<府立第三中学校>
大正6年4月、堀辰雄は東京府立第三中学校に入学します。自宅から一番近い公立の中学校でした。芥川龍之介の後輩になります。この頃の話については同級生の平木二六が「若き日の堀辰雄」として、新潮社版「堀辰雄全集」の月報の中で書いています。
「 中学時代の堀君は、大柄で、みずみずしい感じのする少年だった。ゆたかな両頬に、いつもしずかな明るい微笑を湛えていたが、笑うと、大きなえくぼの出来るのが、ひどく印象的だった。
そのころ、ぼくらはみんな、野暮な黒の小倉服を着ていた。しかし、堀君はお母さんの心づくしの別仕立のヘルの服を一着に及んでいた。煙の立つような濃紺色の服をまとった堀君の風貌は、水際立った美少年ぶりで、蛮カラな学友たちの間では異様に目立つ存在だった。ある蛮友は、堀君に「お嬢さん」というニックネームを奉った。
芥川さんを先輩にもつぼくらの中学は、文学もさかんで、上級に吉田瑛二、守随憲治等があり、校友会雑誌にも、白樺風のエッセイや、新思潮好みの小説がずらりと並んでいたが、そのころの堀君は、数学に興味をもっていて、まだ文芸の世界へは近づいて来なかったようだ。…」。
低学年の頃は成績は其程でもなかったようですが、高学年になるにつれて、成績が上がっていったようです。その頃の中学校は5年制でしたが、成績が優秀ならば4年終了で高等学校に進学できました。当然、堀辰雄も4年終了で第一高等学校に進学しています。当時の中学校の学費は年間150円ほども掛かっており、親の負担は大変なものでした。(小学校の教師の初任給が40〜50円位)
★写真は現在の都立両国高等学校です。昔の府立第三中学校です。建て直されていますが、場所は変わっていません。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)