●伊藤整の北海道を歩く -4-
    初版2015年2月21日 <V01L01> 暫定版

 新企画、「伊藤整を歩く」を継続して掲載します。今回は「伊藤整の北海道を歩く -4-」として、戦時中の昭和20年7月に、東京から奥様の実家がある北海道の野田生に疎開された時を歩きます。


「伊藤整全集」
<「太平洋戦争日記 (三)」、伊藤整>
 伊藤整は昭和16年12月1日から、昭和20年8月16日まで、太平洋戦争の期間を日記形式で書き残しています。相当の量で、三巻に分かれています。かなり詳細に書かれているので、ページ数が自然と増えたのだとおもいます。かなりの数の文士達が戦争期間中に日記として書き残していますが、これだけの量は伊藤整だけだとおもいます。

 「伊藤整 太平洋戦争日記 (三)」からです。昭和20年5月の項です。
「 五月十七日記 朝貞子と子供を北海道にやる 昼編隊来襲
 この月の初めから、貞子と子供を北海道へ疎開させることにして種々手段を尽し、ようやく昨日荻窪駅から荷物を出し、今朝九時四十分上野発で出発させた。いま新潮社四階の出版部室にいる時、十一時三十分、敵編隊来襲の警報が出た。…

 この一月ほど前の四月十四日の大空襲以来沖縄戦たけなわの間。東京への大きな空襲は無く、敵のB29は専ら九州、四国、中国方面の我基地を襲っていたのであった。その間に以前の罹災者の疎開、三月末迄の建物疎開の人たちの転出も一とおり済んだらしかったが。それに続いての東京人の地方転出は、五月の初め頃禁止となった。老幼病者、罹災者、建物疎開者の外は都から出れないのである。私はようやく華北種苗の転出証明で許可を得たのが、六日であった。しかし、許可は得ても、丸特という区の印、つまり老幼病者がいないと、疎開荷物許可書や切符が発行されないと駅で言い、それから区役所に交渉し、十三歳の礼をまだ国民学校にいることにして、やっと丸特の印をもらったのが十三日であった。十四日切符を人手、これは用紙にそのまま印刷されてあるので、簡単であった。しかし十七日に乗車しないと切符は無効になるのである。四人分百円ほどの切符が無料なのには驚いた。…」

 後から書いたのではこれほど詳細に書けません。時間は分まで書かれているので、推定ですが、メモに書き留めていて、後から改めて書いているのだとおもいます。それにしても詳細です。それと、コネをフルに使ってなんとか乗り切ろうとしています。凄いエネルギーです。

伊藤 整(いとう せい、明治38年(1905)1月16日 - 昭和44年(1969)11月15日)
 伊藤 整は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名は伊藤 整(いとう ひとし)。北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれます。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡っています。明治39年(1906)塩谷村(現小樽市塩谷町)役場転職に伴い小樽へ移住。旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学んでいます。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がいました。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京します。昭和2年(1927)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学びます。又、下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結んでいます。その後大学を中退し、戦前、戦後にかけて金星堂編集部、日本大学芸術科講師、新潮社文化企画部長、旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、帝国産金株式会社落部工場勤務、北海道帝国大学予科講師等で働いています。戦後、東京に戻ってからは日本文芸家協会理事、早稲田大学第一文学部講師、東京工業大学教授、日本日本近代文学館理事長等を歴任します。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響はありませんでした。1969年11月15日、胃癌のため死去しています。(ウイキペディア参照)

写真は新潮社版、昭和68年(1983)発行の「伊藤整 太平洋戦争日記 (三)」です。最初のころは毎日、天候、体調、煙草の本数等も書いていましたが、昭和19年頃からは天気なども書かなくなり、まとめて書くようになっています。永井荷風が日記形式で断腸亭日乗を書いてから、日記が稼げると分かり、文士達はこぞって書くようになったのだとおもいます。

「野田生」
<野田生>
 伊藤整の奥様、貞子さんは野田生の出身です。お二人のなれそめについては、息子さんの伊藤礼氏が「伊藤整氏 こいぶみ往来」に書いていますので、別途、特集したいとおもっています。野田生は北海道ということは分っていたのですが、北海道の何処にあるのか、又、読み方も知りませんでした。野田生は函館から長万部方面に特急で森駅で乗り換えて1時間半程掛かります(乗換23分含む)。各停で乗換無しなら2時間15分です。北海道の南西部の地図を掲載していますので見て下さい。

 「伊藤整 太平洋戦争日記 (三)」からです。昭和20年7月の項です。
「…  昭和二十年七月

 七月九日記…

 一日薫夫婦と共に出発、三日夕刻野田生着、基が先月十二日死去のことを貞子から聞いて驚く。電報が遂に到着しなかったのである。死後、兄妹が各方面から集って色々と片づけ、骨納めも二日に済んだ筈とのこと。貞子も東京から戻るとすぐその手伝いで疲れ切り、やっと起き上ったところだという。…」

 7月1日に東京を発って、3日に野田生に到着しています。時刻表で乗った列車を推定してみました。
 青函連絡船が空襲を受けたのは7月14日〜15日、青森空襲は昭和20年7月28日夜半から29日ですからその前に青森を通過して無事青函連絡船に乗れています。当時は急行列車は全て無く、各停でしたから、上野から青森まで20時間位掛かります。何もなければ、上野を15時40分発(列車番号:105)で青森着翌日10時35分、青函連絡船5便で、函館発16時25分、野田生18時40分となります。2日間です。途中、列車が遅れに遅れているとおもいますので、結果3日掛かったのだとおもいます。

写真は現在の野田生駅看板です。クリックすると駅舎の写真になります。明治36年(1903)の開設当初の駅名は野田追駅(のだおいえき)でしたが、昭和34年、野田生駅に改称されています。川の名前に野田追川が残っています。昔は川の北側が野田生、南側が野田追の地名だったそうです。この地は元々は明治期に旧尾張徳川家が付近一帯の土地を取得して 旧藩士を呼び開拓をした土地のようで、尾張出身の方が多いそうです。

「小川家(妻の実家)」
<妻の実家>
 貞子さんの実家、小川家は明治30年、貞子さんの祖父の時代に尾張から野田生に入植した農民でしたが、この頃は山林経営と質屋を営んでいたようです。私が訪ねた時には小川家は既に無く、近くの方にお聞きしたところ、かなり前に東京に行かれたとのことでした。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… 貞子の様子を見ると、一種の寄寓者の様子を帯び、あれこれと気をつかいながら、私や子供たちをかばおうとする気配があり、独立した主婦の気位を失っていて心を痛ませる。こういうことの根本は、決して邪魔者という意識から
生れるのではない。食糧の半分近くを補ってもらっているという配給量の不足という事実から来ている。野田生でも塩谷でも畑を作っていて、馬鈴薯や粟や豆などで、補いはついているものの、同居人が食糧の余裕を日々に削り取っていることは、一種の冷たい空気を生む。子供にしても礼は無邪気だからよいが、滋は何となく祖父母の家にいることが遠慮がちな風である。そして私自身また妻の実家の中では一種の無能力者であり、独立した生計を持たぬ者である。ということは今の配給食糧の不足分を妻子に供給し得ぬ者ということになり、何としても肩身が狭い。薫夫婦が自家に戻ったように振舞うのに較べて、私たち親子は、たしかに厄介者の立場である。…」

 小川家の詳細の番地は分りませんでした。八雲町の図書館で調べてのですが、古い住宅地図等の資料がなく、調べきれていません。札幌の道立図書館で調べないとダメみたいです。

写真は現在の野田生駅前通りです。駅から250m位で、国道5号線にでます。お店が2〜3軒ありましたが皆営業されていないようでした。小川家の位置については近くの方にお聞きしたところ、写真の少し先、左側にスピーカー塔が立っている所辺りに、小川家があったとのことでした(現在はスピーカー塔は無くなっています)。

「落部七区会館」
<帝産航空株式会社>
 伊藤整は野田生で就職先を探します。かなりの額の預貯金を持っていましたが、将来を考えて探したのだとおもいます。又、妻の実家に長くは居れないとのこともあったのだとおもわれます。ここでもコネを使ってうまく地元の会社に潜り込んだ感じです。

 デジタル八雲町史、第4編 産業と経済、第2章 林業、第3節 林産工業の推移から、
「…昭和18年3月に愛別ベニヤ工場から前記の落部工場を買収し、帝国産金株式会社落部工場とした。こうして帝国産金鰍ヘ翌4月に入沢に新工場を建設したが、6月には資本金100万円をもって別会社の帝産航空株式会社を創設のうえ、前記工場をこの会社の落部工場とし、愛別ベニヤ工場から買収した工場は解体したのであった。
 新設された会社の工場長は、現在札幌市在住の建築家田上義也であり取締役であった。
 会社新設と同時に落部工場は軍の指定工場となり、木製飛行機に使用する航空用単板製造が主となった。こうして従業員400人を擁するまでになったが、戦時下の食糧難時代でもあり、ブイタウシナイ(現、花浦)で農場を経営し、食糧を自給自足するという態勢固めまでしたのである。
 昭和20年8月終戦と同時にこの会社を閉鎖し、帝国産金株式会社落部工場と名称を変更したが、軍の指定工場だったため同年秋には進駐軍の立ち入り検査が行われた。22年に同工場は閉鎖され、24年には大同木材株式会社がこれを買収することとなった。…」

 まあ、ベニヤ板で飛行機を作る発想は良いのですが、敵がジュラルミンの飛行機なら、あっという間に撃墜されてしまいます。困ったものです。

 「伊藤整 太平洋戦争日記 (三)」からです。昭和20年7月の項です。
「… 十三日貞子と隣村の落部へ行く。田上夫人を訪い、話をすると、田上氏は函館に行って留守だが、多分何とかなると思うから帰ったらよく話しておこうとのこと。それから貞子の従姉の嫁している村の材木屋の林家をちょっと訪い、どこか家を惜りれないかと貞子が言うと、氏の兄に当る本家の林の家で座敷が余っているかも知れないから話して見よう、ということであった。何だか職業も住居も一度に決まりそうで、帰郷後の十日あまり感じた安住の家なしという苛立たしい不安な生活から解放されそうでほっとする。…

  昭和二十年八月

 八月二日記 於落部帝産航空工業
 今朝七時出勤し、田上義也工場長より紹介される。ラジオ体操、講話等に列席す。
 一昨日三十一日、野田生より馬車一台に荷物を積み、落部の沢田平治宅に借りた六畳八畳二間の座敷に引越しを為す。持物蒲団三組(一組は輸送途中に失い、一組は皮なしにて野田生にあり、他の二組は内地に留置してある)、行李三個(他に一個分野田生預け)、食糧として塩谷より米一斗、澱粉一斗、野田生より米五升、粟等三升、澱粉五升ほどもらう。相当の量にて、これだけあれば四ヶ月か五ヶ月の補給には困らないであろう。
 ストーブ、机、チャブ台、桶等は函館の基の使ったものを持参したので、差し当りは間に合う。煙突が無いのだが、家主の沢田家で貸してくれるというので、会社の大工で隣家にいる横田というのに話して煙突抜きを作ってもらい、据えつけることとする。
 三十一日夜貞子と二人泊る。一日夕刻礼と滋が来て、ここに東京を五月末[五月十七日]に子供たちと貞子が発って以来初めて一家が揃って自分たちの家庭を持ったこととなる。…」

 伊藤整は野田生から函館寄りに一駅の落部(おとしべ)駅近くの帝産航空工業に就職先を見つけます。奥様のコネでした。この落部辺りには学歴のある人はいないでしょうから、企画部長に治まります。伊藤整が落部で借りた沢田平治宅については場所が不明です。沢田家は落部で5〜6軒あり、確認が取れていません。

写真の右側辺りに帝産航空工業があったものとおもわれます。戦後、帝産航空工業は閉鎖され、24年には大同木材株式会社、その後は池内ベニヤ株式会社が引継ますが、最後は八雲町が買取り「落部七区会館」としています。写真の青い丸屋根のところが「落部七区会館」です。

 伊藤整は終戦後の昭和21年4月、北海道大学予科講師となり塩谷に戻ります。

「放送ばなし」
<玉音放送>
 伊藤整は昭和20年8月15日12時、落部の帝産航空工業の事務室で工員と一緒に玉音放送を聞きます。よく玉音放送は意味が分らなかったと聞くのですが、本当かどうか検証してみました。

 和田信賢の「放送ばなし」からです。(和田信賢氏はNHKのアナウンサー)
「八月十五日午前十一時、下村情報局総裁を初めとして放送局幹部一同放送会館第八スタヂオに。陛下の録音放送を申上ぐるべく集合した。
 私は別室からアナウンスをしなければならないので、報道部の部屋でポツダム宣言並に終戦の詔勅を下読みしてゐた。この下読みをしてゐる間は、別になんの考へもなかつた。もうただ忘我の境無我夢中であつたといふことが出来よう。
   下読みを終つた。いよいよ正午、時報に続いて「君が代」。
   下村情報局総裁の
 「只今より、天皇陛下の御放送であります」
 といふアナウンス、陛下の御詔勅は録音盤によつてかけられた。
 報道内にあつた報道部員一同、全員起立して陛下の御放送に頭を下げた。みな泣いてゐる。手放しで泣いてゐる。唇を噛みしめて泣いてゐる。鼻を啜って泣いてゐる。
 実は、私自身はさういった雰囲気の中に捲き込まれることを嫌った。といふのは万が一にも、あまりにさういっだ雰囲気の中に入ってをつたがために、恐らくさうでなくてさへ涙と共に途切れ勝ちになるであらうところのポツダム宣言のアナウンスが、陛下の御放送を聴いてゐることによって嗚咽と共に放送出来なくなつてしまつたらといふことを惧れたからである。私は鉛筆をもって下読みの印をつけてゐたが、たまらなくなってしまった。それ以上聴けなくなってしまった。
 私はスタヂオの中に入つた。スタヂオの入口には銃剣をつけた兵隊が一名をつた。これはいふまでもなく、あの叛乱軍が去つてしまつだ約一時間後に、万が一を慮って放送局を警護してゐてくれる兵隊達である。逞しい日焼けのした、純一無雑な、命令のまゝに動く、いかにも純真さうなその兵隊に、私は瞬間的になんとなく頭を下げた。スタヂオの中に入った。
 その兵隊の顔も頼母しげに見えたし、技術部のスヰッチを握る若い女の子の顔も、私は誰よりもそのまだ十人九にしかならない女の子がどんなに頼母しく、力強く感じたか分らない。
 みな一生懸命になつてゐるといふ気持だけが、私を有難いといふ言葉で現はせる感情に導き入れてくれたのかも知れない。
 マイクロフォンの前に坐つた。アナウンスを始める。込み上げて来る嗚咽に、一語々々はやはり途切れ勝ちになつだ。その度毎に私は唇を噛みしめ、唇かみしめ。どうやら一時間のポツダム宣言受諾文を読み終つたのである。」

 もう決起部隊もおらず、順番に事が運んだようです。和田信賢氏はNHKのアナウンサーで、玉音放送の後、再度同じ内容を放送、ポツダム宣言受諾文も含めて丁寧に説明していたようです。和田信賢氏が放送した内容は下記のウイキペディア(玉音放送)から分ります。

 ウイキペディアの玉音放送からです。
「昭和20年8月15日正午の放送内容
(特記なき文は和田信賢によるアナウンス)

1.正午の時報
2.「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願います」
3.「天皇陛下におかれましては、全国民に対し、畏くも御自ら大詔を宣らせ給う事になりました。これより謹みて玉音をお送り申します」(情報局総裁・下村宏)
4.君が代奏楽
5.詔書(昭和天皇・録音盤再生)
6.君が代奏楽
7.「謹みて天皇陛下の玉音放送を終わります」(下村)
8.「謹んで詔書を奉読いたします」
9.終戦詔書の奉読(玉音放送と同内容)
10.「謹んで詔書の奉読を終わります」 以降、終戦関連ニュース(項目名は同盟通信から配信されたニュース原稿のタイトル)
11.内閣告諭(14日付の内閣総理大臣・鈴木貫太郎の内閣告諭)
12.これ以上国民の戦火に斃れるを見るに忍びず=平和再建に聖断降る=(終戦決定の御前会議の模様を伝える内容)
13.交換外交文書の要旨(君主統治者としての天皇大権を損しない前提でのポツダム宣言受諾とバーンズ回答の要旨、これを受けたポツダム宣言受諾の外交手続き)
14.一度はソ連を通じて戦争終結を考究=国体護持の一線を確保=(戦局の悪化とソ連経由の和平工作失敗と参戦、ポツダム宣言受諾に至った経緯)
15.万世の為に太平を開く 総力を将来の建設に傾けん(天皇による終戦決意)
16.ポツダム宣言(ポツダム宣言の要旨)
17.カイロ宣言(カイロ宣言の要旨)
18.共同宣言受諾=平和再建の大詔渙発=(終戦に臨んでの国民の心構え)
19.緊張の一週間(8月9日から14日までの重要会議の開催経過)
20.鈴木総理大臣放送の予告(午後2時からの「大詔を拝し奉りて」と題する放送予告。実際は総辞職の閣議のため、午後7時のニュースに続いて放送された) (ウイキペディア参照)」

 これだけ丁寧に放送すれば、玉音放送の内容が難しくても、後の説明で内容は良く理解できたとおもいます。。

写真は当時、NHKアナウンサーで、玉音放送と同内容を再放送した和田信賢の昭和21年9月発行の「放送ばなし」の表紙です。当時の状況が書かれています。非常に面白いです!

 続きます!



伊藤整の北海道南西部地図



伊藤整の野田生、落部地図



伊藤整年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 伊藤整の足跡
明治38年
1905 ポーツマス条約 0 1月16日(戸籍上は25日)松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)百壱番地で出生
3月 旭川連隊第二区二条通り三番地一号の官舎に転居
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 1 1月 父親が余市高等小学校教員に転職、余市町大川町三百九十四番地に転居
4月 伍助沢分教場に移る
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 4 8月 父親 塩谷村役場書記に転職
10月 塩谷村八十五番地(現・塩谷1-13)に転居
明治43年 1910 日韓併合 5 1月 父親 陸軍少尉として退役
明治44年 1911 辛亥革命 6 4月 塩谷尋常高等小学校入学
大正6年 1917 ロシア革命 12 3月 塩谷尋常高等小学校卒業
4月 北海道庁小樽中学校(現・潮陵高校)入学
大正11年 1922 ワシントン条約調印 17 3月 北海道庁小樽中学校(現・潮陵高校)卒業
4月 小樽高等商業高校(現・小樽商科大学)入学
8月 小樽区から小樽市となる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
20 3月 小樽高等商業高校(現・小樽商科大学)卒業
4月 小樽市中学校(現・長橋中学校)教諭となる
         
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
40 5月 妻が実家のある野田生に疎開
7月 本人が野田生に疎開、帝産航空に就職
昭和21年 1946 日本国憲法公布 41 4月 北海道大学予科講師となり塩谷に戻ります