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最終更新日:2006年2月19日

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●五木寛之「風に吹かれて」から千住遊廓跡を歩く
  初版2002年7月13日 
<V02L03>

 今週は「五木寛之」を初めて取り上げてみたいと思います。皆様から「取り上げて欲しい」との要望が多い作家の一人ですが、一度に五木寛之のすべて掲載するには時間が掛かりますので、第一回として最も有名な「風に吹かれて」から”赤線の街のニンフたち”を取り上げて、千住遊廓跡を巡ってみたいと思います。

<千住遊郭跡>
 千住遊郭は大正中頃までは旧日光街道の千住宿場の中に点在していましたが、警視庁により、現在の千住柳町が新遊郭地として指定され、旧日光街道からの移転組を含めて16軒でスタートします。関東大震災では大きな損害は受けず、板橋や吉原で大きな痛手を受けた業者が転入し、一時は56軒にもなっていました。戦後は32年に赤線が廃止されるまで営業を続けていました。

itsuki-kitasenjyu10w.jpg 五木寛之の「風に吹かれて」は昭和42年4月から同年12月にかけて「週間読売」に連載されたものです。最初の書き出しが「ある作家から、「きみはセンチュウ派か、セソゴ派か」と、きかれた。ピソときたので、「センチュウ派です」と、答えた。その作家は目尻にしわをよせてかすかに笑うと、それは良かった、と言った。良かった、と言うべきではないかも知れない。だが、私には、その作家の言葉にならない部分のニュアンスが、良くわかった。」、これだけ読むとよく分からないのですが、この続きに回答があります。あまりに有名なので皆さんはよくご存じだと思いますが、「センチュウ派」は「線中派」です。私みたいな線後派は今となっては本でしか体験することができず残念です!(こんなことは言ってはいけない?)

左の写真は角川文庫の「風に吹かれて」です。この本は400万部を突破した大ベストセラー本です。文庫本の初版が38版、改訂版が16版ですから合計54版になっています。すごいの一言です。

<五木寛之(いつきひろゆき)>
 1932年、福岡児生まれ。『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。81年より休筆、京都の龍谷大学にて仏教史を学び、85年から執筆を再開した。第一エッセイ集『風に吹かれて』は刊行28年をへて、約四百万部に達するロングセラーとなっている。主な著書に『燃える秋』『戒厳令の夜』『風の王国』他多数。訳書に、リチャード・バック『かもめのジョナサン』など。(角川文庫より)


itsuki-kitasenjyu11w.jpg三河島駅>
 この作者は赤線がある千住柳町(昔は柳町)に遊びに行くのに、どういうわけか常磐 線の「三河島駅」を降りて尾竹橋から柳町に向かっています。普通なら常磐線の北千住駅から歩いていくのが一番近いのですが、手持ち無沙汰のため、国電の料金の区切りがいい三河島駅で降りていったのだと思います。「月のなかばに、週末をさけ、出来れば雨降りの夜をえらんで三河島の駅 から歩いた。夜半を過ぎると、四百円位で泊ることが可能なこともあった。」とあります。安く泊まれる日をひたすら選んで、電車賃も安い三河島駅を降りて千住柳町まで、尾竹橋経由で約3.5Km、40分位歩いていたのだと思います(下記の地図参照)。

左の写真が現在の「三河島駅」です。プラットホームと駅構内は昔のままで、自動改札機とエスカレータが時代を感じさせます。この三河島駅は昭和37年5月3日、下り貨物列車が赤信号を見誤り脱線、そこへ上野発下り国電が衝突、その直後に上り電車が転覆した電車に衝突し死者160名をだした三河島事故で有名です。


itsuki-kitasenjyu14w.jpg千住大門商店街>
 遊郭があったところは必ず大門という名前がつきますね。そんな中でも五木寛之は千住の街か好きだったようです。「そんななかでも、やはり時には女のいる街へ出かけた。どこをどう工面したのか、記憶にはない。今おばえているのは、ファジェーエフとか、カターエフとか、オストロフスキーとか、その度に古本屋へ持って行った作家たちの名前だけだ。新宿二丁目あたりは問題にならなかった。あんな所はブルジョア階級が豪遊する場所だと思いこんでいた。一度だけ、配達用の青自転車で駆け抜けたことがある。豪華さと、美人が多いのに驚嘆した。少くとも、当時の私には、そう思われた。私が時たま出かけるのは、北千住の街だった。立石や、鐘ヶ淵の方面へは、近くの採血会社の帰りに寄ったりした。」、お金は本を古本屋に持っていって、賄っていたようです。新宿二丁目がブルジョアだと吉原はどうなるのでしょう。

右の写真が現在の千住柳町にある千住大門商店街です。この地区は空襲にも焼け残って戦後も早くから復興したようで、この商店街の中にも古い建物が残っています。

itsuki-kitasenjyu15w.jpg<カフェー街>
 遊郭やカフェー街の建物は独特です。現在でも一目見るとその建物だったとすぐにわかります。「私の知っている北千住の店は、正直楼といった。女の子の名前が、マツという。それにくらべると、新宿には、アンヌとかエリカなどという女がいそうな気がした。視線が会うと、すっと伏目になって半身を扉の陰に引くようにする。新宿の客は知的なので、こんなソフィステイケイションが有効だったのかも知れない。私はそんな新宿に感心したが、自転車からは降りなかった。私の行くのは、お化け煙突の街だった。」、正直楼とは垢抜けしない名前ですね、お化け煙突もかなり前に無くなっています。

左の写真が今も残っているカフェー街の建物です。もうほとんど、それらしい建物は残っていません。木村聡の「赤線跡を歩く」では昭和30年で一時間遊ぶのに300円の玉代が必要だったと書かれています。

itsuki-kitasenjyu13w.jpg<日光街道>
 北千住の駅から柳町に向かうには日光街道を超えていきます。つい先頃までは日光街道の東京に向かって右側には戦前の建物も含んで相当古い建物が並んでいましたが、どんどんビル化して現在ではほとんど無くなってしまっています。「冬の終り頃だったろうか。そのまま、女が金を帳場に持っていった間に、眠り込んでしまったらしい。目を覚ますと、五時だった。女は私の隣りで寝ていた。「なぜ起こさなかったんだ」、「だって、兄ちゃんが、あんまりぐっすり寝込んでるもんだから−」……早朝の配達の時間がせまっていた。… 私は、その日に限って青白転車で来ていた。車のスタンドを靴先でバタンとはねて、私は走りだした。「ちょっと待って」と、女がうしろから叫んだ。…「ほら。後のタイヤが抜けてる」と、彼女は手に下げてきた空気ポンプを差出して言った。…「あたしがやってあげる」女はたくましい腕を見せて、空気ポンプを押した。ギエツ、ギュッと音を立て、タイヤが固くなった。女はポンプをはずすと、手でタイヤをにぎり、「固くなった」と、言って、一瞬、照れたように笑った。「これで大丈夫」「うん」「あんまり来ないはうがいいよ、こんなところ」「眠るだけなら家でも眠れるからな」皮肉を言って私は走り出した。暗い空に、巨大なお化け煙突の影が見えた。みち足りた睡眠と、不満な欲望とが入りまじって、妙な具合だった。風が冷たかった。日本橋への道は遠かった。「固くなった」と、言って照れた女の顔を思い出すと、私はなんとなく、良かった、と思うことがある。……」、五木寛之は自転車に乗り、明け方早く、お化け煙突のある東京電力千住発電所の脇を通り、この日光街道を日本橋に向けて、すごいスピードで走ったのでしょう。照れた女の顔はきっとかわいかったのだと思います。
 
右の写真は日光街道を千住新橋から千住大橋方面を見た写真です。写真右側の”いろは通り”等の路地に少し入ると昔の建物がまだまだ残っており、特に昭和4年操業の大黒屋というお風呂屋さんはすごいです。


北千住付近地図
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【参考文献】
・風に吹かれて:五木寛之、角川文庫
・五木寛之全紀行6 半島から東京まで:五木寛之、東京書籍
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・葦笛のうた(足立・女の歴史):鈴木裕子、ドメス出版
 
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