●堀辰雄の鎌倉・逗子を歩く
    初版2011年1月22日
    二版2011年2月6日 深田久弥宅を確定  <V01L01>  暫定版

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。今回は「堀辰雄の鎌倉・逗子を歩く 」です。堀辰雄は昭和13年2月、鎌倉の神西清宅から深田久弥宅を訪問後に喀血、深田久弥宅で暫く静養し入院します。退院後、4月に加藤多恵子と結婚、秋には静養のため再び鎌倉と逗子に住みます。




「鎌倉 神西清宅跡」
<鎌倉 神西清宅>
 堀辰雄は昭和13年2月、鎌倉の先輩や友人達を訪ねるために出かけます。誰の所へ出かけたかは諸説があるようですが、神西清、久米正雄、深田久弥が正解ではないかとおもいます。神西清宅と久米正雄宅は隣り合わせであり、深田久弥宅はその途中にあります。堀辰雄はまず最初に神西清宅と久米正雄宅を訪ねたと推測しています。その後、深田久弥宅を訪ねた後、深田久弥宅の門前で喀血します。そのまま深田久弥宅に駆け込んだようです。
 まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」から当時の書簡を探してみました。。
「二月八日(朝)附 向島より
佐藤恒子宛(はがき)
鎌倉ではすっかり僕は悪い子になってしまひさうです あんなに皆と約束しておいたのにまだ行かれないのです 川端さんや深田のところへも僕が行くからとことづてを頼んでおいたのに約束を果さないのできのふ神西に電話で叱られました 二三日うちには何とでもして参ります(二月八日朝)」

 堀辰雄は”川端さんや深田のところへも僕が行く”と書いていますので、この二人は訪ねるつもりだったようです。この件は神西清に言われていますので、当然彼も訪ねたとおもいます。久米正雄宅は神西清宅の隣ですので、同然訪ねたと推測しています。宛先の佐藤恒子さんは中里恒子さんと言った方かよく分かります。女性で初めて芥川賞を受賞された方です。

左上の写真は鎌倉市二階堂861番地付近です。右側の生垣のところが久米正雄宅跡、正面やや左の木造家屋のところが神西清宅跡です。二階堂861番地は久米正雄宅跡の番地です。すぐ隣です。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「鎌倉深田久弥宅跡」
<鎌倉 深田久弥宅>  2011年2月6日 修正
 堀辰雄は神西清宅を退出して、深田久弥宅(神西清宅からは約500m)を訪ねた後、深田久弥宅門前で喀血します。堀辰雄が深田久弥宅で療養したのはよく分かります。
 この件に関しては北畠八穂さん(深田久弥の最初の奥さん)が「透きとおった人々」の”立原道造”で書いています。
「…立原さんは、堀さんが、長い病床の私を見舞って帰る門のところで急に病気が出て、うちの離れで、動かせる容態になるまで療養したとき、堀さんを見舞いにきたのでした。…」
 実際に堀辰雄が倒れた場所にいた人が書いていますので、正確だとおもいます。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」から、喀血後に婚約者の加藤多恵子さん宛に投函した書簡です。
「二月十六日 鎌倉深田方より
加藤多恵子宛(封書)
きのふは嬉しかったよ 君の顔を見たので急に元気になった もう一週間位もすれば起きられるだらう まあ、それからどうやって静養するかが問題だが、こんど君の来たときにでもゆっくり君と相談しょう 君も何か、君にも安心できるやうな静養法を僕のために考へておいてくれたまへ
       ×
それから大へんなお願ひだが、僕は「文学界」の四月号に軽井澤の随筆みたいなものを書く約束してゐたのだが、かうなつちゃちよっと書けない 僕は困ってゐるんだがこの冬軽井澤から君と恩地さんにあげた手紙があるのを思ひ出した …」

 婚約者の加藤多恵子さんが鎌倉市二階堂の深田久弥宅宛にお見舞いに訪ねたようです。これで堀辰雄が深田久弥宅で静養していたことがわかります。

写真は現在の金沢鎌倉線 歌の橋手前で、左側の手前から二軒分が深田久弥宅跡です。深田久弥宅については昭和7年9月から二階堂91番地鎌倉宮(大塔宮)前で下記の地図では@)、昭和8年頃に”二階堂 歌の橋手前”に転居しています(下記の地図ではA)。昭和8年以降の深田久弥宅の番地は雪の下559番地(電話番号簿で確認)ですが、この地番は飛び地で、現在の二階堂10番地になります。昭和17年版の鎌倉市火保図にて最終確認をしていますので間違いないとおもいます(現在の地図と火保図を重ねた地図を掲載しておきます)。

「額田病院」
<鎌倉 額田病院>
 堀辰雄は深田久弥宅で療養後、鎌倉額田病院に入院します。喀血がそうとう酷くて深田久弥宅から動けなかったとおもいます。少し動けるようになって、近くの鎌倉額田病院に入院します。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」から鎌倉額田病院発の昭和13年2〜3月当時の書簡を探してみました。
「三月二十一日(夕)附 鎌倉額田病院より
神西清宛(はがき)
二十三日午後一時頃退院に決めた 一先づ向島へかへり、四五日してから荻窪に移るつもり 矢野さんと多恵子さんが来てくれる筈故、どうぞ御心配なく(只保証金の領収書そちらにあるのだったら速達ででも迭ってくれないか)(例の金はいつでもいい)…」

 昭和13年3月23日の退院予定ですから、一ヶ月以上鎌倉にいたことになります。相当重傷だったのでしょう。ただ、4月には室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚しなければなりません。なんとしても病気を治し、元気にならなければなりませんでした。

写真は現在の鎌倉額田病院です。建物は綺麗に建て直されていました。場所は昔のままです。

「山下三郎の別荘」
<山下三郎の別荘>
 堀辰雄は昭和13年4月、室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚します。2月に喀血したので体調は万全ではないままでした。この年の夏は軽井澤で過ごし、秋口から逗子桜山切通坂下の山下三郎の別邸にしばらく滞在します。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」からです。
「十月二十日 逗子町櫻山魚幸隣より
神西清宛(はがき)
きのふこっちへ来た すぐ前が海だ(川を隔てた向うが養神亭) まだ荷物は乗ないし疲れたのでけふは一日寝る、そのうち行く、(二十二、三日は用があって上京)僕のところは海岸通り、葉山行バス、切通坂下下車、魚幸といふ魚屋の右隣の洋館。…」

 上記に書かれている”山下三郎氏の別邸”とは山下汽船創業者である山下亀三郎氏の別邸のことです。山下亀三郎氏には息子さんが三人おり、次男の方が山下三郎氏です(山下三郎氏は戦後、山下汽船の社長になります。三男は山下波郎さんで、堀辰雄全集4の月報で少し書かれています)。山下三郎氏は文学青年で「文學界」等にも書かれており、川端康成氏に絶賛されています。山下三郎氏が書かれた昭和13年4月発刊の「室内」は堀辰雄が装丁しています。又、この別邸は石原兄弟の父 石原潔氏が山下汽船勤務の時の昭和18年にこの別邸に住まわれていたそうです。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」からです。
「三月一日 逗子町櫻山より
津村信夫宛(はがき)
今 山下家から手紙がきて、なんでも重役に病人ができてこちらの家で静養させたいから、出来れば家を明けてくれといってきたので、僕も早くどこかへ引越さなければならない。例の茅野さんの別荘、借して貫へるかしら。少々催促がましいが、こんな事情になったので、至急お知らせ下さい。頼みます。」

 まあ、偉い人はいろいろあるようです。山下汽船社長の別邸ですから、いろいろ使われるわけです。

写真は逗子の渚橋西詰めから川岸を撮影したものです。山下三郎の別荘は正面やや左側にありました。現在の「なぎさばし珈琲(昔のデニーズ)」のところです。

「鎌倉小町の笠原宅跡」
<鎌倉小町の笠原宅二階>
 堀辰雄は六ヶ月滞在した逗子の山下三郎の別荘を追い出されて、鎌倉の小町に小さな部屋を借ります。鎌倉駅からは近くて便利なところです。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」から当時の書簡を探してみました。
「三月二十五日附 鎌倉町小町より
野村英夫宛(はがき)
きのふはおやぢの百ケ日だったので一寸お返しをしておいたのです こんどは間借暮らしだがなかなか洒落れてゐていい そのうち遊びに来給へ 立原のところへも見舞に往きたくともなかなか往かれない


 この三月二十五日附 野村英夫宛はがきには鎌倉の地図が書かれていました。鎌倉駅から小町の笠原宅までの地図です。 堀辰雄の義理の父が昭和13年12月に亡くなっています(上記に百ケ日と書かれている)。
四月三日附 鎌倉町小町より
 葛巻義敏宛(封書)
本当に御無沙汰をしてしまった ときどきちょっと上京をしてもいろいろな用事を足すだけで非常に疲れてしまってなかなか人を訪ねられない 先月中旬逗子の家があんまり海岸で身體によくないといはれて 一先づ鎌倉に来た 好い家がなくつて二階を間借してゐる始末 ── この冬ずつと僕も喘息気味で咳ばかりしてゐて苦しくつてめつたに外出も出来ない 二十九日に立原君が死んだ 本当にかはいさうな事をした あんなに悪くならないうちにもう少し自分の病気に自覚できたらと思ったが、なかなかそれが出来ないんだね 旅行に出かける前日も逗子の僕達のところに来てくれたがとてもそのときは元気がよかった…」

 立原道造が死去したのが昭和14年3月29日ですから、死去してから5日後の書簡です。この四月三日附 葛巻義敏宛書簡にも鎌倉の地図が書かれていました。鎌倉駅から小町の笠原宅までの地図です。

写真は現在の鎌倉市小町の笠原宅跡です。右側から2軒目です。建物は建て直されていますので、昔の面影はありません。

 「堀辰雄を歩く」は続きます!!


堀辰雄の鎌倉地図 -2-


堀辰雄の鎌倉地図 -1-

堀辰雄の逗子地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る