<「太平洋戦争日記 (三)」、伊藤整>
伊藤整は昭和16年12月1日から、昭和20年8月16日まで、太平洋戦争の期間を日記形式で書き残しています。相当の量で、三巻に分かれています。かなり詳細に書かれているので、ページ数が自然と増えたのだとおもいます。かなりの数の文士達が戦争期間中に日記として書き残していますが、これだけの量は伊藤整だけだとおもいます。
「伊藤整 太平洋戦争日記 (三)」からです。昭和20年5月の項です。
「 五月十七日記 朝貞子と子供を北海道にやる 昼編隊来襲
この月の初めから、貞子と子供を北海道へ疎開させることにして種々手段を尽し、ようやく昨日荻窪駅から荷物を出し、今朝九時四十分上野発で出発させた。いま新潮社四階の出版部室にいる時、十一時三十分、敵編隊来襲の警報が出た。…
…
この一月ほど前の四月十四日の大空襲以来沖縄戦たけなわの間。東京への大きな空襲は無く、敵のB29は専ら九州、四国、中国方面の我基地を襲っていたのであった。その間に以前の罹災者の疎開、三月末迄の建物疎開の人たちの転出も一とおり済んだらしかったが。それに続いての東京人の地方転出は、五月の初め頃禁止となった。老幼病者、罹災者、建物疎開者の外は都から出れないのである。私はようやく華北種苗の転出証明で許可を得たのが、六日であった。しかし、許可は得ても、丸特という区の印、つまり老幼病者がいないと、疎開荷物許可書や切符が発行されないと駅で言い、それから区役所に交渉し、十三歳の礼をまだ国民学校にいることにして、やっと丸特の印をもらったのが十三日であった。十四日切符を人手、これは用紙にそのまま印刷されてあるので、簡単であった。しかし十七日に乗車しないと切符は無効になるのである。四人分百円ほどの切符が無料なのには驚いた。…」。
後から書いたのではこれほど詳細に書けません。時間は分まで書かれているので、推定ですが、メモに書き留めていて、後から改めて書いているのだとおもいます。それにしても詳細です。それと、コネをフルに使ってなんとか乗り切ろうとしています。凄いエネルギーです。
伊藤 整(いとう せい、明治38年(1905)1月16日 - 昭和44年(1969)11月15日)
伊藤 整は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名は伊藤
整(いとう ひとし)。北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれます。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡っています。明治39年(1906)塩谷村(現小樽市塩谷町)役場転職に伴い小樽へ移住。旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学んでいます。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がいました。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京します。昭和2年(1927)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学びます。又、下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結んでいます。その後大学を中退し、戦前、戦後にかけて金星堂編集部、日本大学芸術科講師、新潮社文化企画部長、旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、帝国産金株式会社落部工場勤務、北海道帝国大学予科講師等で働いています。戦後、東京に戻ってからは日本文芸家協会理事、早稲田大学第一文学部講師、東京工業大学教授、日本日本近代文学館理事長等を歴任します。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響はありませんでした。1969年11月15日、胃癌のため死去しています。(ウイキペディア参照)
★写真は新潮社版、昭和68年(1983)発行の「伊藤整 太平洋戦争日記
(三)」です。最初のころは毎日、天候、体調、煙草の本数等も書いていましたが、昭和19年頃からは天気なども書かなくなり、まとめて書くようになっています。永井荷風が日記形式で断腸亭日乗を書いてから、日記が稼げると分かり、文士達はこぞって書くようになったのだとおもいます。