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最終更新日:2006年2月19日

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●井上ひさし「東京セブンローズ」を巡る(上) 2002年7月27日 V01L02
  8月15日の終戦記念日が今年も近づいてきましたので、特集というわけではないのですが、今年の文庫本のヒット作、井上ひさしの「東京セブンローズ」を巡ってみたいとおもいます。読まれていない方は面白くないかもしれませんが、昭和20年当時の東京とその近郊がよく書かれており、なかなかの力作とおもいます(何回読み直しても面白い)。

inoue-seven10w.jpg この主人公は「本郷区根津宮永町三十五番地。団扇職人兼団扇店経営。現在は請材料不足のため無職。」、と書かれており、俗にいうと根津の団扇屋なのです。この主人公は山中信介53歳で、昭和20年4月から昭和21年4月までの一年間を日記風に書いています。根津の町は本郷の東京帝国大学に近かったので、空襲にあわずにすんだのですが、本人は全くそのようなことは夢にも思わず、空襲のたびに防空壕に逃げ込んで様子を伺っています。また団扇屋なのですが、材料がないため団扇を作れず、仕方がないのでオート三輪を購入して運送屋を始めます。これがまた問題を起こすのですが……(あとは本を読んでください)。

左の写真は谷中「いせ辰」で買った団扇です。木版の手刷りで、すばらしい団扇で、使うのがもったいないです。この本の主人公もこの写真のような団扇を作っていたのだとおもいます。


inoue-seven32w.jpg この小説は季刊誌「別冊文藝春秋」の1982年4月から連載が始まり、途中中断を何度かしたようですが、17年かけて完成させています。

<井上ひさし(いのうえひさし)>
 昭和9年(1934)、山形県に生れる。上智大学外国語学部フランス語科卒業。浅草フランス座文芸部進行係などを経て文筆業に入り、戯曲、テレビ脚本で数々の賞を受賞。47
年、小説「手鎖心中」で直木賞受賞。54年、戯曲「しみじみ日本・乃木大将」「小林一茶」で紀伊国屋演劇賞、翌年、読売文学賞戯曲賞を受賞。56年、「吉里吉里人」で日本SF大
賞、翌年、同作で読売文学賞小説賞を受賞。平成11年、執筆17年におよぶ大作「東京セブンローズ」を刊行、菊池寛賞を受賞。著書に「青葉繁れる」「ニホン語日記」「本の運命」「わが友フロイス」「紙屋町さくらホテル」「夢の裂け目」など多数。(新潮文庫より)


inoue-seven11w.jpg<本郷区根津宮永町三十五番地>
 この主人公の山中信介が住んでいるのは根津宮永町、現在の根津2丁目8番辺りです。言問通りと不忍通りの交差点から上野の方へ少し歩いたところです。団扇屋については「思えばほんの数年前まで東京には二百五十軒の囲扇屋、扇屋があつた。それが現在は日本橋の伊場仙と根津の太田屋とうちの三軒だけになつてしまつた。しかも三軒とも今は仕事をしてゐない。」と書いています。根津の町とその周りについては「表通りを千駄木の方角に向ひ、山の湯のあたりから左に折れてS坂の方へ歩いで行く。坂にかかる手前を今度は右に折れると、そこが根津権現である。…… S坂の手前で右側の鳥居を潜り、花山岡岩の参道を社殿へ歩いて行く。下駄が磐のやうに冴えた一首で鳴るのが正月らしくていい。剥げた木像の据ゑてある随身門を入ったところで隣組の高橋さんに出合った。 …… 社地の西の外れに乙女稲荷や駒込稲荷へ登る赤鳥居がある。その鳥居の近くの丸い大石に腰を下ろすと、高橋さんは外套のポケットから戦前に責り出されたスモカ歯磨の空碓を取り出した。……「文豪憩ひの石です。この石に森鴎外や夏目漱石が腰を下ろして小説の想を練ってゐたことが、研究家の調査で分ったんですよ。」とあります。S坂とは、新坂が正式名なのですが、森鴎外の「青年」でS坂と呼んだ為、S坂と呼ぶようになったようです。”文豪憩ひの石”書いてあるので石があるのかとおもい 、根津神社の駒込稲荷、乙女稲荷の鳥居付近を探しましたが、それらしき石は残念ながらありませんでした。

根津付近地図←クリック

左の写 真は不忍通りから一筋入った現在の文京区根津二丁目8番(旧宮永町)付近です。戦災で焼けていないため、戦前の木造三階建て等の古い建物がたくさん残っています。


inoue-seven21w.jpg<南千住>
 主人公、山中信介の娘の婚約者の実家が南千住の古澤殖産館です。『今朝はやく、角の兄が千住の古澤家へ結納を届けに行ってくれた。兄に托したのは、このあひだ、団扇二百五十本と物々交換で手に入れた袴地一反、それに現金五百円である。材料不足でしばらく団扇を作ってゐないわが家としてはずいぶん張り込んだつもりだし、これぐらゐが精一杯のところだ。戻ってきた兄は、「先日のお見合だが、古澤の忠夫くんは、お前のところの絹子ちやんの手しか見てゐなかつたらしいよ」といつた。』とあります。

右の写真が現在の千住大橋です。「それからひとまづ古澤家一同を見送ってから根津に引き揚げ、正午、妻と二人で千住大橋際の古澤殖産館へ出かけた。」とあり、千住大橋の近くにあったようです。

inoue-seven31w.jpg<取手の山本酒造店>
 材料不足で団扇が作れないため、運送屋を始めますが手元にあるオート三輪の調子が悪く、新たに中古車を購入しようと考えています。『早起きしてオート三輪の修繕をした。だがどうやつても動かない。…… 「取手に山本といふ造酒屋のあるのは知ってゐるな。五年ばかり前に、名入りの圃扇を二千本だつたか、注文してくれたことがあつたらう。はら、おれが注文を取ってきてやったぢやないか。こなひだ、こつそり酒を頒けてもらひに行ったら、あそこの旦那が「うちではもうオート三輪には用がなくなつてしまつた。手金として千円も打ってくれる人があつたら譲ってあげてもいい」といつてゐたぜ。』ということで取手までオート三輪を買いにいきます。

取手付近地図←クリック

左の写真は取手の田中酒造店です。取手には酒造店が二軒しかなく、取手駅から近い方が田中酒造店です。店構えが昔のままで、オート三輪で乗り付けても違和感の全くないお店です。

inoue-seven26w.jpg<竹ケ花の交差点>
 オート三輪で荷物を運びに常磐線の馬橋にいった帰りに、米軍のP51戦闘機に襲われます。「殻付き落花生と握飯を積んで松戸市馬橋を発ったのは午前九時半である。だれかが、「今、空襲警報が発令になつたよ。B29がP51を伴って小笠原、伊豆列島線より逐次北上中だと、ラヂオが言ってるよ」と注意してくれたが、……愚樹々々してはゐられない。それに下矢切へ出るこの陸前濱街道は知らない道ではない。……常磐線の踏切の数百米手前へさしかかったとき、目の前へいきなり巨きな黒い影が被ひかぶさつて来た。尖った鼻先、ふくらんだ胴、翼の先端は鉄で切り落したやうに角張ってゐる。胴健後方に大きな足印。新聞によく写真の載ってゐるノースアメリカンP51ムスタングだ。さう気がついたとき背中が爆音を受け止めた。砂嵐を浴びたやうだつた。…自分は咄嗟にハンドルを左へ切った。P51はやや右手から被ひかぶさつてきたから、半ば本能的に左へ避けたのだ。丁度そこは野中の、小さな十字路で左にも道があつたからよかつた。本富の一本道だつたら麦畑へ突つ込んでゐただらう。そのままオート三輪を走らせた。十字路へ引き返し、松戸市街へ向ふ手もあつたかもしれないが、P51の飛乗した方角へ走るのは怕かつた。別のP51が襲ってくるかもしれない。十字路を右折するのはもつと危い。常磐線の線路があり、その向うは田ん圃。そして田の尽きたところが江戸川だ。どこにも待避所はなく、しかも行き止まりである。馬橋へ逃げ締るのはどうか。松戸市街へもう一歩のところまで来てゐながら、また振り出しへ戻るのは、ガソリンがもつたいない、と思った。」とあります。この野中の十字路の場所を特定するのが大変でした。陸前濱街道とは水戸街道のことで、馬橋駅付近から水戸街道を東京方面に向かうと、常磐線の踏切がある所は何カ所かあります。その中でも松戸市内の手前で踏切のある場所はこの竹ケ花の交差点の先しかありません。この竹ケ花の交差点を300mほど先に踏切がありました。”ありました”と書いたのは、現在は踏切はなく、右の写真の通り、この交差点の右で立体交差になっています。

松戸付近地図←クリック
 
この写真が竹ケ花の交差点です。写真の交差点をまっすぐいくと松戸市内です(地図を参照してください)。右に曲がると常磐線(現在は立体交差)で、左に曲がって少しいくと旧松戸飛行場(現陸上自衛隊松戸駐屯地)です。この小説では、主人公は米軍のP51ムスタング戦闘機から逃げるため、この交差点を左に曲がり、松戸飛行場までオート三輪を走らせます。現実には松戸飛行場まではかなり距離があって逃げるには難しいとおもいます。松戸飛行場は現在は無くなっており、陸上自衛隊松戸駐屯地になっています。

 


根津付近地図
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●井上ひさし「東京セブンローズ」を巡る(下) 2002年8月3日 V01L01

inoue-seven32-2w.jpg<東京セブンローズ (下)>
  東京セブンローズの主人公は、終戦間際の昭和20年6月に密告から特高警察に国防保安法違反で逮捕され、千葉県八日市場の刑務所に入れられます。しかしすぐに終戦になり9月には出所します。逮捕した特高警察官のつてで警視庁官房文書課に就職し、家族も交えた「日本語のカタカナ化について」GHQとのやり取りが始まります。

左は「東京セブンローズ」の下巻の表紙です。東京セブンローズの上巻の表紙絵は、時計屋、床屋、写真屋、八百屋、呉服屋などが描かれており、昭和20年代の東京をよく表しているとおもいます。下巻になると、”一億火の玉”などの看板もおかれ、川から水をとってバケツリレーを行っている風景か描かれています。よく見るとなかなか面白ですよ。


inoue-seven14w.jpg<慶應病院裏手の信濃屋旅館>
 この主人公 山中信介の娘夫婦は翌日開催される明治神宮相撲を見るため、嫁ぎ先の南千住の古澤殖産館から信濃町の慶応大学病院の裏手の信濃屋旅館に泊まります。「信濃屋旅館に忠夫くんと絹子が入ったのは二十三日の午後九時すぎだつた。……空襲警報が発令になつたときの配牌などは、白、黎、中が三枚宛きて大三元の一門聴、役満を上ったりしては接待麻雀にならないから、 「防空壕へ入りませうか」 といふよりはやく牌を掻き混ぜたが、そのときザーツと夕立ちのやうな音がぐんぐん近づいてきて、……はつと気がつくと眼前の襖に何百匹もの赤い蛇が這ってゐる。よく見ると火の穂だつた。反封側の唐紙を蹴破って戸外へ飛び出した。次に気がつくと忠夫くんは晒布を利用した急造の誘導綱を摑んで慶應病院の構内をせはしく歩いてゐた。……朝の六時頃から信濃屋旅館のあつたあたりをふらふら歩き回つてゐた……。」、娘婿は接 待麻雀をやっていてB29の空襲にあったようです。隣の建物に寝ていた嫁は焼夷弾の直撃を受けてなくなります。信濃町の慶応大学病院は有名なのでよくご存じだとおもいますが、大学病院裏手の信濃屋旅館は実在せず、”外苑ホテル”が同じような場所にありました。

信濃町付近地図←クリック

左の写真は慶応大学病院裏手にある”外苑ホテル”です。裏手の路地を少し入ったところにあるこじんまりとしたホテルです。


inoue-seven23w.jpg<中川橋>
 主人公はオート三輪で陸前濱街道(水戸街道)を何度か往復します。「少年と女の子を柴又の題経寺の門前でおろして、陸前濱街道を中川橋に向つて走り出したとき、背後から題経寺の入相の鐘が追ってきた。一昨日の日録に自分は「このごろの若い人は立波だ」と誌したが、このごろの少国民もまた独立独歩の気概に溢れ、末頼もしい。あのやうに蓮しい少年が一人でもゐる限り、帝国がこの先いかなる苦難に直面しようとも、その未来に光明の失はれることは断じてないのである。」とあります。当時の水戸街道の中川橋は現在の街道の中川大橋とは違い、少し上流にあり、当時の橋がそのまま現存しています。柴又の題経寺とは、寅さんで有名な柴又帝釈天のことです。

金町付近地図←クリック

右の写真が中川橋です。写真の右側が古い中川橋(戦前からある橋です)で左側が新しい中川橋です。古い橋は既に通行止めになっており、解体されるのは時間の問題とおもいます。

inoue-seven18w.jpg<東京放送会館>
 主人公は警視庁官房文書課から東京放送会館に移ります『「……CIEは日本放送協会の東京放送会館ビルの半分以上を占領してゐる。つまり山中さんの新しい勤め先は内幸町の東京放送会館、そこは放迭についての第一級情報の渦巻くところ、耳よりの情報を入手したらただちに御一報を。よろしいな」……朝のうちは雪催ひの灰色の雲が低く垂れこめてあたり一面、薄暗かつたが、午前十時ちよつと前、警視庁を出て日比谷公園を新橋に向つて横切るころは、その空のところどころに青い穴が開いて少し明るくなつてきた。しかし気温は昨日よりも低い。公会堂の脇から道を渡ると富国生命の本社ビルがある。その向う隣りの、どつしりとした灰青色の六階建てのビルが日本放送協会の東京放送会館である。この一郭、富国生命、東京放迭会館、そしてその隣りの三井物産の三つのビルは辛うじて焼け残り、このへんには戦前の東京のビル街の面影が、僅かではあるが漂ってゐるやうだ。』と書かれています。日比谷公園と公会堂は、ご存じの通り昔のままです。公会堂の前の交差点の角にあった富国生命ビルは建て直されていますが「富国生命ビル」のままてした。富国生命ビルの隣にあった東京放送会館のNHKは渋谷に移っており、そのあとは日比谷国際ビルに変わっています。またその隣には三井物産のビルがあったのですが、経済産業省側にある物産ビル別館を除いて、こちらも大手町に移っています。現在は日比谷セントラルビルになっています。当時の富国生命ビルは米軍婦人部隊宿舎になっており、放送会館には「放送、出版、映画検閲機関・WVTH」が入っていました。

左の写真は第一勧業銀行本店(現在はみずほ銀行)側から撮影したものです。通りは日比谷通りで、右側のビルが富国生命ビル、左隣に見えるのが日比谷セントラルビルです。日比谷国際ビルは奥まっており、ここからは見えません。

inoue-seven19w.jpg<日比谷三信ビル>
 日比谷の三信ビルは現存するのでよくご存じだとおもいます。『「すぐそこ、日比谷三信ビルでステーキでもたべませんか。アメリカ赤十字のサービス・ルームのステーキはいま日本で一番おいしいでせう。さう思ひます」こいつが嫁入り前のうちの文子を、と思ったら震へが来た。 「喫茶室もある。ケーキやアイスクリームもたべられます」「なにかいつてあげなさいよ」文子が守衛室の横に立ってゐた。赤地に緑の格子縞のネッカチーフを被って、茶色の、厚手のコートを羽織ってゐる。足もとは爪先立ちのハイヒール。唇はネッカチーフの赤が槌せて見えるほどあざやかに赤い。まるで苺をくはへてゐるみたいだ。「ボブがいろいろ骨を折ってくれたの。だからこんなに早く出られたのよ」自分はホールの横をすり抜け、文子の前で止まつて、「恥を知りなさい」横面を張った。そしてそのまま通用口を早足で抜けると、裏を回つてアメリカ騎兵第一師団憲兵隊宿舎の前に出た。』、当時の三信ビルは下士官、兵宿舎になっており、隣の帝国相互ビル(後の朝日生命ビル)は米軍東京憲兵司令部(PNO)でした。ですから三信ビルのなかにステーキハウスがあっても不思議ではありません。

この写真が日比谷三信ビル です。昭和4年に松井貴太郎設計、横河工務所施工で建設されています。東京都内に残る数少ない昭和初期のビルで、二階建てのアーケード街などはすばらしいです。日比谷 通りでは第一生命ピル、明治生命館と並び称されます。
 


日比谷付近地図
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【参考文献】
・東京セブンローズ(上):井上ひさし、新潮文庫
・東京セブンローズ(下):井上ひさし、新潮文庫
・水戸道中 宿場と旅人:松戸市立博物館
・MPのジープから見た占領下の東京:原田弘、草思社
 
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