●伊藤整の北海道を歩く -2-
    初版2015年1月31日 <V01L02> 暫定版

 新企画、「伊藤整を歩く」を継続して掲載します。今回は「伊藤整の北海道を歩く -2-」として、父親が旭川から余市に小学校の代用教員として移ってくる明治39年頃から、塩谷に移り伊藤整が小学校に通いだした明治44年頃までを歩いてみました。取材が不十分なところがあり、再度現地を訪問する予定です。


「伊藤整全集」
<「伊藤整全集」、伊藤整(前回と同じ)>
 伊藤整は明治38年(1905) 1月17日(戸籍上は25日)に父、伊藤昌整、母、タマの長男として北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)に生まれます。上に姉(照)が一人いました。最初、北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)が何処にあるのか分らず、探してしまいました。函館から国道228号線を西へ車で87km、約2時間の距離でした。

 「伊藤整全集 第十四巻 年譜」からです。
「 明治三十八年(一九〇五)
 一月十六日(戸籍上は二十五日)、北海道の最南端、白神岬のある松前郡炭焼沢村(現・松前町字白神)百壱番地に伊藤昌整(明治四年九月二十八日生)、鳴海タマ(明治十七年十月五日生)の長男として生まれる。本名整。姉照(明治三十六年八月六日生)があり、大正十四年(整二十歳)までに弟妹十人が生まれた。母タマの人籍が遅れたため、照、整、次弟博(明治四十年一月二十日生)、三弟薫(同四十二年三月一日生)の四人は庶子として届出られ、明治四十二年五月、タマ入籍と同時に嫡出子となった。…」

 上記は伊藤整全集第24巻に掲載された年譜の最初に出てくるところです。それてしても詳細に書かれています。これだけ詳細に書かれている年譜は見たことがありません。父親の昌整さんがかなり詳細に書き残していたのではないかとおもいます。(生年月日については下記に別途記載)

伊藤 整(いとう せい、明治38年(1905)1月16日 - 昭和44年(1969)11月15日)
 伊藤 整は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名は伊藤 整(いとう ひとし)。北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれます。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡っています。明治39年(1906)塩谷村(現小樽市塩谷町)役場転職に伴い小樽へ移住。旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学んでいます。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がいました。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京します。昭和2年(1927)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学びます。又、下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結んでいます。その後大学を中退し、戦前、戦後にかけて金星堂編集部、日本大学芸術科講師、新潮社文化企画部長、旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、帝国産金株式会社落部工場勤務、北海道帝国大学予科講師等で働いています。戦後、東京に戻ってからは日本文芸家協会理事、早稲田大学第一文学部講師、東京工業大学教授、日本日本近代文学館理事長等を歴任します。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響はありませんでした。1969年11月15日、胃癌のため死去しています。(ウイキペディア参照)

写真は新潮社版、昭和49年(1974)発行の伊藤整全集 第24巻です。写真は巻かれているパラフィン紙が糊付けされていて取れないので、パラフィン紙の上から撮影したため、少しぼけた写真になっています。

「若き日の伊藤整」
<「若き日の伊藤整」、武井静夫(前回と同じ)>
 伊藤整について書かれた伝記や年譜等の本は非常に多いです。伊藤整自信が父親のことや生まれ、学生時代にについて詳細に書いているため、伝記等が書きやすかったのではないかとおもわれます。今回はその中から北海道在住の武井静夫さんの「若き日の伊藤整」を参考にさせてもらいました。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」から「あとがき」です。
「 あとがき

 昭和四十五年五月二十三日、塩谷ゴロダの丘で、伊藤整文学碑の除幕式があった。その丘に立って海を眺め、そこにより集う人たちの名を聞いた時、『若い詩人の肖像』の世界が、そのまま再現しているのにおどろいた。その誰もが、年老いながら健在であった。
 そのおどろきは。やがて伊藤整にとって故郷とは何か、その故郷でどのように成長していったかの問いかけとなった。さいわいその年に転勤になった仁木町から、余市や塩谷は近かった。それをまとめたものが、『北方文芸』に連載した「伊藤整伝」である。
 伊藤整の場合、事実と作品の世界とは微妙にいりくんでいる。いきおい客観的事実の追求というより、自らの問に対する解答という形をとらざるをえなくなった。そのなかから私なりの伊藤整の青春像を描いてみようとした。それに加筆したり、訂正を加えたものがこの作品である。
 調査にあたり、星野照、北見恂吉、杉沢仁太郎、沢田斉一、田居尚、更科源蔵の諸氏をけじめ、数多くの人たちに御教示をうけた。
 瀬沼茂樹先生、小笠原克氏には、常に御指導とはげましの言葉をいただき、出版にあたっては。関井光男、宮西忠正両氏のなみなみならぬお力添えをうけた。つつしんで感謝の意を申し上げる。

    昭和四十九年一月
                                  武井静夭」

 上記に”伊藤整の場合、事実と作品の世界とは微妙にいりくんでいる”と書かれています。作家が書いた私小説は全てが正しいとは限りません。やはり面白く書いていますので若干の脚色が入るのはやむを得ないとおもいます。それを、伝記等を書く作家が内容を検証して書く必要があるわけです。

写真は、冬樹社版、武井静夫さんの「若き日の伊藤整」です。昭和49年が初版発行です。私が入手したのは昭和52年発行の第二版です。

「余市高等小学校跡」
<余市高等小学校>
 伊藤整が生まれたのが明治38年1月で、余市に移ってきたのが明治39年生1月なので、生まれて1年で、松前から旭川、そして余市と移ったことになります。父親が余市で代用教員の職に就くことができたためでした。父親が日露戦争後の退役で職探しをした結果だとおもいます。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… 明治三十九年一月、昌整はその二十二日付で、余市郡余市町にある余市高等小学校の代用教員を命ぜられた。余市町は小樽支庁の管轄であった。
 余市高等小学校は、明治三十六年二月二十四日に、余市町浜中町五十二番地(現余市警察署のうら)に開校した学校で、高等科の児童を収容していた。この学校は、明治四十一年四月十一日に尋常科が併置され、余市尋常高等小学校と改称される。現在の余市黒川小学校の前身である。月俸は十四円、ほかに休職中の手当がついていた。
 参考までにいえば、この年の四月に岩手県の渋民村で代用教員になった石川啄木の月俸は八円であり、翌四十年六月、函館区の弥生尋常小学校につとめた時は十二円である。もっとも、明治十九年生まれの啄木にくらべて昌整は十五歳の年長で、この時すでに三十四歳になっていた。…」

 余市のニッカウイスキーが出来たのは昭和9年ですから、伊藤一家が移ってきた明治40年前後は鰊漁と果樹園(りんご)で栄えた町だったようです。ただ、鉄道は通っており、明治35年には余市駅ができており、明治37年に函館本線が全通しています。現在の黒川小学校は余市駅の南600m、五号線(羊蹄国道)沿いにあります。

写真は現 北海道余市郡余市町朝日町27附近、正面が余市警察署です。この裏側附近に余市高等小学校があったようです。確認がとれていませんので再度訪問して調査する予定です。写真はGoogle Street Viewからです(撮影する予定です)。

「大川町三丁目交差点」
<余市町大川町三百九十四番地>
 伊藤整の父親の転居に伴って余市で住んだのが、余市町大川町三百九十四番地です。現在の大川町は1丁目から20丁目まで分かれて、地番が付いていて、394番地が何処か不明です(推測では20丁目に近い方)。現地でブルーマップを見るか、古い地図で番地を探すしかないのですが、東京では如何とも為がたいです。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… 明治三十九年一月二十六日、昌整は妻と二人の子供とを伴って旭川を出発し、余市町に着いた。住所は余市町大川町三百九十四番地であった。彼はその四日後の三十日に、寄留届を出した。資格は代用教員である。昌整は教員歴もあり、尋常小学校准教員の資格ももっていた。しかし高等科ははじめてであり、それに休職として軍籍にある間は、代用教員としてでなければ教職にはつけなかった。ともかく。休職になって間もなく、白神時代と同じ月俸で彼は教職についたのである。…」
 明治40年、伊藤整の父親は予備役になり、翌年から恩給が付くようになります。代用教員の給与と合せて50円/月もらっておりこの頃の生活は楽だったとおもわれます。

写真は現在の大川町三丁目の交差点から東を見たものです。写真はGoogle Street Viewからです(番地を詳細に調べた後、現地を撮影する予定です)。



伊藤整の余市町地図



「伊藤整文学碑」
<伊藤整文学碑>
 伊藤整の文学碑が昭和45年5月に塩谷 ゴロダの丘に建てられています。伊藤整は昭和44年11月に亡くなられていますので、生前から準備をされていたとはおもいますが、翌年に建てられたことになります。”ゴロダ”の意味は北書房の雪明かりの叢書第11編 北見恂吉著”ゴロダの丘”によると、” 伊藤整の文学碑の建っ丘を、ゴロダの丘という。ゴロダとはどんな意味なのか知らない。昔からのアイヌ語かとも思ったが、濁音が些か腑に落もない。一日坂下君に聞くとあれは自分の名付けたものと云う。大小の石ゴロゴロしてあったのでゴロダの丘と云うと。甚だ面白い。その大ゴロ石をもって、わが整の文学碑は建てられたのである。之は併し坂下君の説で異論があるかもしれない。”とあります。

 伊藤整文学碑の碑文です。
「  海の捨児
 私は浪の音を守唄にして眠る
 騒がしく絶間なく
 繰り返して語る灰色の年老いた浪
 私は涙も涸れた凄愴なその物語りを
 つぎつぎに聞かされていて眠ってしまふ

 私は白く崩れる浪の穂を越えて
 漂っている捨児だ
 私の眺める空には
 赤い夕映雲が流れてゆき
 そのあとへ星くづが一面に撒きちらされる
 ああこの美しい空の下で
 海は私を揺り上げ揺り下げて
 休むときもない 」

 この碑文は「冬夜」に収められた詩「海の捨児」の前半が伊藤整自身の筆で書かれています。これで、生前から準備されていたことがわかります。

写真は塩谷 ゴロダの丘に建てられた伊藤整文学碑です。塩谷の海岸がよく見えます。場所は下記の地図を参照してください。

「伍助沢分教場跡」
<伍助沢簡易教育所>
 伊藤一家が余市から次に移った場所が塩谷の伍助沢簡易教育所(伍助沢分教場)です。余市に移った3ヶ月後にの4月には、忍路郡塩谷村伍助沢簡易教育所の代用教員を命ぜられています。今で言う分校だとおもいます。(当時の呼び名で分教場)で、教師は一人だけだったようです。一家の住まいもこの分教場の中に有り、職住一体といったところです。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… とにかく一家は、四月八日には余市町を引き揚げて伍助沢の筒易教育所に移った。この転居が昌整と塩谷とを結びつける。昌整と塩谷との結びつきは、その子整と塩谷との結びつきでもあった。
 伍助沢簡易教育所は、塩谷駅から軍用道路にそって小樽側へ三キロほど入りこんだところにあって、なだらかな坂道をこえるとニキロほどで小樽の最上町や緑町に出ることができた。その意味では小樽に近づいたともいえた。
 伊藤整の記憶は、この伍助沢からはじまったという。彼はこの簡易教育所を、分教場とよんだ。
  「そこは山の中の分教場であった。廊下を間において、向うには、大きな一室だけの教室があっ た。そこで授業している父の声が、廊下のこちら側の、住居まで聞えてくる。住居は座敷が二つ で。その一つには時に女生徒が五六人坐って、母から裁縫を習っていた。そういう時は子守の芳子が、小さい弟の広を背負って歩いていた。…」

 僅か三ヵ月で塩谷の伍助沢簡易教育所(伍助沢分教場)に移った訳はよく分からないようです。

写真は塩谷小学校伍助沢分教場跡と書かれた標柱です。5〜6年前の撮影なので周りは山の中という感じですが、現在は開発が進み、道の周りは整地されて綺麗になっています(Google Street Viewを参照して下さい)。



伊藤整の塩谷地図 -1-



「塩谷一丁目13」
<塩谷村大字塩谷村八拾五番地>
 伊藤整の父、伊藤昌整は明治42年8月、代用教員から塩谷村役場書記に転職します。3年半程の教員生活でした。教員があまり向いていなかったのかもしれません。そして塩谷村大字塩谷村八拾五番地に自宅を建てます。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… 昌整は、塩谷から小樽に向かう道ぞいに、土地を買って家を建てた。忍路郡塩谷村大字塩谷村八拾五番地、現在の国道五号線のバス停留所「塩谷学枚下」の、余市よりのあたりである。
  「家の建った崖下の土地は三百坪ほどあり、さらに三丈ほどの崖の上に付属の畑が三百坪、一反あまりあった。田舎の村のことだから、土地は安く手に入れたであろうが、そこは南向きで、国道に面し、裏の崖下に水が湧き、付近でのよい土地であった。父はそこに風呂場つきの四間の家を建てた。国道から入ると玄関の右手の座敷に、洋風の、半分が上下に動く窓があり、左手の台所につづいた板の間には、二間幅の格子窓がついていた。」(『年々の花』)…」

 塩谷 ゴロダの丘に建てられた伊藤整文学碑の横に”伊藤整の育った家”として自宅の見取り図が掲載されていました。当時としてはそこそこ大きな家だったとおもいます。

 伊藤整の「年々の花」より
「… そのT字型の分岐点の、海に向って左側にある低い丘の上に村役場があり、反対側の山の下に小学校や郵便局や病院などがある。私の父はそのT字の脚を、小川に沿って大分遡った所の崖下に土地を買って家を建てたのである。モの小川はその屋敷を鈎の手にめぐって流れ、夜眠っていると絶えず枕もとにせせらぎが響いた。
 家の建った崖下の土地は三百坪ほどあり、さらに三丈ほどの崖の上に付属の畑が三百坪、一反あまりあった。田舎の村のことだから、土地は安く手に入れたであろうが、そこは南向きで、国道に面し、裏の崖下に水が湧き、付近でのよい土地であった。父はそこに風呂場つきの四間の家を建てた。国道から入ると玄関の右手の座敷に、洋風の、半分が上下に動く窓があり、左手の台所につづいた板の間には、二間幅の格子窓がついていた。
 格子窓は、母の郷里やこの塩谷村の漁師の家の作りであり、上下に動く西洋窓は、この村ではほかに類がなく、この家をハイカラなものに見せるのに役立っていた。雪の深い土地であるから、縁側は冬には開けられなくなるので、つけない習しであるが、この洋風の窓というのは珍しかった。後年私は気がついたのだが、それが軍隊の官舎に似ていた。いま東京で、モれと同じように、座敷に縁側をつけず、洋風窓をつけている家として、乃本大将の旧邸がある。乃木希典の家は、彼が若い頃遊んだドイツの十九世紀の建物を思わせるようなもので、地階にはベースメントがあり、二階には屋根の形を生かした三角天井のキャレットの子供室のある本格的なものである。私の父の建てた家は貧相なものであったが、その家の東半分の八畳と六畳の二つの座敷を四つの洋風窓で飾ったのが、唯一の贅沢であった。…」

 昭和33年に小樽市に合併されるまでの塩谷村役場は今の小樽市塩谷児童センター(塩谷一丁目23)のところにあったとおもわれます。又、当時の塩谷尋常小学校は塩谷一丁目21附近にあったとおもわれます(現在地は塩谷二丁目18)。下記の地図を参照して下さい。

写真は五号線(羊蹄国道)、塩谷小学校入口から北側を撮影したものです。正面、やや左側のところが塩谷村85番地となります。



伊藤整の塩谷地図 -2-



伊藤整年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 伊藤整の足跡
明治38年
1905 ポーツマス条約 0 1月16日(戸籍上は25日)松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)百壱番地で出生
3月 旭川連隊第二区二条通り三番地一号の官舎に転居
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 1 1月 父親が余市高等小学校教員に転職、余市町大川町三百九十四番地に転居
4月 伍助沢分教場に移る
明治42年 1909 伊藤博文ハルビン駅で暗殺 4 8月 父親 塩谷村役場書記に転職
10月 塩谷村八十五番地(現・塩谷1-13)に転居
明治43年 1910 日韓併合 5 1月 父親 陸軍少尉として退役
明治44年 1911 辛亥革命 6 4月 塩谷尋常高等小学校に入学