●伊藤整の北海道を歩く -1-
    初版2014年10月25日 <V01L03> 暫定版

 久しぶりに新企画、「伊藤整を歩く」を掲載します。伊藤整は明治38年(1905) 1月17日(戸籍上は25日)に北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)に生まれます。今回は「伊藤整の北海道を歩く -1-」として、松前町白神での生誕から旭川に転居するまでを掲載します。


「伊藤整全集」
<「伊藤整全集」、伊藤整>
 伊藤整は明治38年(1905) 1月17日(戸籍上は25日)に父、伊藤昌整、母、タマの長男として北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)に生まれます。上に姉(照)が一人いました。最初、北海道松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)が何処にあるのか分らず、探してしまいました。函館から国道228号線を西へ車で87km、約2時間の距離でした。

 「伊藤整全集 第十四巻 年譜」からです。
「 明治三十八年(一九〇五)
 一月十六日(戸籍上は二十五日)、北海道の最南端、白神岬のある松前郡炭焼沢村(現・松前町字白神)百壱番地に伊藤昌整(明治四年九月二十八日生)、鳴海タマ(明治十七年十月五日生)の長男として生まれる。本名整。姉照(明治三十六年八月六日生)があり、大正十四年(整二十歳)までに弟妹十人が生まれた。母タマの人籍が遅れたため、照、整、次弟博(明治四十年一月二十日生)、三弟薫(同四十二年三月一日生)の四人は庶子として届出られ、明治四十二年五月、タマ入籍と同時に嫡出子となった。…」

 上記は伊藤整全集第24巻に掲載された年譜の最初に出てくるところです。それてしても詳細に書かれています。これだけ詳細に書かれている年譜は見たことがありません。父親の昌整さんがかなり詳細に書き残していたのではないかとおもいます。(生年月日については下記に別途記載)

伊藤 整(いとう せい、明治38年(1905)1月16日 - 昭和44年(1969)11月15日)
 伊藤 整は、日本の小説家、詩人、文芸評論家、翻訳家。本名は伊藤 整(いとう ひとし)。北海道松前郡炭焼沢村(現松前町)で小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれます。父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡っています。明治39年(1906)塩谷村(現小樽市塩谷町)役場転職に伴い小樽へ移住。旧制小樽中学(北海道小樽潮陵高等学校の前身)を経て小樽高等商業学校(小樽商科大学の前身)に学んでいます。小樽高商在学中の上級生に小林多喜二がいました。卒業後、旧制小樽市立中学の英語教師に就任。宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして、1300円の貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京します。昭和2年(1927)旧制東京商科大学(一橋大学の前身)本科入学。内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学びます。又、下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い親交を結んでいます。その後大学を中退し、戦前、戦後にかけて金星堂編集部、日本大学芸術科講師、新潮社文化企画部長、旧制光星中学校(現札幌光星高等学校)英語科教師、帝国産金株式会社落部工場勤務、北海道帝国大学予科講師等で働いています。戦後、東京に戻ってからは日本文芸家協会理事、早稲田大学第一文学部講師、東京工業大学教授、日本日本近代文学館理事長等を歴任します。チャタレイ裁判で有罪となったことはその社会的地位にほとんど影響はありませんでした。1969年11月15日、胃癌のため死去しています。(ウイキペディア参照)

写真は新潮社版、昭和49年(1974)発行の伊藤整全集 第24巻です。写真は巻かれているパラフィン紙が糊付けされていて取れないので、パラフィン紙の上から撮影したため、少しぼけた写真になっています。

「若き日の伊藤整」
<「若き日の伊藤整」、武井静夫>
 伊藤整について書かれた伝記や年譜等の本は非常に多いです。伊藤整自信が父親のことや生まれ、学生時代にについて詳細に書いているため、伝記等が書きやすかったのではないかとおもわれます。今回はその中から北海道在住の武井静夫さんの「若き日の伊藤整」を参考にさせてもらいました。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」から「あとがき」です。
「 あとがき

 昭和四十五年五月二十三日、塩谷ゴロダの丘で、伊藤整文学碑の除幕式があった。その丘に立って海を眺め、そこにより集う人たちの名を聞いた時、『若い詩人の肖像』の世界が、そのまま再現しているのにおどろいた。その誰もが、年老いながら健在であった。
 そのおどろきは。やがて伊藤整にとって故郷とは何か、その故郷でどのように成長していったかの問いかけとなった。さいわいその年に転勤になった仁木町から、余市や塩谷は近かった。それをまとめたものが、『北方文芸』に連載した「伊藤整伝」である。
 伊藤整の場合、事実と作品の世界とは微妙にいりくんでいる。いきおい客観的事実の追求というより、自らの問に対する解答という形をとらざるをえなくなった。そのなかから私なりの伊藤整の青春像を描いてみようとした。それに加筆したり、訂正を加えたものがこの作品である。
 調査にあたり、星野照、北見恂吉、杉沢仁太郎、沢田斉一、田居尚、更科源蔵の諸氏をけじめ、数多くの人たちに御教示をうけた。
 瀬沼茂樹先生、小笠原克氏には、常に御指導とはげましの言葉をいただき、出版にあたっては。関井光男、宮西忠正両氏のなみなみならぬお力添えをうけた。つつしんで感謝の意を申し上げる。

    昭和四十九年一月
                                  武井静夭」

 上記に”伊藤整の場合、事実と作品の世界とは微妙にいりくんでいる”と書かれています。作家が書いた私小説は全てが正しいとは限りません。やはり面白く書いていますので若干の脚色が入るのはやむを得ないとおもいます。それを、伝記等を書く作家が内容を検証して書く必要があるわけです。

写真は、冬樹社版、武井静夫さんの「若き日の伊藤整」です。昭和49年が初版発行です。私が入手したのは昭和52年発行の第二版です。

「伊藤整 生誕の地記念碑」
<「伊藤整 生誕の地」記念碑>
 「伊藤整 生誕の地」の記念碑が白神岬展望広場にありました。函館から国道228号線(松前国道)を84.4Km(Google Mapで計測、函館駅からの距離)走ると、最初に、北海道最南端の記念碑がある駐車場があります。ここから1.4Km走ると、白神岬展望広場があります。この展望広場の建物の中に「伊藤整 生誕の地」の記念碑があります。良く探さないと分りませんでした。対岸の津軽半島 竜飛岬が見えます。

 「伊藤整全集 第十四巻 年譜」からです。
「… 父昌整は広島県高田郡粟屋村の生まれ。千葉国府台の陸軍教導団を経て一等軍曹として日清戦争に出征後、自ら海軍水路部臨時測量員を志して渡道。約半年後炭焼沢村の白神尋常小学校代用教員となり、明治三十五年十二月、同村の漁夫鳴海福次郎次女タマと結婚した。日露戦争が勃発すると、八月、旭川の歩兵第二十人聯隊に人隊、旅順二〇三高地攻略戦に加わり、腹部貫通銃創を負って帰還。三十八年一月、炭焼沢村に療養のため帰郷したその日に整が生まれた。…」
 伊藤整生誕の地はここから北に1.2Km程離れたところです。少し遠いですね。

写真は北海道最南端の記念碑がある白神岬展望広場の中にある「伊藤整 生誕の地」の記念碑です。

「白神小学校」
<白神尋常小学校>
 伊藤整の父、伊藤昌整は海軍水路部の臨時測量員の後、自ら進んで松前郡白神尋常小学校の代用教員になります。安定した職業に就きたかったのだとおもいます。生まれ故郷の広島には戻らず、辺鄙な松前郡白神に住み着こうとした理由ははっきり分かりません。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… その翌月の四月二十九日。昌整は月手当十八円(履歴書では二十円)で、海軍水路部の臨時測量員となり。北海道に渡る。同じ時に、近衛の聯隊を休職になった仲間二人と、一緒であった。昌整は一年半ほど前に、新兵受領のため、青森まで来ているが、北海道へははじめてであった。
 明治三十四年五月九日、昌整は、
 渡島国松前郡福山小松前町四十七番地 須田末松方
に、止宿する。
 もともと、臨時測量員という身分は、安定したものではない。彼はこの年の九月に、小学校の教員になることを志願して、松前支庁属の竹田岩吉あてに、履歴書を提出する。のち、妻のタマに語ったところによると、一緒に行った仲間二人は、そこで警官になったが、「父は「静かに暮したい」と言って同地で小学校の教員になった」(『年々の花』)という。
 翌月の十月十人日、臨時測量員の職を解かれた昌整は、同日付で松前郡白神尋常小学校の代用教員を嘱託され、月手当十二円を得ることとなる。…」

 ”静かに暮したい”とのことなのですが、余りに辺鄙なところです。

 伊藤整の「年々の花」より
「… 伊藤昌整は、明治三十四年十月十八日に海軍水路部の臨時測量員の職を解かれ、即日、松前郡白神尋常小学校の代用教員を嘱託され、月手当十二円を得ることになった。そして翌十九日、彼は白神小学校の所在地なる松前郡炭焼沢村字宮の下三番地の尾崎角太郎方に止宿した。この尾崎角太郎なる人物は、この年の七月に着任したこの小学校の校長である。校長宅は、学校附属の宿舎であった。そこへの同居は臨時のことであったらしく、六日後の二十五日に昌整は、同所五番地の川畑人重吉方に移転した。そして昌整は間もなく、学校所在地なる宮の下三番地を寄留地とした。当時この学校の教員は尾崎校長と昌整の二人であった。
 昌整は水路部測量員の仕事が終る一月前の明治三十四年九月に、小学校教員たることを志願して、松前支庁属竹田岩吉あてに履歴書をつけた志願書を提出している。臨時測量員なる仕事が、半年ほどしか続かぬという見透しのものであったらしいことは、昌整と同行した近衛出身の友人二名がこの時に警官になったことからも推定される。また昌整が小学校教員の仕事を選ぶに当って、「静かに暮したい」と考え、その考えを翌年結婚した妻が長く記憶するほどはっきりと述べたことは、私の注意を惹くのである。昌整の神経質な容貌、他人に対する鄭重な警戒的な態度、親友と言うべき仲間を持たぬこの人間の淋しげな横顔などを目に浮べると、彼が他人との競争を嫌い、栄達のための悪あがきを怖れる小心な人間であったことは否定できない。…」

 ”当時この学校の教員は尾崎校長と昌整の二人であった。”とあるので、まさに田舎の分校です。

写真は現在の白神小学校です。と言っても撮影は2009年で、この時はまだ白神小学校は運営されていました。現在は廃校になっています。生徒数が集まらなくなったのだとおもいます。この学校の校庭に伊藤整の記念碑が建てられていました。
<伊藤整の記念碑>
「蛙の声が聞こえ、星空がきらめいて時が移り、私が歩いてゐる。いま私は生きてゐるにちがひない」

「松前町白神102番地」
<松前郡炭焼沢村百弐番地>
 次に伊藤整が生まれた場所を探してみました。先ず地番ですが、本によって生まれたところの地番が少しずつ違い、どの地番が正しいのかわかりません。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… 昌整が炭焼沢村に着いた一月十七日に、タマは男の子を生んだ。一月二十二日、彼はこの男の子の出生届に先だち、庶子認知のための書類を書いた。タマとの婚姻届は、まだ出していない。彼は胎児のうちに認知したことにし、その一日違いの一月二十三日付で出生届を書いた。名前は自分の一字をとって整(ひとし)とした。
 出生ノ時 明治参拾八年壱月弐拾参日午前参時
 出生ノ場所 松前郡炭焼沢村七拾七番地
 「庶子出生届」にはこう記載し、届出月日を一月二十四日とした。タマの入籍が終っていなかったからで、実際に生まれたのは同村百弐番地であった。
 ところが、この二通の書類を役場に届け出ようとした一月二十四日。白神岬一帯は大吹雪となる。まだ体が本復したとはいえない昌整は届出を延期し。二日後の一月二十六日に役場へ出向いた。このとき彼は、日付を二日ずつ遅らせて、出生届出の日を二十六日、出生の日を二十五日、胎児認知の届を二十四日と加筆訂正した。その結果、一月十七日生まれの整は、一月二十五日生まれとして戸籍に記入されることになる。…」

 ”実際に生まれたのは同村百弐番地(102)であった。”と書いてありますが、年譜では”松前郡炭焼沢村(現・松前町字白神)百壱番地(101)”とあり、一番地違います。もう少し後で発行され本を探してみました。

 曽根博義氏の「伝記 伊藤整」からです。(昭和52年、六興出版)
「…タマは間もなく照を連れて学校住宅を出、実家の近くのある家を借りて住んでいた。昌整が帰った時、タマはその家におり。そこで出産したわけだが、その家が村のどの辺かはわかっても。大昔に取り毀されているので、何という家だったかは正確につきとめられないのである。今のところ一番有力なのは、鳴海家と同じ高台の山寄りにあった炭焼沢村百三番地の漁師久保田美代吉家の北側に出張った六坪ほどの小屋だったという伝えである。しかしその北隣りに滝川末大郎なる人の所有する空家があって、タマは一時ここを借りていたという人もいる。土地台帳によれば、そこは百二番地ノ一である。いずれにせよ、身重になっても、継母以外に女手のない実家に帰らず、目と鼻の先の他家に移っているのは、いかにも利かぬ気のタマらしい。
 しかしはっきりしないのは出生の場所だけではない。出生の日時にも問題があるのだ。従来、整の誕生日は戸籍の上では一月二十五日になっているが、一月十六日が正しいとされてきた。これは整本人の言に基づいているが、整はそれを母から。お父さんは一月十六日に家に帰って来たが、ちょうどその日にお前は生まれた、という言い方で教えられたようである。ところが伊藤貞子夫人は、のちにタマから、整の生まれたのは十六日ではなくて十七日だと教えられた。貞子夫人が整にそう伝えると整は納得し、それ以来、自分の正しい誕生日は一月十七日だと信じるようになったというのである。これは戦後かなり経ってからのことらしいが、整がその訂正を活字にしたことはなく、『年々の花』でも一月十六日としている。しかし私は以下の理由からやはり一月十七日とするのが正しいと考えるにいたった。…」

 生まれた地番は”百二番地ノ一”のようです。生年月日も16日ではなくて17日のようです。

写真は白神小学校の入口から見た現在の102番地附近です(赤矢印)。町名は変っていますが、地番は変っていないと推定しました。撮影したときは地番がよく分からず、撮影しそこなっています。現在のGoogleMapでは102番地は無く、近くでは98番地が検索できます。少し前のアトラスSV7では102番地を検索できました。下記の地図を参照してください。
<炭焼沢村→松前町になった経緯>
大正12年(1923):松前郡大沢村、上及部村、荒谷村、炭焼沢村が合併し、大沢村が発足。
昭和29年(1954):松前郡松前町、大島村、小島村と合併し、松前町を新設。



伊藤整の松前地図



「井上靖記念館」
<井上靖記念館>
 伊藤整の父、伊藤昌整は日露戦争中に負傷し、松前郡白神に療養のため戻っていましたが、負傷も癒えたため、明治38年2月、旭川の歩兵第二十八連隊にもどります。官舎を与えられ、家族は4月、旭川に向かいます。ここで、伊藤整の住んだところを探すのですが、その前に旭川の連隊官舎で生まれた井上靖の地を少し歩いてみます。伊藤整の住んだところを探す参考になるからです。(旭川を訪ねれば直ぐに分るとおもうのですが、当分訪ねる機会がないので推定することにします)

 福田宏年さんの「増補 井上靖評伝覚」からです。
「    出   生

 人間の生涯というのは不思議なもので、どのような偶然の要因が、その人の生涯に決定的な力を及ぼすか分らないものである。井上靖は、既にその自伝的作品「しろぽんぽ」「幼き日のこと」その他の作品に描かれている通り、物心つくやつかずで両親の許を離れて、郷里の伊豆湯ヶ島の土蔵の中で、血の繋がらない戸籍上の祖母と二人きりで幼年時代を過したが、恐らくこの特殊な幼時体験がなかったら、後年の作家井上靖は考えられなかったであろう。
 井上靖は明治四十年五月六日、北海道石狩国上川郡旭川町第二区三条通拾六番地の弐号で、隼雄の長男として生れた。これは陸軍軍医であった父の隼雄が、当時旭川第七師団の軍医部に勤務していたからであり、出生地の地番は師団の官舎の所在地である。…」

 ”井上靖は明治四十年五月六日、北海道石狩国上川郡旭川町第二区三条通拾六番地の弐号で、隼雄の長男として生れた”とあります。生まれた場所は井上靖記念館の地図で分っていますので、”第二区三条通拾六番地の弐号”の番号の振り方を考えます。(あくまでも推定)
・第二区:大きな場所の区切りで1区〜3区までありました(地図に記載あり)。
・三条通り:通りの名前で、南東の下から一条通り、二条通り、三条通り(推定)
・拾六番地:通りの両側にある官舎の建物に付いた番地、西から路を挟んで順に付けている(推定)
・二号:官舎の一つの建物が何軒かに分かれており、其の番号(推定)

写真は井上靖記念館の入口です。下記の地図に井上靖記念館と生まれた場所を記載しておきます。

「旭川市春光5条3丁目4附近」
<第二区二条通り三番地一号>
 前項の番号の振り方から伊藤整の旭川での地番、”第二区二条通り三番地一号”の場所を考えます。

 武井静夫さんの「若き日の伊藤整」からです。
「… 二月十五日、与えられた療養期間が終りに近づいたので、彼は単身炭焼沢村をたって、旭川の歩兵第二十八聯隊補充大隊に帰着し、二十二日から第二中隊付を命ぜられた。ついで三月十二日に、旭川聯隊地区内の第二区二条通り三番地一号に聯隊の官舎を与えられ、炭焼沢村から妻タマと二人の子供とを呼んだ。タマは松前の城下町である福山から船に乗り、室蘭港に出て、そこから汽車にのった。海はひどく荒れて、難渋した。
 四月十九日、タマ親子は旭川に着き、その官舎に入った。その十日ほど前の四月八日に昌整は陸軍少尉に任ぜられていた。しかし辞令はまだとどいておらず、身分は特務曹長のままであった。
 五月になって、補充大隊付から二十八聯隊付にもどった昌整は、五月十一日にふたたび旭川を出発、六月一日、満州の康平にあった第七師団司令部に着き、翌二日には馬連屯部落の二十八聯隊本部に到着した。彼は第六中隊第三小隊長を命ぜられた。この間の五月二十七日には、日本海軍がバルチック艦隊と海戦して、これを全滅させていた。
 六月十五日から十七日にかけて第二十八聯隊はロシア軍と交戦、これを北方に撃退した。この戦いが昌整の参加した戦闘の最後となる。七月六日、彼は陸軍少尉に任ずるという四月人日付の辞令を受けとり、十七日には叙正八位という辞令を受けとった。
 九月七日、日本とロシアとの間に講和条約が調印され、戦争は終る。しかし、昌整は十一月まで満州に残ることになる。十一月十一日、昌整は眼鏡を破損して目を負傷し、入院した。その傷のため患者として後送され、奉天、大連、広島、東京、と病院をたどって、十二月四日に旭川に着いた。
 これより先の明治三十八年十一月二十一日、昌整は本籍を、北海道松前郡炭焼沢村字宮ノ下三番地から、
 広島県呉市大字荘山田村五百五拾四番地
に移した。
 両親はこの年、この地で相次いで亡くなっている。昌整は戦後にくる軍人の整理のことを思って。
この地に落着くことを考えたのかも知れない。
 十二月人日、昌整は負傷が全治し、旭川の補充大隊へちどり第三中隊付となる。…」

 ”第二区二条通り三番地一号”の場所を考えます。
・第二区:井上靖と同じ区域
・二条通り:井上靖の三条通りより一つ下の通り
・三番地:三条通りの西から3番目の建物(三条通りを挟んで西下から上に交互に数える)
・一号:三番地の官舎の建物の一番左端
そうすると現在の、北海道旭川市春光5条3丁目4−1附近となります。(あくまで推定)

写真は現在の北海道旭川市春光5条3丁目4−1附近です。写真撮影ができていませんので、Google ストリートビューからです。旭川にて正確な場所を調査後、写真撮影し置き換える予定です。



伊藤整の旭川地図



伊藤整年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 伊藤整の足跡
明治38年
1905 ポーツマス条約 0 1月16日(戸籍上は25日)松前郡炭焼沢村(現・松前町白神)百壱番地で出生
3月 旭川連隊第二区二条通り三番地一号の官舎に転居
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 1 1月 父親が余市高等小学校教員に転職、余市町大川町三百九十四番地に転居
4月 伍助沢分教場に移る、塩谷村八十五番地(現・塩谷一の十三)に転居