<鎌倉 神西清宅>
堀辰雄は昭和13年2月、鎌倉の先輩や友人達を訪ねるために出かけます。誰の所へ出かけたかは諸説があるようですが、神西清、久米正雄、深田久弥が正解ではないかとおもいます。神西清宅と久米正雄宅は隣り合わせであり、深田久弥宅はその途中にあります。堀辰雄はまず最初に神西清宅と久米正雄宅を訪ねたと推測しています。その後、深田久弥宅を訪ねた後、深田久弥宅の門前で喀血します。そのまま深田久弥宅に駆け込んだようです。
まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」から当時の書簡を探してみました。。
「二月八日(朝)附 向島より
佐藤恒子宛(はがき)
鎌倉ではすっかり僕は悪い子になってしまひさうです あんなに皆と約束しておいたのにまだ行かれないのです 川端さんや深田のところへも僕が行くからとことづてを頼んでおいたのに約束を果さないのできのふ神西に電話で叱られました 二三日うちには何とでもして参ります(二月八日朝)」
堀辰雄は”川端さんや深田のところへも僕が行く”と書いていますので、この二人は訪ねるつもりだったようです。この件は神西清に言われていますので、当然彼も訪ねたとおもいます。久米正雄宅は神西清宅の隣ですので、同然訪ねたと推測しています。宛先の佐藤恒子さんは中里恒子さんと言った方かよく分かります。女性で初めて芥川賞を受賞された方です。
★左上の写真は鎌倉市二階堂861番地付近です。右側の生垣のところが久米正雄宅跡、正面やや左の木造家屋のところが神西清宅跡です。二階堂861番地は久米正雄宅跡の番地です。すぐ隣です。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953)
5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)