今週は「小説家の新宿を歩く」の三週目ですが、すこし小説家から離れて、”いかりや長介とドリフターズ”の新宿を歩いてみます。ドリフターズがまだ有名になる前、ジャズ喫茶というライブハウスで演奏をしていた頃のお話です。いかりや長介さんが20日亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。
<いかりや長介の自伝、「だめだこりゃ」>
平成16年(2004)3月20日いかりや長介さんが亡くなられました。この特集は全くの偶然となりましたが、ご冥福を祈りたいとおもいます。いかりや長介さんは。「…新井の死の翌月、今度はジミー時田が亡くなった。二人ともいい意味で奇人だったが、ともに私の人生に欠かせない人間だった。二十代は時田、三十代は新井が伴走してくれた。その二人はもういない。なんて年だ。立川談志さんが時田の葬儀委員長を務めていた。外はいい天気たった。出棺を待つ間、ぼんやり空を眺めていると、「そろそろ、俺も人生のまとめをする時期だよな……」という気になった。それが自伝の話を引き受けた理由のひとつだ。これから、いろいろ記憶を辿っていこうとおもう。そうすれば、また新井や時田にも会えるだろう。…」、と本に書いています。新井注さんが亡くなられたのが平成12年(2000)1月、ですから時田さんは2月になります。この本を書いたのは2001年ですから、新井注さんが亡くなられてから約1年で書き上げています。
★左上の写真が、いかりや長介さんの自伝「だめだこりゃ」の文庫版です。文庫版のあとがきにも、「私は元来、こういう種類の文章を残すほどの人間ではない。もうそろそろ古希になろうかという歳だが、いまだに四流のミュージシャン、四流のコメディアン、四流のテレビ・タレントにすぎない。卑下でも何でもなく、それ以上であったことはない。自分ごときが何様の分際で「自伝」か、などと思ってしまう。……だから、ずっとお断りしていた。心境が変わつたのは、二〇〇〇 (平成十二)年の春先からだ。荒井注が逝って、ジミー時田が亡くなった。この二人の奇人は私のかけがえのない友人であり、師匠であり、同志であった。三つ年上だが、私がリーダーだったドリフターズに所属していた荒井。五つ年下だったが、マウンテン・プレイボーイズのリーダーだった時田。いろんなことを学んだ。敢えてもらった。そして、一緒にあの時代を走り抜けた。あれから何十年もたったなんてまるで実感が湧かない。米軍のキャンプやジャズ喫茶で、演奏と音楽コントを磨いたあの時、時田と共にいた。時田の歌を、生の歌を同じステージで、後ろから何度も開けたのは私の人生の中でも最高の贅沢だったと思う。…」。なにか今を予感していたようです。
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