金沢から東京に戻ります。しかし三年後の昭和47年4月、執筆活動休止を宣言し京都に転居します。『「京都でどんな人間が敬遠されるか、知ってるかい」 と、先輩作家のRさんが言った。 「いいえ」 「知らんだろう。教えてやる」 「金をつかわない観光客ですか」 「ちがう、ちがう、そんなんじやない」 「教えて下さい」 私はかって二年半ほど京都市左京区聖護院円頓美町に住み、左京税務署に税金を払ったことがあるから、何となくそう言われると気になってくる。 「まずだな、ざっくばらんな男」 「へえ」 「初対面で腹の中を打ち明けて喋りまくるようなタイプ」 「ほう」 「竹を割つたような気性の人」 「ヘーえ」 「まあ、大体、九州人の典型的なタイプだな。四国もそうだろう。まず、この辺が京都の風には合わない。嫌われる」 「本当ですか」 「間違いない。地元の新聞社が京都市民にアンケートを取ったら、そう出た。資料にもとづく結論だから心配するな」 「心配するなって言われても − 」…』。このエッセイは昭和50年に「京都で嫌われる人」として書かれたものです。当時、京都で住んでいたのがこの京都市左京区聖護院円頓美町のマンションでした。

左上の写真が京都市左京区聖護院円頓美町のマンションです。東山丸太町の交差点から近く、平安神宮の側になります。環境のよい場所で、散歩道には困らないところです。

左の写真は聖護院円頓美町のマンションの一階にある「LA VOITURE(ラ・ヴァチュール)」という喫茶店のタルトタタンというケーキです。五木寛之がこの喫茶店の常連だったことは有名ですが、このケーキを食べたかどうかは定かではありません!!

「風に吹かれて」の文庫本を持ちながら、疎水の散歩の後、アイスコーヒー飲みに入ってはいかがですか、気分はもう、五木寛之です。

YAMATOYA>
 YAMATOYAは五木寛之の「燃える秋」に登場するジャズ喫茶です。映画でも登場しています。「…人の多い所へは疲れて行く気がしない。黒谷を少し歩いて、聖護院近辺をのぞいてみた。聖護院の境内の一部は駐車場になっていて、自家用車が並んでいる。しだれ桜がライトバンの屋根にもたれかかるように咲いている。奥のほうに巨大なクレーンと、建設中のコンクリート建築が見えた。ヘルメットをかぶった作業員がキャッチボールをしているほかは、人の姿がほとんど見当らない。百円玉を賽銭箱に投げこんで帰ってきた。丸太町通りを歩いて、YAMATOYAに立ち寄る。以前この店のすぐ裏手に住んでいたことがあって、雑誌を抱えてよく出かけたものだ。このYAMATOYAのある横丁の一劃が、私は妙に気に入っている。京都でも好きな場所の一つだろう。焼鳥屋があり、銭湯があり、床屋があり、そしてジャズの店がある。車が入らない通りなので、子供たちがローラースケートをしたり、カン蹴りをしたりして走り回っている。いつも二、三人、おばさんたちが固まって立ち話をしていたりして・不思議ななつかしさを感じさせる場所だ。この通りを歩くと、ほっとして、京都へ来たなあ、と思う。横丁から丸太町通りへ出たあたりには、サンタクロースというライヴもやるジャズの店がある。この店は私が聖護院に住んでいた頃には、まだなかったような気がする。ジャズの店の隣りが、剣道の武具を売っている店というのも面白い。…」。”YAMATOYAのある横丁の一劃”と書いていますが”一劃”なんて漢字いまでも使うのでしょうか、それなりの意味を持たせているとおもうのですが、おもわず辞書まで引いてしまいました。このYAMATOYAのある路地ですが、写真の通り、本当に狭い小路です(道ではなくて路と書いて、意味を持たせています!)。この小路も、京都の小路の雰囲気がしますね。いいなあ〜!!

右の写真がYAMATOYAのある小路です。この小路にはいろいろなお店があります。当然お風呂屋さんもあります。ついでに掲記に書かれている聖護院の写真も載せておきます。

たる源>
 「五木寛之の金沢を歩く」(2)で東海林さだおが「ジョウジくんの金沢」のなかに出ている「たる源」です。「…「さつきお風呂に入りましたが、やはり木のお風呂はいいですなあ」 「そうでっしゃろ。やはりお風呂は檜に限りますがな」 「ムムッ、ゃはりあれは檜であったか」 「あの湯桶な、あれは京都のたる源の桶でな」 「たる源!うん女性週刊誌で読んだことあるぞ、なんでも名のある桶作りの名人とか」 かように、ここ金沢では、身動き一つするたびに、名器名作とわたりあわねばならないのである。なんでもかんでも一流品なのだ。二流の人は赤面するばかりである。…」。また、五木寛之の「田舎の料理屋の話」のなかにもでてきます。ただ、こちらは「箱清」と書いてありますが、多分「たる源」のことです。「…「おれたちの業界の雑誌があるでしょ、あれ見ると、もうしょっちゅう出てるの」 「出てるって、何が」 「ほら、あれですよ、日本一の箱をつくるとかいう(箱清)ってお店のこと」 「ハコセイね。あれは有名らしいなあ」 「有名なんてもんじやない。うちじや箱清の道具つかってます、ってのが仲間の有名店の自慢でね。雑誌なんかページ三分の一もさいて大々的にほめてたりさ」。…」。この後、箱清(たる源?)を訪ねて注文するのですが、2年待っても品物は届きません。ある時、あるお店でたる源の品物を見つけます。「…一流の文化人が、よく一流店のことを筆にする。雑誌や観光案内などでも、必ず一流店の話は出てくる。テレビなどでも勿体ぶって紹介されたりする。それも、最大のセールスポイントは、なかなか手に入りにくい、注文してもたやすく作ってくれない、その気位の高さと、名人気質が話題の中心だ。そんな商いのやり方は、今もある。新しい音楽の世界などにもよく見られる現象だ。そのくせ、実はなんのことはない、別なルートではいくらでも手に入れることが出来るのである。 「夢がこわれて淋しい気がしました」 と、Mさんは水割りのグラスをテーブルにおいて小声で言った。」。本当に夢がこわれてしまいますね。

左の写真が現在の「たる源」です。付近が開発されてしまって、ただ一店残った日本家屋という雰囲気になってしまっています。(写真をクリックして拡大すると周りの風景がわかります)。

龍谷大学>
 昭和56年、五木寛之は二度目の執筆活動休止を宣言します。そして再び京都へ転居し龍谷大学に通い始めます。「…昭和五十六(一九八一)年、この大宮学舎に 風変わりな学生が通い始めた。五木寛之、当時五十歳。休筆中の作家は龍谷大学で三年間、聴講生という立場で仏教史を学んだ。聖護院(京都市左京区)の近くに住み、下駄履きで通学。講義はできるだけ前の席に座り、教授によく質問をした。周囲の学生からは「おじさんのせいで授業が長くなる」と嫌がられもしたが、楽しく、そして実のある学生生活だったという。」。と「五木寛之の百寺巡礼 京都編」に書かれています。建物は、とても趣があり、私も年をとったら通ってみたい大学です。

右の写真が龍谷大学大宮学舎です。「五木寛之の百寺巡礼 京都編」よると「西本願寺の南側には、龍谷大学大宮学舎が隣接する。敷地内には明治十二(一八七九)年、当時の最新技術で建てられた洋館が並ぶ。本館や正門などは国の重要文化財に指定されている。寛永十六(一六三九)年、西本願寺境和に学象(僧侶の養成学校)が開かれた。これが龍谷大学の前身である。それが時代とともに発展し、現在では京都・滋賀に三つのキャンパスを持つ総合大学となった。発祥地の大宮学舎は現在、文学部の三四年生、大学院の一部課程で使われている。」。うむ〜、さすが西本願寺の大学です!!



五木寛之の京都地図 itsuki-tokyo-map1.gif


【参考文献】
・風に吹かれて:五木寛之、角川文庫
・五木寛之全紀行6 半島から東京まで:五木寛之、東京書籍
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・葦笛のうた(足立・女の歴史):鈴木裕子、ドメス出版
・五木寛之全紀行5 金沢はいまも雪か:五木寛之、東京書籍
・現代作家シリーズ 五木寛之:浅尾忠男
・五木寛之エッセイ全集:講談社
・いま五木寛之(面白半分増刊号):五木寛之、面白半分
・曽野綾子、五木寛之、古井由吉(石川近代文学全集10):石川近代文学館
・五木寛之作品集:五木寛之、文藝春秋社
・五木寛之 日記:五木寛之、岩波新書
・琥珀色の記録〜新宿の喫茶店:新宿歴史博物館
・新宿区の民族(3)新宿地区編:新宿歴史博物館
・流されゆく日々 1975〜1987年:五木寛之、講談社
 
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