11月末に金沢を訪ねる機会がありましたので、休日の日曜日一日掛けて五木寛之が歩いた金沢を巡ってきました。今週から数回に分けて、「五木寛之の金沢を歩く」、を掲載します。雪が降る前で、温かい金沢の一日でした。まだ撮影しきれていない所もありますので、時間を掛けて順次掲載していきたいとおもいます。
<五木寛之の金沢>
昭和33年に早稲田大学を除籍されてからの7年間、五木寛之は業界紙編集長、CMソングの作詩、放送台本記執筆などのさまざまな職業につきます。しかし、20代後半からの生活に体力的にも精神的にも疲れを感じてきます。「私は二十代のほとんどを東京で過した。九州から上京した二十七年にメーデー事件があり、早大事件があった。大学を途中で横へ出てからの歳月は目まぐるしい日々の連続だった。父親が死に、弟と妹がやがて上京してきた。私が東京を離れる気になったのは、ひとつは精神的肉体的に疲れ果てていたためかもしれない。……私はその当時、マスコミの中でまず何とか食っていける立場にいた。それなりに売れていたと言っても嘘ではない。だが、肺とは別なところにポッカリ暗い大きな穴があいていて、そこから冷たい風が絶えず吹いてくるのを私は感じていた。そんな状態を何といえばいいだろう。一種の無気力状態とでも、また放心状態とでもいうような気分が続き、何もかも、生活のすべてがわずらわしく、うとましく思われたのである。私は病気を理由に、当時関係していた仕事のぜんぶから身を引き、金沢へ移住することに決めた。それは、ある意味では早すぎる退場であり、理由のない脱走のようなものだった。金沢でさし当りどうするという当てはなかったが、最低の収入の当てだけはあった。最低といっても、文字通りの最低である。共稼ぎという安心感もあった。煙草も酒もやめ、小遣いも使わず一日二食で暮していけば何とかやっていけると考えたのである。…」、十代から二十代前半の若さに任せたエネルギッシュな生活力、がむしゃらな前へと進む力は歳とともに衰えます。エネルギッシュであればあるほど、反動は大きくなります。五木寛之は自分自身でそれを感じたのでしょう。
★左の写真が、五木寛之が金沢で最初に住んだアパート「東山荘」です。「東山荘」の字は擦れていますが、40年前のアパートがそのまま残っていました。 |