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最終更新日:2007年1月30日

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●「桜田門外の変」を歩く (2) 2002年11月9日 V02L02
 先週に引き続き、「明治維新シリーズ」として、江戸で起こった明治維新に関連する重大事件を掲載します。今週は、大老井伊直弼が水戸浪士に桜田門外で殺害された 「桜田門外の変」の第二回目として、襲撃後の浪士たちの行動を追ってみたと思います。

sakuradamon21w.jpg桜田門>
 元々この門は小田原街道の始点として「小田原口」と呼ばれていましたが、江戸時代の寛永13年(1636)に、日比谷入り江を埋め立てて桜田門として作り直されたようです。大正12年の関東大震災で一部破損し、改修されたため江戸時代と少し変わっています。昭和36年に国の重要文化財に指定され、皇居のなかでも最も美しい門ではないかと思います。この桜田門外に水戸の浪士達は集まり、松平大隅守屋敷の塀ぞいと濠端とのそれぞれの持ち場つき、大老井伊直弼が登城するのを待ち受けます。吉村昭の「桜田門外ノ変」では、「桜田門に通じる短い橋の辻番所のかげには、最初に先供に斬りかかるはずの森が立っている。彦根藩邸にむかって左側の松平大隅守屋敷の塀ぞいには黒沢、山口、杉山、増子、蓮田、鯉淵、広木、有村。右側の濠端には佐野、大関、広岡、稲田、森山、海後の六名。それは、鉄之介が指図したとおりの配置だった。」、と、すべての準備はととのっています。

お掘り側から桜田門を写した写真です。こちら側からの方が写真写りがいいと思います。(参考:正面の写真

浪士行動表

氏      名
土蔵相模
愛宕神社
7時集合
桜田門外
備    考
関鉄之介(水戸)
出発
集合
総指揮者
総指揮者(斬り合いには参加せず)
岡部三十郎(水戸)
出発
集合
見届役
検視見届役(斬り合いには参加せず)
有村次左衛門(薩摩)
集合
襲撃
井伊直弼の首を上げる
若年寄遠藤郎郎鶉屋敷の門前で自害
稲田重蔵(水戸)
出発
集合
襲撃死亡
桜田門外で死亡
山口辰之介(水戸)
出発
集合
襲撃
織田兵部少輔屋敷前で自害
鯉淵要人(水戸)
出発
集合
襲撃
織田兵部少輔屋敷前で自害
広岡子之次郎(水戸)
出発
集合
襲撃
酒井雅楽頭の屋敷外で自害
斎藤監物(水戸)
出発
集合
襲撃
老中脇坂中務大輔に自訴
佐野竹之介(水戸)
出発
集合
襲撃
老中脇坂中務大輔に自訴(夕刻死亡)
黒沢忠三郎(水戸)
出発
集合
襲撃
老中脇坂中務大輔に自訴
蓮田市五郎(水戸)
出発
集合
襲撃
老中脇坂中務大輔に自訴
大関和七郎(水戸)
先に出発
先に出発
襲撃
細川越中守屋敷に自訴
森五六郎(水戸)
出発
集合
襲撃
細川越中守屋敷に自訴
杉山弥一郎(水戸)
先に出発
先に出発
襲撃
細川越中守屋敷に自訴
森山繁之介(水戸)
出発
集合
襲撃
細川越中守屋敷に自訴
広木松之介(水戸)
先に出発
先に出発
襲撃
一度水戸に戻る
海後磋磯之介(水戸)
出発
集合
襲撃
一度水戸に戻る
増子金八(水戸)
集合
襲撃
一度水戸に戻る
佐藤鉄三郎
先に出発
伝達役
金子孫二郎への伝達役

sakuradamon23w.jpg<桜田門外>
 近江彦根藩主大老井伊直弼の屋敷は桜田門から直ぐ近くの濠沿いにあり、浪士達からも屋敷から出てくるところがみえます。3月3日は上巳の節句で、井伊大老は四ツ(午前十時)までに登城しなければなりません。吉村昭の「桜田門外ノ変」では、『…「ひらいた」かたわらで低い声がし、鉄之介は、井伊家の屋敷の方に視線をむけた。…雪の中を粛然と行列が進んでくる。供回りの徒士以上が二十数名、足軽以下四十名ほどであるのを、かれはたしかめた。…供回りの徒士たちが近づいてきた。…行列が濠ぞいの道を進み、先供が道を祈れて桜田門の橋にむかいはじめた。…突然、先供に乱れが生じた。鉄之介の眼に、森の抜いた刀が、近寄った徒士の体に振りおろされるのが見えた。…その時、短銃の発射音が一発とどろき、それまで濠端と松平大隅守の屋敷の塀ぎわに立っていた同志たちが、一斉に抜刀して斬り込んだ。駕寵の周囲には徒士が三人ほどしかいず、半合羽を着た稲田重蔵が、刀を真っすぐにして、駕籠の扉に体あたりするのが見えた。…有村次左衛門と広岡子之次郎が、濠の方から駕籠に走り寄り、刀を突き入れるのを見た。…急に有村が勢いよく立ち上った。顔も着物も血で染っている。上方にかざした刀の先に、髪が顔をおおった首が突き刺さっていた。…刀をかざして上下に動かした。「引揚げだ」という声がした。…』、浪士たちは本懐を遂げます。大老井伊直弼の屋敷は、桜田門から濠沿いに500m位のところで、戦前は陸軍省、現在は国会前庭洋式庭園ところにありました(下記の地図を参照してください)。

左の写真のところ辺りが、大老井伊直弼の籠が襲われた所ではないかとおもいます。写真真ん中正面が桜田門で、左に曲がる角から数十メートル手前ですので、この写真左側の濠側と、右側の松平大隅守屋敷の塀ぞいに分かれて待機していました。

sakuradamon30w.jpg和田倉門>
 襲撃を成功させた浪士たちはそれぞれ自訴するため目的の屋敷に向かいます。大老井伊直弼の首をあげた有村次左衛門は「傷は、後頭部から背にかけて長さ四寸深さ七分で、着物の背には一面に血がひろがっていた。かれは、歩行が困難であったが、井伊大老の首をかかえてよろめきながら和田倉門前をすぎ、辰の口の若年寄遠藤但馬守(近江三上藩主)屋敷の門前にいたった。かれは、屋敷前の辻番所に行ったが、番人は恐れて屋敷の中へ逃げこんだ。出血が甚しく、有村は門前で腰を落し、大老の首をかたわらの石の上に置いた。そして、小刀を抜いて臍の上を横に四寸ほど切り、一寸ほど切り上げ、さらに咽喉を突いて突っ伏した。有村は死にきれず、遠巻きにしている者に介錯をもとめたが、恐ろしがって近づく者はいない。そのうちに、遠藤但馬守屋敷から藩士が出てきて、「いずれの家中の方でござるか」と、問うた。有村は、「松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久の官職名)元家来」と答えただけで、声がつづかない。但馬守屋敷の者は、有村の体を井伊の首とともに戸板へのせて辻番所にはこび入れた。それから間もなく、有村は息絶えた。二十三歳であった。」、有村次左衛門は桜田門から日比谷門(日比谷交差点のところ)を通り、現在の日比谷通りを大手町の方へ向かい、和田倉門の先の辰の口の前にある遠藤但馬守屋敷で亡くなります。

 引揚げ途中で連れ立った斎藤、佐野、黒沢、蓮田は、月番老中内藤紀伊守のもとに自訴しようとします。「紀伊守屋敷は、濠の内側にあるので、馬場先門に通じる橋に行った。しかし、桜田門外での変事があったことから、馬場先門は桜田門、和田倉門とともにとざされていた。……斎藤たちは、紀伊守屋敷へゆくことを断念し、田安家(家主田安産頼) の屋敷に自訴しようと考え、道をたどっていった。和田倉門の前にたどりついたかれらの体力は、限界に采ていた。…それ以上歩くことはできず、かれらは右手にある老中脇坂中務大輔(安宅・播州龍野藩主)に自訴することにし、その表門をくぐった。」、佐野竹之介は傷が深く、夕刻死亡します。

 大関、森、杉山、森山の四人は、細川越中守屋敷に自訴します。「かれらは、濠ぞいの道を北へ歩き、和田倉門を左にみて辰の口を右に通じる道をたどって、細川越中守(斉護・熊本藩主)屋敷に自訴した。」、一番元気だったのがこの四人のようですのようです。

右の写真が現在の和田倉門です。当時と場所は変わっていないとおもいます。辰の口と遠藤但馬守屋敷はこれより右側になり、老中脇坂中務大輔屋敷はこの写真の反対側、細川越中守屋敷は反対側の二筋東京駅よりです(下記の地図を参照)。

sakuradamon29w.jpg羽前天童藩邸>
 山口辰之介と鯉淵要人は傷が深く、和田倉門まで達することができませんでした。「有村が遠藤但馬守屋敷前へたどりついた頃、馬場先門と和田倉門の間の濠ぞいにある増山河内守屋敷の角を右にまがっていった二人の同志がいた。山口辰之介と鯉淵要人で、共にひどい深傷を負っていた。山口は腹をえぐられ、鯉淵は肩先から乳のあたりまで深く斬りさげられていて、塀に手をつきながら道をたどっていった。 河内守屋敷の塀がきれ、織田兵部少輔の塀までたどりついたが、そこで歩く力も失せて膝をついた。山口の手にした刀は、弓のようにまがっていた。山口の苦悶は激しく、鯉淵に、「介錯してくれ」と、たのんだ。鯉淵は、体をふらつかせながら立ち、姿勢を正して山口の首を落した。再び膝をついた鯉淵は、すぐに刀で咽喉を突きとおし、絶命した。鯉淵は、襲撃した者の中では最も高齢の五十一歳、山口は二十九歳であった。」、ここで二人亡くなります。増山河内守屋敷は、現在の丸の内三井ビルで、織田兵部少輔屋敷は三菱重工ビルのところで、新しい丸ビルと三菱ビル(三菱信託銀行)との間の道です。

左の写真の右側手前が増山河内守屋敷、向こう側が織田兵部少輔屋敷跡です。写真の左側に少し写っているのが新しい丸ビルです。

sakuradamon32w.jpg大手門>
 大手門までたどり着いたのは広岡子之次郎ただ一人だったようです。「探傷を負った広岡は、さらに北へと歩いて、大手門外の酒井雅楽頭(忠顕・姫路藩主)の屋敷外まできて、歩くことができなくなって腰を落した。たまたま姫路藩士稲若新蔵が、屋敷の窓から娘に降雪をながめさせていて、広岡の自害の様子を目撃し、それを手記として残している。それによると、広岡は雪の上に坐って双肌をぬぎ、帯もゆるめて腹を露出させた。大刀を抜いて腹にあてたが、少し思案する様子で大きな石に腰かけ、刃先を咽喉に突き立てた。刀は一尺五寸も突きとおり、引き抜くと再び突き刺した。」、ここで広岡子之次郎も自害します。

右の写真が現在の大手門です。皇居東御苑見学の入り口ですので、人通りが多く、特に外人が団体で見に来ています。酒井雅楽頭(忠顕・姫路藩主)の屋敷はこの大手門の右側になります。

これで万延元年(1860)3月3日の浪士たちの一日を終わります。この日を境にして時代が大きく動き出します。


「桜田門外の変」の浪士たちの東京地図 -2-

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【参考文献】
・桜田門外ノ変 上・下:吉村昭、新潮文庫
・品川歴史館常設ガイド:品川区教育委員会
・品川歴史館 特別展 東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新:品川区教育委員会
・江戸城の昔と今:望月アート企画室

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