kurenaidan30.gif kurenaidan-11.gif
 ▲トップページ著作権とリンクについてメール

最終更新日:2007年1月30日

ishin-title6.gif


●「生麦事件」を歩く (1) 2002年11月16日 V02L01
 先週に引き続き、「明治維新シリーズ」として、江戸で起こった明治維新に関連する重大事件を掲載します。今週は、神奈川県横浜市鶴見区生麦で、薩摩藩主島津久光の大名行列に騎乗した4名のイギリス人が遭遇し、内一名を刺殺した「生麦事件」の一日を追ってみたと思います。

namamugi15w.jpg<生麦街道>
 明治維新へ向けて江戸ではさまざまな事件が起こりますが、この「生麦事件」は、江戸で起こった大きな事件の最後となります。そして事件の舞台は江戸から京都へ移っていきます(新撰組や池田屋事件となっていきます)。「江戸城無血開城」まで、あと4年です。

左の写真は旧東海道(生麦旧道)の立て看板です。時代を大きくかえた事件が起こった場所にしては殺風景な場所でした。
明治維新への事件簿
和暦
西暦
事  件 内   容
安政5年
1858
安政の大獄 吉田松陰、橋本左内ら処刑
万延1年
1860
桜田門外の変 桜田門外で水戸浪士が大老井伊直弼を暗殺
三田で、アメリカ公使館通弁官ヒュースケンを暗殺
文久1年
1861
第一次東禅寺襲撃事件 英国大使館の高輪東禅寺を水戸浪士が襲撃
文久2年
1862
坂下門外の変 坂下門外で水戸浪士が老中安藤信正を襲撃、負傷
第二次東禅寺襲撃事件 信濃松本藩士が高輪東禅寺に乱入、イギリス人を刺殺
生麦事件 薩摩藩主島津久光の大名行列に遭遇したイギリス人を刺殺

namamugi11w.jpg薩摩藩下屋敷>
 文久2年8月21日(1862) 10時(四つ)、 島津久光公は高輪 薩摩藩下屋敷から京に向けて出発します。吉村昭の「生麦事件」では「夜が明け、六ツ半(七時)に出立の準備がすべてととのった。屋敷の奥座敷では、洗面をし髪をととのえた久光が朝食をとった。明るい陽光が庭にひろがり、発駕にふさわしい秋の気配が感じられる爽やかな朝であった。…四ツ(午前十時)、旅装姿の久光が留守家老らをしたがえて玄関の式台に姿を現わし、藩士たちは、一斉に頭をさげた。…先導組の殿をつとめる槍奉行が東海道を品川宿方向に進みはじめた頃、「御発駕」という声があがった。…門を出た乗物は坂をゆっくりと下り、その後から槍を芋にした者や長持などをかついだ者がつづき、豹皮の鞍を置いた久光用の烏と二頑の乗替え馬が進む。久光の乗替え用の乗物も六尺にかつがれていた。」、とあります。薩摩藩高輪下屋敷は現在の港区高輪、ホテルパシフィックメリディアン東京、高輪プリンスホテルのところです。

左の写真の右側が薩摩藩高輪下屋敷跡です。現在は左側が品川プリンスホテル、右側手前がホテルパシフィックメリディアン東京、右奥が高輪プリンスホテルです。島津久光公の行列がおりてきた坂が写真中央の坂とおもわれます。

namamugi12w.jpg釜屋半右衛門の茶屋>
 江戸時代の行列はノンビリしていて、なかなか進みません。8月21日の予定では、泊まりが神奈川宿(現在の東神奈川駅から横浜駅の間辺りです)でしたので(距離では約23Km位)ゆっくり、休み休み、進みます。まず最初に休んだのが品川寺前の釜屋半右衛門の茶屋です。「先導組が品川宿に近づき、先払いの「下に、下にい」の声とともに宿場に入っていった。…先導組につづいて本隊の行列が、整然と列を組んで宿場に近づいた。宿場の入口には麻裃姿の宿場役人が土下坐して迎え、行列を導いて、久光の乗物は品川大仏前の釜屋半右衛門の茶屋の前でとまり、おろされた。乗物を出た久光は、茶屋に入り、そこで小休止となった。奥座敷で、久光は、ついてきた江戸留守居西筑右衛門ら江戸藩邸詰の藩士から別れの挨拶を受け、酒を注いだ杯にロをつけた。行列をくんできた藩士たちは、列をくずさず片膝をつき、長持等をおろした足軽たちは汗をふいていた。三番触れがあって久光が茶屋から出てきて乗物に身を入れると、行列が動き出した。宿場は森閑としていて、遠く先導組の先払いの「下にい」の声がかすかにきこえるだけであった。」、品川大仏とは江戸六地蔵の一つで、品川寺の中にあります(品川寺は”ほんせんじ”と読みます)。品川寺前の釜屋半右衛門の茶屋は、新選組の土方才蔵などが泊まったことでも有名な宿です。

右の写真が現在の品川寺です。当時と場所は変わっておりませんので、釜屋半右衛門の茶屋はこの斜め前となります。現在はマンションとなっていますが、記念碑がありますのですぐに分かります。

namamugi14w.jpg川崎宿、本陣の田中兵庫>
 釜屋半右衛門の茶屋の次に休んだのは、「刑場のある鈴ケ森をすぎ、再び橋を渡って大森村に入った。品川宿から一里九町の地で、そこでも休息が予定されていて、久光は、茶屋の山本休三郎宅に入った。」、とあり、大森辺りで休んでいます。その後、多摩川を超えて川崎で昼食となります。「…川崎宿に入った。高輪藩邸から二里三十二町で、その宿場から一里東南方に参詣客でにぎわう川崎大師平間寺がある。その宿場で昼食を兼ねた休息をとる予定になっていて、久光の乗物は本陣の田中兵庫の家の前でおろされた。すでに家紋を染めぬいた幕が張りめぐらされ、道の両側と家の前には歓迎をしめす盛砂があった。上段の間に入った久光は、調理人のととのえた料理で食事をとり、茶坊主の立てた茶を飲んで休息した。その間に、行列に加わっている者たちは、それぞれ茶屋に入ったりして弁当を使った。道には、旅人や馬、駕籠がしきりに往き交い、旅籠や茶屋の女たちが旅人に声をかけていた。一番触れにつづいて二番触れがあり、整然と行列が組まれた。道に人の姿は消え、久光が乗物に身を入れると三番触れがあって、行列が静かに動き出した。」、川崎宿本陣の田中兵庫家は現在の川崎駅に近いところにあります。部下はお弁当を食べており、高輪の下屋敷を出る時に持たされていたようです。

左の写真の左側手前が川崎宿本陣の田中兵庫家跡です。現在は深瀬小児科医院があり、記念碑がたっていますのですぐに分かります。

namamugi17w.jpg生麦事件碑>
 川崎の本陣で昼食をとった後、島津久光公は東海道を鶴見から生麦、神奈川宿へと向かいます。「先導組は、早くも鶴見村に入る橋にかかっていたが、青竹を突いて声をあげる先払いの徒士の眼に、あきらかに外国人と思われる服装の男が、茶色い馬に乗ってやってくるのが映った。…男は、アメリカ領事館の書記官ヴアン・リードであった。…また、大名行列が威厳の象徴であり、その列の先を横切った者が容赦なく斬り捨てられることも、日本通をもって任じていたかれは知っていた。行列を眼にしたかれは、恐怖に駆られ、帽子を脱ぎ、膝を突いたのだ。先払いがさらに近づくと、かれは頭をさげ、先導組の者たちはかれを横眼で見つめながら通り過ぎていった。」、島津久光公の行列にあった一人目の外国人は、彼が経験者だったため、うまくやり過ごします。次に大名行列の前に現れた外国人は、男三人、女一人のイギリス人でした。この馬に乗った四人は商人のウイリアム・マーシャルが中心で、ハード商会に勤務する友人のウッジロープ・チャールズ・クラーク、クラークの友人のチャールズ・レノックス・リチャードソンとポロデイル夫人のマーガレットでした。

右の写真は現在の生麦事件碑です。旧東海道と第一京浜国道の交差点にありますが、実際に生麦事件が起こった場所は、川崎よりの、かなり手前になります。

この後の事件の経緯と、島津久光公の行動については次回に回したいとおもいます。ご期待ください!!


「生麦事件」 品川から生麦地図

namamugi-map1.gif


【参考文献】
・生麦事件 上・下:吉村昭、新潮文庫
・品川歴史館常設ガイド:品川区教育委員会
・品川歴史館 特別展 東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新:品川区教育委員会
・横浜市内東海道新旧対照名所図:東海道五区民合同セミナー連絡会議編
・旧東海道を歩く:第一巻、第二巻:勝田五郎
 ▲トップページページ先頭 著作権とリンクについて メール