<「伊藤整全集」、伊藤整>
伊藤整は明治38年(1905)
1月17日(戸籍上は25日)に父、伊藤昌整、母、タマの長男として北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)に生まれます。上に姉(照)が一人いました。最初、北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)が何処にあるのか分らず、探してしまいました。函館から国道228号線を西へ車で87km、約2時間の距離でした。
「伊藤整全集 第十四巻 年譜」からです。
「 明治三十八年(一九〇五)
一月十六日(戸籍上は二十五日)、北海道の最南端、白神岬のある松前郡炭焼沢村(現・松前町字白神)百壱番地に伊藤昌整(明治四年九月二十八日生)、鳴海タマ(明治十七年十月五日生)の長男として生まれる。本名整。姉照(明治三十六年八月六日生)があり、大正十四年(整二十歳)までに弟妹十人が生まれた。母タマの人籍が遅れたため、照、整、次弟博(明治四十年一月二十日生)、三弟薫(同四十二年三月一日生)の四人は庶子として届出られ、明治四十二年五月、タマ入籍と同時に嫡出子となった。…」。
上記は伊藤整全集第24巻に掲載された年譜の最初に出てくるところです。それてしても詳細に書かれています。これだけ詳細に書かれている年譜は見たことがありません。父親の昌整さんがかなり詳細に書き残していたのではないかとおもいます。(生年月日については下記に別途記載)
伊藤 整(いとう せい、明治38年(1905)1月16日 - 昭和44年(1969)11月15日)
伊藤 整は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名は伊藤
整(いとう ひとし)。北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれます。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡っています。明治39年(1906)塩谷村(現小樽市塩谷町)役場転職に伴い小樽へ移住。旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学んでいます。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がいました。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京します。昭和2年(1927)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学びます。又、下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結んでいます。その後大学を中退し、戦前、戦後にかけて金星堂編集部、日本大学芸術科講師、新潮社文化企画部長、旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、帝国産金株式会社落部工場勤務、北海道帝国大学予科講師等で働いています。戦後、東京に戻ってからは日本文芸家協会理事、早稲田大学第一文学部講師、東京工業大学教授、日本日本近代文学館理事長等を歴任します。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響はありませんでした。1969年11月15日、胃癌のため死去しています。(ウイキペディア参照)
★写真は新潮社版、昭和49年(1974)発行の伊藤整全集
第24巻です。写真は巻かれているパラフィン紙が糊付けされていて取れないので、パラフィン紙の上から撮影したため、少しぼけた写真になっています。