●堀辰雄の東京を歩く W  【成宗一丁目とお墓編】
    初版2011年3月5日   <V01L01> 暫定版

 「堀辰雄の東京を歩く」を引き続いて掲載しています。今回は「東京を歩く」最終回として「成宗一丁目とお墓」を歩いてみました。”成宗1丁目”は奥様の多恵子さんの実家であり、昭和15年、鎌倉から転居しています。”お墓”は上條家と堀家(実父のお墓と自身のお墓)を歩きます。




「成宗1丁目」
<成宗1丁目の加藤家>
 堀辰雄は昭和15年3月 静養していた鎌倉から東京に戻ります。昭和13年12月に養父が亡くなっているため向島には戻れず、奥様の実家のある杉並区成宗に戻ります。生田勉の協力を得て実家の庭に小さな家を建てます。
 その当時のことを多恵子さんは「来し方の記」の中で書いています。
「… 母は自分の父親が結核で、四十歳頃から時々血疾を出すようなことがあったが、七十五歳までながらえたので、世間一般の人たちのようにただいたずらに恐ろしい病気と怖れるようなことはなかった。私たちを自分の傍らに住まわせ、力になりたいと思ってくれたのだろう。杉並の母の家の庭に小さい家を建てることに話がきまった。それは昭和十五年の初め頃だったろうか。立原道造さんの友人、生田勉さんが相談に乗って下さった。全面的に自分の思うようにはいかなかったかもしれないが、余裕が出来たら建て増しをしたいなどと言いもした。私たちは新しい家が出来上がるまで、母の家に一しょに住むことにして、鎌倉を三月の末に引き上げてしまった。…」
 杉並区成宗は場所的には中央線の阿佐ヶ谷駅と荻窪駅の中間で、地下鉄の南阿佐谷駅が一番近いのですが、当時はまだ地下鉄は開通しておらず、都電の新宿から荻窪行の成宗停留所が近くにありました。国鉄の駅では一番近いと思われる阿佐ヶ谷駅から約1Km、徒歩で15分の距離です。体調が今一歩の堀辰雄には辛い距離だったかもしれません。
 直ぐ近くに住んでいた堀田善衛が「乱世文学者」で当時の堀辰雄について書いています。 
「…そしてまた、昭和十六、七年頃の自分をも思い出した。
 その頃、私は杉並区成宗の、堀辰雄氏の家のすぐ近所に住んでいた。堀氏の家の前には、バスの停留場があり、私が二階の窓からぼんやり通りを見ていると、屡々前記の諸君がバスから下りて来て堀氏の家へ入っていった。詩誌の 「四季」編輯上の用件か何かであったろうと思う。私は一度も声をかけたことがなかったが、実によく通って来るなあ、と思っていた。ということは反面、なんじゃいあいつらは、と思わぬこともなかった、ということである。その頃、彼らのどの一人に会っても、軽井沢乃至は追分、堀さん、についての話題が出ないことがなかった。
 私自身、散歩の途中で屡々出会い、いつとはなく挨拶をするようになり、一度だけ下駄ばきでお訪ねしたことがある。帰るさに玄関で、棒縞の質素な薄物を着られた夫人が、おやおや下駄で、と云われ、ええ、ついそこなんです、と答えた
ことを覚えている。…」。

 ”堀氏の家の前には、バスの停留場があり”と書いていますが、堀辰雄の家は路地を入った先で、バス停の前は本人の住んでいた所です。当時のバス停留所は”成宗一丁目”で、現在のバス停は”阿佐谷南三丁目”となります。

写真のJAのビルの手前の路地を入った先に奥様の実家がありました。まだご家族の方がお住まいのようなので直接の写真は控えさせて頂きました。(写真は昨年の写真で、現在はこの付近一帯がビルの工事中です)

生田勉宛の書簡です。
「 一月四日 鎌倉市小町より   生田勉宛(封書)
太田君の原稿同封しました 大へんおくれてすみませんでした この間お話しした荻窪の家の庭に小さな家を建てて貰ふこと漸く確定いたしました、二階屋で、下は六畳(座敷)四畳半(茶の間)、上は六畳(板の間、書斎)、大體圖のやうな設計の方針でゆきたいのです 二階の書斎を何んとか面白くたでたいのですが、いつかお暇なときにでも好い智慧をお借し下さい こないだ野村君たちに逢ひました。」

 生田勉宛書簡に同封された間取り図

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)


堀辰雄の阿佐ヶ谷地図



「円通寺と飛木稲荷」
<円通寺と飛木稲荷>
 母親と養父のお墓のある向島の円通寺を訪ねてみました。残念ながら上條家のお墓は無くなっていました。昭和30年代中頃まではあったようなのですが、いつの間にか無くなったようです。多恵子さんの依頼で、昭和35年に上條家のお墓から多摩霊園のお墓に分骨をされています。その後の上條家のお墓の永代供養はどうなったかは不明です。
 堀辰雄の「花を持てる女」からです。
「 私はその日はじめて妻をつれて亡き母の墓まいりに往った。
 円通寺というその古い寺のある請地町は、向島の私たちのうちからそう離れてもいないし、それにそこいらの場末の町々は私の小さい時からいろいろと馴染のあるところなので、一度ぐらいはそういうところも妻に見せておこうと思って、寺まで曳舟通りを歩いていってみることにした。私たちのうちを出て、源森川に添ってしばらく往くと、やがて曳舟通りに出る。それからその掘割に添いながら、北に向うと、庚申塚橋とか、小梅橋とか、七本松橋とか、そういうなつかしい名まえをもった木の橋がいくつも私たちの目のまえに現れては消える。…
… 地蔵橋という古い木の橋を私たちは渡って、向う側の狭い横町へはいって往った。すぐもうそこには左がわに飛木稲荷(とびきいなり)の枯れて葉を失った銀杏の古木が空にそびえ立っている。円通寺はその裏になっていて、墓地だけがその古い銀杏と道をへだてて右がわにある。黒いトタン塀の割れ目から大小さまざまな墓石を通行人の目に触れるがままに任せて。……。…」

 ”曳舟通り”は現在は”曳舟川通り”と呼ばれているようです。曳舟川は暗渠化されています。下記の地図を参照して下さい。

写真は現在の円通寺と飛木稲荷です。正面が円通寺で、左側が飛木稲荷です。お墓はこの後側にあったはずなので最初は探したのですが、残念ながら無くなっていました。


堀辰雄の墨田地図



「高徳寺」
<高徳寺>
 もう一つのお墓は実父のお墓です。堀家のお墓となるわけです。
 堀辰雄の「花を持てる女」からです。
「 … なんでも私のごく小さい時分、一度か二度だけ、母にどこか山の手のほうの、遠いお寺に墓まいりに連れられていった記憶がかすかにある。その寺の黒い門だけが妙に自分の記憶の底に残っている。それは或る奥ぶかい路地の突きあたりにあって、大きな樹かなんかがその門の傍に立っていた。幼い私は母につれられたまま、誰れの墓とも知らずに、一しょにそれを拝んで帰ってきた。母は別にそのときも私には何も言いきかせなかった。それがその生父の墓だったのではあるまいか。あのときの、いかにも山の手らしい、木立の多い、小ぢんまりとした寺はどこにあったのやら。……
…その寺は高徳寺といって、やはり青山にあった。静かな裏通りの、或る路地のつきあたりに、その黒い門を見いだしたとき、ああ、これだったのかと思った。門のかたわらで樒(しきみ)などをひさいでいる爺は、もう八十を越していそうなほどの老人で、それに聞いてみたら私の生父のことなどもよく覚えていそうな気がした。しかし私はなんにも聞かずに、ただ老爺の方にしばらく目を注いだきりで、そのままその小屋のまえを通り過ぎてしまった。…」

 高徳寺は青山通りから少し北に入った静閑なところにあります。向島の円通寺とは環境が全く違います。家の違いがそのままという感じです。”木立の多い、小ぢんまりとした寺”の雰囲気は残っていました。

写真が高徳寺の”奥深い路地”の入口です。堀家のお墓は残っていました。ただ、人が訪れている雰囲気は全くありませんでした。


堀辰雄の青山地図



「お墓」
<お墓>
 堀辰雄は昭和28年7月28日追分の自宅で亡くなります。堀辰雄は堀家のお墓に入らず、上條家からは分骨し、自身のお墓を別にしています。自身というよりは奥様の多恵子さんの意向だとおもわれます(当然事前には相談していたものとおもいます)。
 堀多恵子さんの「来し方の記」、からです。
「…堀家の菩提寺は青山の高徳寺であるが、なんの記憶もない両親の墓に入りたくないし、といって請地にある円通寺の上條の墓に入るわけにもゆくまいと言っていた。多摩墓地にある私の両親の墓参に行き、墓地内を歩いたその日、当時としては珍しい横長の低い墓を指して「ああいうお墓はいいね」と言ったのを私は覚えていた。後になって、福永武彦さんにその話をし、一しょにそれをさがしてもらった。あの迷路のような墓地内でかなり楽にその石碑を見つけたとき、私は奇跡みたいだと大げさに喜んだものだった。
 東京の葬式を芝の増上寺で行ったのは、高徳寺の本堂が戦火で焼失し、まだ復興していなかったので、その本山で行ったのだった。戒名はつけないでという私のかたくなな願いに神西さんはさぞ困惑されたことだったろうと思う。
 辰雄の墓碑は多摩墓地に建て、三回忌に納骨した。その五年後に、上條の両親の分骨を願い出、辰雄の墓に納めた。…」

 堀辰雄の葬儀は東京の芝増上寺で行われます。葬儀委員長は川端康成ですから凄いですね。

写真は多摩霊園にある堀辰雄のお墓です。なかなか大きくて立派です。やっぱり、戒名はありませんでした。


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 義務教育6年制 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 5月 田端523番地の室生犀星を訪ねる
8月 室生犀星に連れられて初めて軽井沢に滞在
9月 関東大震災、母が水死(50歳)
南葛飾本田村大字四ツ木278上條方に父と仮寓
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢の「つるや」に宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
21 3月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和元年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
22 4月 『驢馬』を創刊
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
24 1月 肋膜炎に罹り4月まで休学
昭和4年 1929 世界大恐慌 25 2月 「不器用な天使」を「文芸春秋」に掲載
3月 東京帝国大学卒業。卒論は「芥川龍之介論」
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 26 11月 「聖家族」を「改造」に発表
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
9月 立原道造に初めて合う
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
29 6月 軽井沢で矢野綾子と知り合う
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 46 7月 追分の新居に移る
昭和28年 1953   48 7月28日 死去
     30日 自宅で仮葬儀
6月 3日 芝増上寺で告別式(葬儀委員長 川端康成)
昭和30年 1955     5月 多磨霊園に納骨