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最終更新日:2007年1月30日

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●「桜田門外の変」を歩く (1) 2002年11月2日 V02L02
 今週からしばらくの間、「明治維新シリーズ」として、江戸で起こった明治維新に関連する事件を掲載していきたいとおもいます。まず最初は、江戸で起こった維新関連の中で最も大きな事件で、大老井伊直弼が水戸浪士に桜田門外で殺害された 「桜田門外の変」を歩いてみたいとおもいます。万延元年(1860)3月3日に起こったこの事件に参加した水戸浪士たち18人の一日を追ってみました。 「江戸城無血開城」まで、あと6年ですから、時代が大きく変わる時の”時の流れの速さ”に驚きますね。

sakuradamon12w.jpg土蔵相模>
 東海道品川宿で最も有名な飯売旅籠屋だったのが4「相模屋」です。歩行新宿(現在の北品川一丁目)にあり、外壁が土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だったので「土蔵相模」と呼ばれていたようです。文久2年(1862)品川御殿山のイギリス公使館焼き討ち事件の首謀者、高杉晋作や久坂玄瑞らが謀議をこらしたもこの「相模屋」です。時代の流れを創った旅籠屋だったのですが、「桜田門外の変」でも、当日、浪士たちが出発した旅籠屋になりました。吉村昭の「桜田門外ノ変」では「鉄之介は、稲葉屋の男に案内されて最後の打合わせ場所である相模屋に行った。土蔵相模と称されているように土蔵づくりの大きな妓楼で、かれは玄関に入った。板敷の内部にあがって廊下をゆくと、中庭にかかった朱塗りの橋があり、その奥に広間があった。」と前日の様子を書いています。

左の写真左側のファミリーマートがあるマンションの所が「土蔵相模」跡です。この「土蔵相模」の建物は、戦災にも生き延び、昭和52年に取り壊されています。残念ながら私は以前の姿を見ることができませんでした。残念!!

浪士行動表

氏      名
土蔵相模
愛宕神社
7時集合
桜田門外
8時待機
目的地 備    考
関鉄之介(水戸)
出発
集合
    総指揮者(斬り合いには参加せず)
岡部三十郎(水戸)
出発
集合
    検視見届役(斬り合いには参加せず)
有村次左衛門(薩摩)
 
集合
    井伊直弼の首を上げる
稲田重蔵(水戸)
出発
集合
   
山口辰之介(水戸)
出発
集合
   
鯉淵要人(水戸)
出発
集合
   
広岡子之次郎(水戸)
出発
集合
   
斎藤監物(水戸)
出発
集合
   
佐野竹之介(水戸)
出発
集合
   
黒沢忠三郎(水戸)
出発
集合
   
蓮田市五郎(水戸)
出発
集合
   
大関和七郎(水戸)
先に出発
先に出発
   
森五六郎(水戸)
出発
集合
   
杉山弥一郎(水戸)
先に出発
先に出発
   
森山繁之介(水戸)
出発
集合
   
広木松之介(水戸)
先に出発
先に出発
   
海後磋磯之介(水戸)
出発
集合
   
増子金八(水戸)
集合
   
佐藤鉄三郎
先に出発
 
    金子孫二郎への伝達役

sakuradamon11w.jpg稲葉屋跡>
 浪士達は前日の集合場所を東海道、歩行新宿の引手茶屋「稲葉屋」に決めます。吉村昭の「桜田門外ノ変」では「…引手茶屋の稲葉屋は、歩行新宿(かちしんじゅく)にあった。その茶屋を集合場所にきめたのは、薩摩藩士の有村雄助の助言によるものであった。
  品川は薩摩ばかりの下駄の音 品川で口がすべると愚僧なり
という川柳があるほど、品川遊廓の客は、増上寺の僧たちとともに三田の薩摩藩邸の者たちが上客であった。有村たちは稲葉屋に行って近くにある品川宿随一の妓楼相模屋にあがるのが常で、稲葉屋の主人とは親しく、恰好の集合場所であった。…」
と書かれています。「いなばや」は「稲葉屋」もしくは「因播屋」だったようです。前日、浪士たちは、「稲葉屋」に集合した後、「土蔵相模」に向かいます。

左の写真の右側、「さわやか信用金庫」のところ辺りが「稲葉屋」跡だとおもわれます。「品川歴史館 特別展 東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新」に掲載されている「品川細見」によると、上記の「土蔵相模」から四軒目が「いなばや」と書かれていますので、ファミリーマートから数えて4軒目が「さわやか信用金庫」になります。

sakuradamon14w.jpg網坂>
 当日は朝早く「土蔵相模」から桜田門外に向けて浪士たちは出発します。おりからの雪の中を、品川宿から待ち合わせ場所の愛宕神社に向かいます。途中、大木戸を過ぎ、札ノ辻を左に曲がり、網坂を登り中之橋と順にたどります。「激しい降雪だった。牡丹雪が、重なり合うように降っていて、白い幕でもたれたようであった。右手の海も白く、視界がとざされている。雪はすでに三寸(九センチ)ほど積っていて、傘がすぐに重くなる。左手の御殿山下は白く煙っている。背に荷をくくりつけた駄馬が、雪に白くおおわれてかたわらをすぎていった。高輪南町の海ぞいの道を進んだ。余りの雪に岡部も驚いているらしく、口もきかない。風も出てきて雪が乱れ舞う。車町をすぎ、松平紀伊守下屋敷の門前をすぎて左への道をたどった。人の姿はない。 さらに道を左に折れると、前方に松平肥後守下屋敷の塀がみえてきた。二人は塀ぞいの道を右へ進み、綱坂をのぼった。雪ですべり、何度か手をついた。」と吉村昭の「桜田門外ノ変」は書いています。松平肥後守下屋敷は現在の慶応義塾女子部、中等部辺りです。

右の写真が現在の網坂の登り口です。写真を撮った所は、慶応義塾中等部と慶応大学に挟まれた所で、写真正面左側が網町三井倶楽部、少し登った右側がイタリア大使館で、けっこう有名な場所です。

sakuradamon16w.jpg中之橋>
 会津藩屋敷と伊予松山藩屋敷を間を抜けて網坂を登り、日向佐土原藩屋敷のところで左に曲がり、筑後久留米藩屋敷の角を右に曲がると、神明坂です。この坂を一気に降りると中之橋にたどり着きます。吉村昭の「桜田門外ノ変」では「…綱坂をのぼった。雪ですべり、何度か手をついた。登り坂がつづき、中の橋を渡った。…」と、網坂からの道順を書いていますが、網坂を上り詰めると、後は神明坂の下りだけで中之橋にだどりつきますので、若干?です。

左の写真が現在の中之橋です。橋の上は首都高速環状線が通っており、昔の面影はまったくありません。

sakuradamon17w.jpg愛宕神社>
 当日の待ち合わせ場所か「愛宕神社」でした。六ツ半(午前7時)には18人全員が集合し、決行現場の桜田門外に向かいます。吉村昭の「桜田門外ノ変」では「そこから増上寺境内の裏手にあたる道を幾まがりかすると、左手に円福寺の山門が見えてきた。その右手に愛宕山に通じる長い石段がのびている。鉄之介は、鳥居をくぐって雪の積った石段をのぼっていった。山上には愛宕権現の社があって、かたわらに茶屋があり、縁台に腰かけている多くの男の姿が見えた。鉄之介は、それらが同志たちであるのを眼にして近づいた。煙管を手にしている者もいれば茶を飲んでいる者もいる。…うなずいたかれらは、腰をあげ、三、四人ずつ茶店を出てゆく。…鉄之介は、かれらがすべて去るのを見とどけてから、岡部と連れ立って茶屋をはなれ、雪の積った男坂を用心深くくだった。積雪は増していて、下駄の歯に雪がつまり、歩くのに難儀であった。鳥居をくぐって左手の道をゆくと、左右に大名の屋敷の塀がつづいている。濠にかけられた新橋を渡ると、そこからも両側は大名屋敷で、喘息持ちの稲田が同志たちにおくれて一人歩いてゆくのが見えた。雪は、勢いを衰えさせない。やがて、前方に桜田門が降雪の中にかすんでみえてきた。」、とあります。愛宕山の手前の円福寺は現在はありません。愛宕神社の正面の階段が男坂で、坂を登ると愛宕神社があります。神社の中に「桜田烈士の碑」がありますので見て頂ければとおもいます。

右の写真が愛宕神社の男坂を下から撮影したものです。女坂は右側にあります。愛宕神社のある愛宕山はNHKのラジオ放送でも有名で、現在でも放送博物館があります。山頂にはいまも茶屋があります。

水戸浪士たちは、この愛宕山から桜田門外に向かいます。井伊直弼の登城時間の五ツ半(午前9時)に間に合うように雪の中を一歩一歩進んでいきます。次回をご期待ください!!


「桜田門外の変」の浪士たちの東京地図

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【参考文献】
・桜田門外ノ変 上・下:吉村昭、新潮文庫
・品川歴史館常設ガイド:品川区教育委員会
・品川歴史館 特別展 東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新:品川区教育委員会
 
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