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最終更新日:2007年1月30日

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●五木寛之の金沢を歩く (1) 
 初版2003年12月6日
 二版2004年1月16日 訂正 <V01L01>
 三版2018年5月23日 (2)で「亀の湯」の場所を訂正、(2)でおでん屋「若葉」を追加 <V01L01>

 11月末に金沢を訪ねる機会がありましたので、休日の日曜日一日掛けて五木寛之が歩いた金沢を巡ってきました。今週から数回に分けて、「五木寛之の金沢を歩く」、を掲載します。雪が降る前で、温かい金沢の一日でした。まだ撮影しきれていない所もありますので、時間を掛けて順次掲載していきたいとおもいます。

<五木寛之の金沢>
 昭和33年に早稲田大学を除籍されてからの7年間、五木寛之は業界紙編集長、CMソングの作詩、放送台本記執筆などのさまざまな職業につきます。しかし、20代後半からの生活に体力的にも精神的にも疲れを感じてきます。「私は二十代のほとんどを東京で過した。九州から上京した二十七年にメーデー事件があり、早大事件があった。大学を途中で横へ出てからの歳月は目まぐるしい日々の連続だった。父親が死に、弟と妹がやがて上京してきた。私が東京を離れる気になったのは、ひとつは精神的肉体的に疲れ果てていたためかもしれない。……私はその当時、マスコミの中でまず何とか食っていける立場にいた。それなりに売れていたと言っても嘘ではない。だが、肺とは別なところにポッカリ暗い大きな穴があいていて、そこから冷たい風が絶えず吹いてくるのを私は感じていた。そんな状態を何といえばいいだろう。一種の無気力状態とでも、また放心状態とでもいうような気分が続き、何もかも、生活のすべてがわずらわしく、うとましく思われたのである。私は病気を理由に、当時関係していた仕事のぜんぶから身を引き、金沢へ移住することに決めた。それは、ある意味では早すぎる退場であり、理由のない脱走のようなものだった。金沢でさし当りどうするという当てはなかったが、最低の収入の当てだけはあった。最低といっても、文字通りの最低である。共稼ぎという安心感もあった。煙草も酒もやめ、小遣いも使わず一日二食で暮していけば何とかやっていけると考えたのである。…」、十代から二十代前半の若さに任せたエネルギッシュな生活力、がむしゃらな前へと進む力は歳とともに衰えます。エネルギッシュであればあるほど、反動は大きくなります。五木寛之は自分自身でそれを感じたのでしょう。

左の写真が、五木寛之が金沢で最初に住んだアパート「東山荘」です。「東山荘」の字は擦れていますが、40年前のアパートがそのまま残っていました。

五木寛之の金沢 年表

和  暦

西暦

年    表

年齢

五木寛之の足跡

作  品
昭和40年
1965
北ベトナム爆撃、名神高速道路全線開通
33
4月 大学時代の友人、五木玲子と結婚
6月 訪ソ、東欧を経て帰国、金沢へ転居
さらばモスクワ愚連隊
昭和41年
1966
全日空機、羽田沖に墜落
34
2月 第六回小説現代新人賞を受賞、直木賞候補となる
 
昭和42年
1967
東京都知事に美濃部亮吉
35
1月 第五十六回直木賞受賞 蒼ざめた馬を見よ、青年は荒野をめざす
昭和44年
1969
東大安田講堂に機動隊
37
10月 東京へ転居 デラシネの旗

東山荘>
 五木寛之は昭和40年、配偶者(この言葉は五木寛之自身が使っています)と共に東京から金沢に転居します。五木寛之は金沢の土地柄についてかなり的確に分析しています。「…ご存じの通り、金沢は北陸の小京都などと言われる古い城下町である。私の目から見ると、京都と金沢の共通点はそれほど多くはない。むしろ違いのほうが目立つくらいなのだが、とにかく世間ではそう思われているらしい。 …その相違は、都市と市民生活の成り立ちの根本のところにあるように思われた。たとえば京都人が排他的であるとは、よく言われることだ。だが、私はそうは思わない。たしかに力でもって割込んでこようとするものに対しては、強い拒絶反応を示すかもしれないが、その土地や住民に利益をもたらすもの、または客として訪れるものに対しては、おどろくほどの柔軟性を示す。京都という町の、そもそもの成り立ちが、外来者との協力と外来文化の同化なしにはあり得なかった土地柄なのである。金沢は、その点において京都とは全くちがう。観光客の落す金は、以前の金沢では不浄の金であった、というのは言いすぎかもしれない。だが、最近は別として、かつての加賀百万石の矜持は、ほとんど旅行者の懐を当てにすることをいさぎよしとしなかったはずだ。…」、金沢の見方としては面白いですね。流石の外様大名、前田家、加賀百万石です。

左の写真が金沢での最初の住まい、金沢市小立野五丁目の「東山荘」です。2棟立っており、どちらかはわかりませんが、二階の一番奥の部屋に住んでいたようです。「…私は、その刑務所の真裏のアパートの一室で、金沢での最初の生活をはじめることになるのである。そのアパートは、東山荘といった。二階の一番端の部屋に私たちは住んだ。私たち、というのは、私と私の相棒、すなわち配偶者という表現で私が雑文の中にしばしば登場させる女である。私はどういうわけか、少年の頃からいわゆるファミリーというのが苦手なたちで、それは現在にいたるも変らない。たとえそれが最近はやりのニュー・ファミリーと称するお友だちふう家族でさえも駄目なのだ。したがって、妻だ夫だ、亭主だ女房だというのは、その言葉でさえもうとましく、遂に表現に窮して(配偶者)という生硬な用語を使って笑われる破目になったのである。…」。五木寛之の配偶者である玲子さんの父親は岡良一氏(医学博士)で、昭和14年社会党で石川県議に初当選し、以後衆議院議員6期、金沢市長を2期務められた、金沢では有名な方です。もともとは十全病院の医院長だったようで、この東山荘の近くに病院があります。

金沢刑務所跡> 二版04/01/16 訂正
 五木寛之が金沢で最初に住んだ「東山荘」は、金沢刑務所の裏に建っていたことはあまりに有名です。「私が最初に住んだのは、金沢の町でもかなりはずれのほうの、小立野という台地の隅のあたりだった。たぶん、小立野五丁目だったと思う。市電を終点で降りて古めかしい木造の大学附属病院の前を右へ折れ、グラウンドにそってすこし行くと如来寺というお寺の脇に出る。そこを道なりに左折し、さらに右へ曲って歩いてゆくと、突然、左手に異様に高い煉瓦塀が、夢の中の風景のように現われる。風雨にさらされて、やや黒ずんだ感じの煉瓦塀だった。最初にそれを目にしたときの不思議な印象は、今でもはっきりと憶えている。弁当忘れても傘忘れるな、と言われるぐらい雨天の多い土地だ。どんよりと低くたれこめた雨雲を背景に、正確な遠近法で続く煉瓦塀は、なぜか私にカフカの小説の中の風景を連想させた。それが明治四十年に作られた金沢刑務所の外界だと知ってからは、私の中にその煉瓦塀が金沢という町の一つの象徴的なイメージとしてこびりつき、ながく離れなかった。……私たちの住む部屋の窓からは、刑務所の塀の一部と、その折のかなたにそびえる奇妙な木造の塔が挑められた。どうやらそれは、徒刑者を監視するための監視塔であるらしい。天気のいい夕方など、その角ばった塔のガラス窓が夕焼け色に光って見えた。…」。旧金沢刑務所の塀は全くなくなっており、五木寛之がよく写真に移っていた面影はなにもありませんでした。この金沢刑務所(東山荘)は金沢市内の繁華街、香林坊からは少し離れていて、歩いて40分(2.8Km)程です。

右の写真の所が金沢刑務所跡で、現在は金沢大学医学部保健学科と、金沢美術工芸大学になっています。「東山荘」は金沢大学医学部保健学科の右側の道を少し入った所にあります。金沢刑務所は市内から少し離れた所に移転していますが、旧金沢監獄の門などの一部の建物は名古屋の明治村に移設しています。

<ローレンス>
 五木寛之は、金沢時代、金沢の繁華街である香林坊や片町の喫茶店に足しげく通います。「…私が金沢で書きあげた最初の小説は、幸運にも(小説現代)の新人賞に入選した。……私が市内の契茶店によく立ち寄るようになったのは、その頃からだった。最初は(郭公)、それからスタンド・バーで昼間だけ喫茶になる(蜂の巣)、やがて新しく出来た(ローレンス)などが私の行きつけの店だった。喫茶店といえば、ひとつ思い出がある。あれはたしか(金劇)の地下の喫茶店だったはずだ。その店にくる客で、ツケにして帰る客が結構いるのである。……「小立野の五木やけどね」と、私は席を立ちながら言った。「このコーヒー、ツケといてくれんか」「イッキさん? どこのイツキさんや」女の子はけげんそうに首をひねり、カウンターの下から何か電話張のような分厚い本をとり出した。「小立野のどのへん?」と、彼女は私にきいた。「五丁目。東山荘というアパートや」私も金沢弁ふうに真似て答えた。…「刑務所のすぐ裏やね。東山荘、イツキさん、と。あ、わかった。五の木と書くんやろ」「そう」「はい、承知しました」彼女は本をバサッと閉じてうなずいた。……私が背中がこそばゆい感じでその店を出るとき、背後で女の子がバーテンダーに告げる声がきこえた。「刑務所裏の五木さんやて」…」、いい時代でしたね。ここで書かかれている喫茶店の「郭公」、「蜂の巣」は既にありません。ローレンスが、かろうじて残っているだけです。”金劇”は金沢劇場の略で、片町のバス停前の金劇ビルとなっており、地下の喫茶店は未確認です。40年の歳月は街を変えてしまっています。「郭公」の所在地には、堅町商店街のショッピングプロムナードが、「蜂の巣」の場所は、大和百貨店に変わっていました。

左の写真の真ん中の建物の三階に「ローレンス」があります。40年前は新築のビルで、真新しい喫茶店だったのだとおもいます。現在は、少しくたびれて(大分くたびれて、空室が目立つビルになっています)います。ローレンスのコーヒーには”ゆで卵”が付くのが有名だったのですが、残念ながら私が訪ねたときには付いていませんでした。代わりにクッキー等が付いていました。残念でした。この喫茶店も後継者がいないようで、またビルも古くなって、メンテナンス状態が良くなく、長くもたない、とおもいます。訪ねてみたい方は早めにいかれた方が良いかとおもいます。

直木賞受賞>
 五木寛之は昭和42年2月、第五十六回直木賞を受賞します。当時の金沢での状況が、本人の日記から詳細に分かります。「一月十二日 北国新聞夕刊に芥川・直木賞候補作品発表されている。直木賞に陳舜臣民がはいっている。自分に決まらなければ、陳氏がもらうだろう。芥川賞候補には、宮原昭夫、古賀珠子と二人の早大露文科出身者がいる。夜、小立野の宇野魚店で、サワラ一本を買い、片身を刺身、片身を焼いて食う。三百七十円也。
一月二十三日 朝からざわついている。TBSのスタッフ四名、十二時半に来宅。部屋にライトをセットしたり大変だ。……友人、ジャーナリスト各氏から電話しきり。六時半、(ローレンス)へ行く。TBS、カメラをすえ、インタビュー。のち、選考の結果を電話でうける所をとるという。七時十分、TELあり小林氏。少し待ってもらい、七時十五分、井上氏よりTELで「受賞おめでとう」。豊田、杉村、小林民らも出る。カメラが回っている。客がシャンパンをぬいた。…」
、かなりの確率で直木賞を貰えると思っていたようです。やはり、小説家は自信家でないとだめですね。受賞連絡の瞬間も、本人はたんたんと日記で書いています。また、当時の事をローレンスのママも語っています。「ある日の夕方、「ローレンス」 の店内に、突然テレビ局の数人の男たちが撮影の機材を持ちこんできた。主人が驚いて訳を訊くと、今夜、五木さんも候補になっている直木賞の発表があるのだという。そうこうしているうちに、当の五木さんも、あわてて顔を見せた。「ここで書いた作品ですから、もしお邪魔でなかったら、このお店の電話で結果を知りたいと思いまして−」、そんな名誉なことはない、と主人はそのまま店を飛びだし、近所の酒屋へシャンぺンを買いに走った。七時が近づいていた。やがてレジのそばの電話が鳴った。主人はまだ酒屋から戻つて来ない。TVのカメラが回り始めた。店のママが受話器をとり、五木さんと代った。「いかがでしたか」と、電話を終えた五木さんに、ママは訊ねた。「ありがとうどざいます。お陰様で」と、新直木賞作家はママへ深く頭をさげた。四、五人いた店の客から大きな拍手が湧きあがった。そのとき主人がドアを押して、シャンペンを抱えて入って来た。−勢いよく飛んだシャンベンのキルクの栓は、カーテンの上に引っ掛かったまま、ついこのあいだまで残っていたという。…」。受賞の瞬間というのは、何時聴いても、いいものです。当時の直木賞の選考委員は海音寺潮五郎、川口松太郎、源氏鶏太、今日出海、柴田錬三郎、中山義秀、松本清張、水上勉、村上元三で、そうそうたるメンバーです。

右の写真が、直木賞受賞の連絡を受けたローレンスの電話です。なんでも電話局(NTTか)から新しい電話に変えてくれと言われたそうですが、頑張ってそのままにしているそうです。

●五木寛之の金沢を歩く (2)
 初版2003年12月20日
<V01L03>
 三版2018年5月23日 「亀の湯」の場所を訂正、おでん屋「若葉」を追加 <V01L01>

 今週は「五木寛之の金沢を歩く」、の第二回目として、五木寛之が通った片町、香林坊の本屋と、金沢での住まいの変遷を掲載します。11月末に金沢を訪ねる機会がありましたので、休日の日曜日一日掛けて五木寛之が歩いた金沢を巡ってきました。

<ショージ君の金沢>
 ショージ君と言えば、漫画で有名な”東海林さだお”です。この東海林さだおが、「ショージ君のぐうたら旅行」の中で”金沢にて五木センパイと”いうエッセイを書いています。書き出しは、「小松空港に降りて、最初目についたのはススキだった。久しぶりに地平線というものを見た。…」、漫画家というものは、一日中家の中で漫画を描いているのだろうか。「…なにしろ古都金沢を、憂愁の作家五木寛之先生に案内してもらうことになっているのですからね。……車が旅館の前にとまる。旅館らしくない、小さなしもたや風の造りではあるが、やはり伝統のある旅館であるという。聞くところによると、一流の人しか泊めないという畏れ多い旅館だという。二流の人は、おびえて玄関にドタバタところげこむ。この旅館で、五木さんがぼくを待ちうけてくださっているのだ。……五木さんは、ちょうど風呂から上がったところで、白い浴衣でぼくらを迎えてくださった。数冊の本を脇に、静かに端坐しておられる。この白い浴衣が、またすつごく似合うんだなあ。床の間には、由緒ありそうな掛け軸が、由緒ありそうに掛かっている。由緒ありそうな置物、由緒ありそうな垂には由緒ありそうな花が活けてあり、座卓も由緒ありそうな黒い漆塗りのものである。どこもかしこも由緒だらけである。…「金沢の人はね」と五木さんがいう。「こういう器とか書画骨董なんかには、わりにうるさいんですよ。……「さつきお風呂に入りましたが、やはり木のお風呂はいいですなあ」、「そうでっしゃろ。やはりお風呂は檜に限りますがな」、「ムムッ、やはりあれは檜であったか」、「あの湯桶な、あれは京都のたる源の桶でな」、「たる源!うん女性週刊誌で読んだことあるぞ、なんでも名のある桶作りの名人とか」かように、ここ金沢では、身動き一つするたびに、名器名作とわたりあわねばならないのである。なんでもかんでも一流品なのだ。二流の人は赤面するばかりである。…」、面白いですね。続きは本を読んで下さい。因みに、「たる源」とは、京都の桶、樽を作る有名なお店です。風呂桶で3万円から4万円します。

左の写真が、東海林さだおの「ジョージ君のぐうたら旅行」の表紙です。なかなか面白いエッセー集です。

<石引通り>
 五木寛之は、東山荘時代、アパートから近くの石引通りにある風呂屋や貸本屋、おでん屋に通います。五木寛之のエッセイ「小立野刑務所裏」では、「…東山荘には風呂がなかったので、私は週に何回か、手拭いをさげて銭湯に通った。小立野の坂の入口にある(亀湯)という銭湯は、見晴らしがよく、私は大いに気に入っていた。少し懐が暖かいと、(わか葉)というおでん屋に顔を出した。金沢のおでんは独特である。冬場はコウバコというズワイ蟹の雌がうまい。香りのいい芹もよかった。亀湯のことを、地元の人たちは濁って、ガメ湯と呼んでいたようだ。ガメ湯からあがって、きびしい寒気のなかを(わか葉)に駆けこむ気分は最高だった。ふた月に一篇ずつくらい小説が活字になるようになってくると、それくらいの豪遊は不可能ではなかった。小説を書いていて良かった、と、そんな時に思ったものだった。…」、と書いています。おでんで幸せになれたんですね!また、面白半分増刊号の「五木寛之の下宿探訪記」では、「…石引通りの道に面して、橘書店という小さな貸本屋があった。五木さんは頻繁にこの店へかよい、本を借りて帰った。店の奥に中年のおばさんが座っている。五木寛之さんが、よく来られたそうですが、と訊ねると、「ええ、あれはいつ頃でしたかねえ、よく覚えていますよ。毎日のように来てくれまして、こんなに小説本を(と、十冊くらいの高さを示して)1度に借りて行くんですよ。多いときは、お昼まえに借りて、それを夕方にはもう返しに来られて…」、おばさんの眼には、最初、学生にしては老けて見えるし、それにしても余程何もすることがないヒマな男に思われたそうだ。五木さんはいつも下駄履きで店内に現われた。店の前にある銭湯「亀乃湯」の帰りなのか、濡れた手拭をぶらさげている日もあった。…」、とも書かれています。当時の「亀の湯」のあった石引通りは、新しい通りが出来て、町並みが変わってしまっていました(「亀の湯」は西に200m移転し「石引温泉 亀の湯」となっています)。

右の写真の左正面辺りに当時の亀之湯があったはずです。昔はこの写真の交差点はなく、左右の道が新しく出来ていました。貸本屋の橘書店も無くなっていましたが、建物だけは残っていました(写真正面空き地の左隣)。

<わか葉>
 2018年5月23日 「若葉」を追加
 五木寛之が金沢時代によく通ったおでん屋 若葉を訪ねました。訪ねたのは2016年5月で、改版が遅れてしまいました。

 五木寛之のエッセイ「小立野刑務所裏」では(上記と同じ)、
「…東山荘には風呂がなかったので、私は週に何回か、手拭いをさげて銭湯に通った。小立野の坂の入口にある(亀湯)という銭湯は、見晴らしがよく、私は大いに気に入っていた。少し懐が暖かいと、(わか葉)というおでん屋に顔を出した。金沢のおでんは独特である。冬場はコウバコというズワイ蟹の雌がうまい。香りのいい芹もよかった。亀湯のことを、地元の人たちは濁って、ガメ湯と呼んでいたようだ。ガメ湯からあがって、きびしい寒気のなかを(わか葉)に駆けこむ気分は最高だった。ふた月に一篇ずつくらい小説が活字になるようになってくると、それくらいの豪遊は不可能ではなかった。小説を書いていて良かった、と、そんな時に思ったものだった。…」、と書いています。おでんで幸せになれたんですね!

右の写真が現在のおでん屋 若葉です。時間が早かったのでガラガラでした。ビールとおでんを頼んで愉しみました。お店の中の写真と、精算の時に使う札の写真を掲載しておきます。札は昔からだそうで、五木寛之もこの札で精算したかもしてません。

<精神病院の裏手と警察学校の裏手>
 五木寛之は直木賞を受賞後、東山荘から配偶者の実家である病院の横(五木寛之は裏手と書いています)の一軒家に転居します。五木寛之のエッセイ「小立野刑務所裏」では、「…私のほうもやがて小説の仕事が忙しくなると、東山荘を出て一軒家に移り住んだ。その家は精神病院のすぐ裏手にあって、時どき患者さんが遊びに来たりもした。そこにしばらく住んだ後、今度はさらに小立野台地のほずれに住んだ。その家は借家だったが二階家で、目の前が警察学校のグラウンドになっていた。金沢で三度うつり住んだそれぞれの場所が、刑務所裏、精神病院裏、警察学校裏、とつづくのも妙である。…」、と書かれています。この家は金沢大学工学部の裏手になり、東山荘からは、僅か500m程の距離です。直木賞作家が、あの東山荘では格好がつかなかったのでしょう。その後、金沢差異だの家、警察学校の裏手の二階家に転居します。此方も、精神病院の裏手からは700m位の距離です。

左の写真が金沢での二番目の住まい、金沢市小立野二丁目の”精神病院の裏手”の家の跡地です。正面の建物が病院で、丁度正面辺りに五木寛之が住んだ家が建っていました(駐車場の所)。横浜に転居する前に住んでいた、警察学校の裏手は、現在はすっかり変わってしまっており、昔の面影は全くありません。写真では、警察学校の正面の道を撮影しておきました。

<北国書林跡>
 上記に書いた”五木寛之が東海林さだおを接待した頃”は、そうとう収入も増えていたのでしょう。東山荘の頃は、かなり厳しい生活をしていたようです。そうした状況の中でも、かれは、片町や香林坊の本屋にしばしば通っています。「…私は一日の小遣いを三十円と限定し、その枠を守って暮した。金沢の町は本屋さんが多いのが特徴である。私は電車やバスを使わず、下駄や長靴をはいて、歩いて香林坊の繁華街へ出、北国書林、宇都宮書店、福音館、と順ぐりに回つたのち、裏通りの古本屋を一軒ずつのぞいて歩いた。そして帰りに今川焼を買うか、大学前の貸本屋さんで本を借りるかして、刑務所の長い煉瓦塀の横を通り、アパートへもどるのだった。コーヒーを飲むためには二日か三日、一円も使わずに我慢しなければならなかった。…」。私ならば、バイトをして稼ごうとおもってしまいますが、五木寛之はそうは考えずに、ひたすら小説を書いていたわけです。週刊朝日篇の「戦後値段史年表」によると、昭和40年の東京のコーヒー代は80円、週刊朝日が50円、銀行員の初任給が2万5千円でした。

右の写真の高いビル(金沢エクセルホテル東急)所が北国書林跡です。東急ホテルの左隣の109と東急ホテルのところが区画整理されてしまいました。私も昔の香林坊を知っているのですが、風景か変わってしまっています。

<宇都宮書店>
 金沢では宇都宮書店がかなり有名です。「…その頃、(北国書林)や、(宇都宮書店)によく行った。両方とも北陸で屈指の大書店である。宇都宮書店では、かって泉鏡花もよくツケで本を買込んでいたという。…」、前回は喫茶店でのツケの話をしましたが、本屋でツケがきくとは思いませんでした。泉鏡花だからだったのかもしれませんが、現在ではむりとおもいますが、当時はいい町だったのですね。五木寛之が通っていた本屋は、あと二軒です。一軒目の福音館はアトリオの正面の第一生命ビルの一階です。もう一つの本屋の北斗書房は無くなっていました。福音館から香林坊交差点へ少し歩いた所だったのですが、現在はIWAMOTOビルになっていました。

左の写真が、宇都宮書店です。香林坊からすこし町中に入った所にあります。

次回は「続、五木寛之の金沢を歩く」をお送りします。


五木寛之の金沢地図 -4-



五木寛之の金沢地図 -1-


五木寛之の金沢地図 -2-


【参考文献】
・風に吹かれて:五木寛之、角川文庫
・五木寛之全紀行6 半島から東京まで:五木寛之、東京書籍
・赤線跡を歩く:木村聡、自由国民社
・葦笛のうた(足立・女の歴史):鈴木裕子、ドメス出版
・五木寛之全紀行5 金沢はいまも雪か:五木寛之、東京書籍
・現代作家シリーズ 五木寛之:浅尾忠男
・五木寛之エッセイ全集:講談社
・いま五木寛之(面白半分増刊号):五木寛之、面白半分
・曽野綾子、五木寛之、古井由吉(石川近代文学全集10):石川近代文学館
・五木寛之作品集:五木寛之、文藝春秋社
・五木寛之 日記:五木寛之、岩波新書
 
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