<成宗1丁目の加藤家>
堀辰雄は昭和15年3月 静養していた鎌倉から東京に戻ります。昭和13年12月に養父が亡くなっているため向島には戻れず、奥様の実家のある杉並区成宗に戻ります。生田勉の協力を得て実家の庭に小さな家を建てます。
その当時のことを多恵子さんは「来し方の記」の中で書いています。
「… 母は自分の父親が結核で、四十歳頃から時々血疾を出すようなことがあったが、七十五歳までながらえたので、世間一般の人たちのようにただいたずらに恐ろしい病気と怖れるようなことはなかった。私たちを自分の傍らに住まわせ、力になりたいと思ってくれたのだろう。杉並の母の家の庭に小さい家を建てることに話がきまった。それは昭和十五年の初め頃だったろうか。立原道造さんの友人、生田勉さんが相談に乗って下さった。全面的に自分の思うようにはいかなかったかもしれないが、余裕が出来たら建て増しをしたいなどと言いもした。私たちは新しい家が出来上がるまで、母の家に一しょに住むことにして、鎌倉を三月の末に引き上げてしまった。…」
杉並区成宗は場所的には中央線の阿佐ヶ谷駅と荻窪駅の中間で、地下鉄の南阿佐谷駅が一番近いのですが、当時はまだ地下鉄は開通しておらず、都電の新宿から荻窪行の成宗停留所が近くにありました。国鉄の駅では一番近いと思われる阿佐ヶ谷駅から約1Km、徒歩で15分の距離です。体調が今一歩の堀辰雄には辛い距離だったかもしれません。
直ぐ近くに住んでいた堀田善衛が「乱世文学者」で当時の堀辰雄について書いています。
「…そしてまた、昭和十六、七年頃の自分をも思い出した。
その頃、私は杉並区成宗の、堀辰雄氏の家のすぐ近所に住んでいた。堀氏の家の前には、バスの停留場があり、私が二階の窓からぼんやり通りを見ていると、屡々前記の諸君がバスから下りて来て堀氏の家へ入っていった。詩誌の 「四季」編輯上の用件か何かであったろうと思う。私は一度も声をかけたことがなかったが、実によく通って来るなあ、と思っていた。ということは反面、なんじゃいあいつらは、と思わぬこともなかった、ということである。その頃、彼らのどの一人に会っても、軽井沢乃至は追分、堀さん、についての話題が出ないことがなかった。
私自身、散歩の途中で屡々出会い、いつとはなく挨拶をするようになり、一度だけ下駄ばきでお訪ねしたことがある。帰るさに玄関で、棒縞の質素な薄物を着られた夫人が、おやおや下駄で、と云われ、ええ、ついそこなんです、と答えた
ことを覚えている。…」。
”堀氏の家の前には、バスの停留場があり”と書いていますが、堀辰雄の家は路地を入った先で、バス停の前は本人の住んでいた所です。当時のバス停留所は”成宗一丁目”で、現在のバス停は”阿佐谷南三丁目”となります。
★写真のJAのビルの手前の路地を入った先に奥様の実家がありました。まだご家族の方がお住まいのようなので直接の写真は控えさせて頂きました。(写真は昨年の写真で、現在はこの付近一帯がビルの工事中です)
生田勉宛の書簡です。
「 一月四日 鎌倉市小町より 生田勉宛(封書)
太田君の原稿同封しました 大へんおくれてすみませんでした この間お話しした荻窪の家の庭に小さな家を建てて貰ふこと漸く確定いたしました、二階屋で、下は六畳(座敷)四畳半(茶の間)、上は六畳(板の間、書斎)、大體圖のやうな設計の方針でゆきたいのです 二階の書斎を何んとか面白くたでたいのですが、いつかお暇なときにでも好い智慧をお借し下さい こないだ野村君たちに逢ひました。」
生田勉宛書簡に同封された間取り図
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)