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最終更新日:2006年2月19日


●新坂(十三夜:樋口一葉)から林家三平師匠まで(根岸界隈散策)
    2000年8月5日 V01L02

 あいかわらず樋口一葉が好きで「十三夜」を読んでいたら根岸の新坂が出てきたので、今週は鴬谷界隈を取り上げてみました。

  「実家は上野の新坂下、駿河台への路なれば茂れる森の木のした暗侘しけれど、今宵は月もさやかなり、広小路へ出づれば晝も同樣、雇ひつけの車宿とて無き家なれば路ゆく車を窓から呼んで合點が行つたら兎も角も歸れ・・・」は樋口一葉の十三夜の上の終わり頃に出てきます。写真が新坂でJRの陸橋の上から撮影しています。写真の右側が鴬谷駅になります。角はそば屋さんです。物語はここからがハイライトになります。「え、と驚いて振あふぐ男、あれお前さんは彼のお方では無いか、私をよもやお忘れはなさるまいと車より濘るやうに下りてつくづくと打まもれば、貴孃は齊藤の阿関さん・・・・」と、主人公の阿関は夫の仕打ちに耐えかねて子供を置いたまま家を飛び出し、実家に帰っていたが両親に説得されてようやく帰る気になって、人力車を呼び、乗ったわけです。その人力車の車夫が偶然にも昔の恋人だったのです。「・・久し振でお目にかゝつて何か申たい事は澤山あるやうなれど口へ出ませぬは察して下され、では私は御別れに致します、隨分からだを厭ふて煩らはぬ樣に・・・」と二人は何もなく別れていきます。なんとも切ない・・・です。「うむ」、「つらい」!!

<笹の雪>
 鴬谷駅の日暮里側で降りてまっすぐ尾久橋通りと尾竹橋通りの交差点まで歩いていくと、角に、元禄年間創業という豆腐料理店「笹乃雪」があります。豊富な水を利用した豆腐料理が名物で、元禄の頃、初代玉屋忠兵衛が根岸の里、音無川のほとりに二軒茶屋として開業、江戸で初めて絹こし豆腐を造り、上野東叡山の御用を勤めています。寛永寺の宮から、「笹の上に積もリし雪のごとし」とほめられたのが屋号の起こりだということです。江戸から明治初期にかけては、明け方に入谷の朝顔を見たあと、笹乃雪でひと休みし、豆腐を肴に酒を酌むという楽しみ方が、庶民の定番コースだったそうです。正岡子規も屋号を諦み込んだ句を残しています。「世乃雪」の店先の植え込みに、「みなづきやねぎしすずしきささのゆき」「あさがおにあさあきなひすささのゆき」の二句を刻んだ句碑があり、文字は子規の自筆だといいます。残念ながらここのお店は少々価格が高いのが難点です。セットメニューで4千円以上です(三品以上で1400円なら個別注文に応じてくれます)。我々庶民向けには朝顔セットというのがあって2500円で楽しめます。

<ねぎし三平堂>
 昭和の爆笑王、林家三平師匠のネタ本やレコード、愛用の品などの展示や落語や漫談の様子等がビデオで見られます。適当にしゃべっていた様に見えた師匠ですが、「ねた本」を見ると、実にきめ細かくネタを作っておりビックリしました。落語家の春風亭柳昇さんは『寄席は毎日休みなし』(うなぎ書房刊)の中で師匠のことを、『林家三平が売れたのは、素直に人のいうことをよく聞いたから。高座から下りてくると「いまのどうだった?」と感想を求めた。アドバイスすると「どうもありがとう」。だからどんどん売れた。でも三平さんは悪い人で、私には何も助言してくれなかった』と言っています。素直で面白いですね。立川談志さんは「寄席交遊録」の中で『三平さんは大スターである。彼が出て来ると、その場内はひときわ明るくなる。出てくるだけで会場がぱっと陽気になる芸人なんてのは、そんじょうそこらにゃなかなかいない。相変わらずの、「好きです、好子さん」、をうたい、相変わらずのネタを演じたが、これまた楽しい。』と書いています。本当に明るくて楽しい師匠ですね!

<林家三平> 三平師匠の高座姿
1925年11月30日生まれ。1980年09月20日死去。
東京都出身、本名:海老名栄三郎、父親:7代目林家正蔵、妻:海老名香葉子
長女:海老名美どり(峰竜太の妻)、次女:泰葉、長男:林家こぶ平、次男:林家いっ平。

<正岡子規庵> 《東京都指定史跡》
 子規庵の周辺はラブホテルばかりで写真を撮るのに苦労しました。反対側はずっとホテルが並んでいました。子規庵は入場料が300円で中に叔父さんが一人います。話好きな方でずっと一人でしゃべって居ました。(疲れた) 子規庵の建物は、旧前田家の御家人の二軒長屋の一つでした。明治25年、そのうちの一軒、陸羯南(くがかつなん)の西隣の88番地に住んだのが根岸の里への縁で、27年には陸氏の東隣の82番地に移っています。ここに母と妹を呼び寄せ、書斎、病室と旬会歌会等の場とし、ついには終生の地となります。子規生前には夏目漱石、森鴎外、高浜虚子、与謝野鉄幹、島崎藤村等、友人、門弟等が訪れ、近代文学の原点の一つとなりました。子規没後、母堂、妹が住み、ひき続いて旬会、歌会の世話をしていました。大正12年の関東大震災で家屋はやや傾いたが無事でした。同年末、前田家より売却してもよいという話があり、14年、土地家屋とも買い取っています。翌年その修理改築を完成。昭和2年5月12日、母堂八重死去。83歳。同年、寒川鼠骨の提案で土蔵(子規文庫)を建設。昭和3年7日18日付で子規庵保存会財政法人が認可となっています。昭和16年5月24日、妹正岡律死去。71歳。昭和20年4月14日、空襲で子規俺及び隣の寒川鼠骨家も焼失しましたが、幸い蔵のみ残りました。昭和23年鼠骨等は、「子規庵」再建のため『子規選集』刊行に努め、25年6月19日「子規庵」再建。27年11月3日、「子規庵」が都文化史蹟に指定されました。昭和29年8月18日、鼠骨は子規の没した同じ六畳の間で死去しています。79歳。(子規庵保存会ハンフレットより)

鴬谷付近地図

【参考文献】
・十三夜:樋口一葉 岩波文庫
・続・東京の文学風景を歩く:大島和雄 風濤社
・歴史と旅 江戸東京歴史ウォーク(3/10 増刊):秋田書店

【見学について】
・笹の雪:東京都台東区根岸2-15-10 電話 03-3873-1145
・ねぎし三平堂:東京都台東区根岸2-10-12 電話 03-3873-0760
・子規庵:東京都台東区根岸2-5-11 電話 03-3876-8218
 


●樋口一葉記念館  
「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お歯ぐろ溝に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く」は樋口一葉の「たけくらべ」のはじまりの一節です。一葉は明治5年に東京で生まれ、明治26年に下谷竜泉町(吉原のすぐ隣)に転居してきました。「たけくらべ」の書き出しの一節は吉原(遊廓)の大門と見返り柳を書いたものです。ここにはわずか一年程しかいませんでしたが彼女の作品に大きな影響を与えたようです。(一葉記念館には「たけくらべ」の自筆の原稿があります)ここから一葉は本郷丸山福山町に転居し、25歳の若さで亡くなっています。

(台東区竜泉3-18-4 台東区立)
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