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●堀辰雄の東京を歩く U
    初版2010年7月3日
    二版2010年7月19日  <V01L03> 四ツ木の写真を入替

 「堀辰雄の東京を歩く」を引き続いて掲載します。「太宰治の津軽を歩く」と交互に掲載しています。今回は堀辰雄の府立第三中学校から第一高等学校、東京帝国大学入学までです。芥川龍之介と全く同じ、超エリートコースです。第一高等学校時代には室生犀星、芥川龍之介と親しくなります。




「都立両国高等学校」
<府立第三中学校>
 大正6年4月、堀辰雄は東京府立第三中学校に入学します。自宅から一番近い公立の中学校でした。芥川龍之介の後輩になります。この頃の話については同級生の平木二六が「若き日の堀辰雄」として、新潮社版「堀辰雄全集」の月報の中で書いています。 
「 中学時代の堀君は、大柄で、みずみずしい感じのする少年だった。ゆたかな両頬に、いつもしずかな明るい微笑を湛えていたが、笑うと、大きなえくぼの出来るのが、ひどく印象的だった。
 そのころ、ぼくらはみんな、野暮な黒の小倉服を着ていた。しかし、堀君はお母さんの心づくしの別仕立のヘルの服を一着に及んでいた。煙の立つような濃紺色の服をまとった堀君の風貌は、水際立った美少年ぶりで、蛮カラな学友たちの間では異様に目立つ存在だった。ある蛮友は、堀君に「お嬢さん」というニックネームを奉った。
 芥川さんを先輩にもつぼくらの中学は、文学もさかんで、上級に吉田瑛二、守随憲治等があり、校友会雑誌にも、白樺風のエッセイや、新思潮好みの小説がずらりと並んでいたが、そのころの堀君は、数学に興味をもっていて、まだ文芸の世界へは近づいて来なかったようだ。…」。

 低学年の頃は成績は其程でもなかったようですが、高学年になるにつれて、成績が上がっていったようです。その頃の中学校は5年制でしたが、成績が優秀ならば4年終了で高等学校に進学できました。当然、堀辰雄も4年終了で第一高等学校に進学しています。当時の中学校の学費は年間150円ほども掛かっており、親の負担は大変なものでした。(小学校の教師の初任給が40〜50円位)

写真は現在の都立両国高等学校です。昔の府立第三中学校です。建て直されていますが、場所は変わっていません。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「東京大学農学部正門」
<第一高等学校>
 大正10年4月、堀辰雄は第一高等学校理科乙類(独語)に入学します。理科乙類(独語)ですから、理工系で、医者になるつもりだったのではないかとともいます。平木二六の「若き日の堀辰雄」からです。
「 …一高に入ってからの堀君は、小梅の自宅から通うのが億劫だったのであろう、最初は寮生活をしていたが、まもなく田、端の坂の中途にある紅葉館という旅館に下宿するようになった。一高ではなんでも中寮の二番室にいたと思う。ぼくはそこで神西清君とも知合い、三人でしばしば白十字や青木堂の二階にコーヒーなどをのみに行った記憶がある。……」
 堀辰雄は当初寮生活を始めます。芥川龍之介も寮生活だったので同じですね。芥川龍之介の寮でのお話としては、食堂で、”インク瓶と間違えて醤油の瓶を部屋に持って帰った話”が有名です。

写真は現在の東京大学農学部正門です。昭和10年には東京帝大農学部と用地を交換し、駒場に移転しています。上記にかかれている”白十字”は現在の本郷郵便局の左端、”青木堂”は本郷五丁目の東大側、医学書院付近です。

「田端五二三番地」
<室生犀星宅>
 小川和佑の「堀辰雄 その愛と死」によると、辰雄の母志氣が気を利かして、第三中学校の校長広瀬雄に頼み、室生犀星を紹介して貰ったようです。母親に付き添われて田端の室生犀星宅訪ねています。平木二六の「若き日の堀辰雄」からです。
「 … 話がすこし溯るが、当時田端の室生さんの隣家に広瀬雄という人がいた。広瀬先生は府立三中の校長でぼくらの旧師であったが、ある日堀君をつれて宝生さんを訪れた。それから堀君と室生さんの交わりが始まり、室生さんの紹介で芥川さんに親近するようになった。大正十一年秋のことである。
 小説を書出す前の一時期、堀君は学業の余暇にもっぱら詩を作り、ジャムやコクトオの詩を翻訳した。それは芥川さんが、抒情詩は若い時でないと書けない、先ず小説よりも詩を書くこと、海外の作家は一冊の詩集を出して、それから散文の世界へ入って行く傾向がある、これがまともな行き方だと言った。堀君は自己の天分にしたがって、素直にこの教訓を実践したのだと思う。……」

 上記には、”大正11年のことである。”と書かれていますが、前後関係からと、室生犀星の年譜等を参照すると、大正12年5月のことのようです。

写真の少し先、右側が田端523番地になります。もう少し詳細に言うと、この路地を入って次の右側に曲がる路地の手前、二軒目です。現地には記念碑がありますから直ぐに分かります。

「本田村大字四ツ木278付近」
<四ツ木二七八 上條方>
  2010年7月19日 写真を入替
 大正12年9月1日、午前11時58分、関東大震災が起こります。詳細はここでは記載しませんが、辰雄の母志氣が亡くなります。平木二六の「若き日の堀辰雄」からです。
「…関東大震災は、そのような優しい愛情にはぐくまれた堀君に、人生に於て最初で最大の悲劇を味わわせた。それは彼の優しいお母さんが亡くなったことだった。彼の精神の内部には、家系に対する苦悩や懐疑の影が濃くなった。彼は旅を愛するようになり、しばしば東京を後にして信州の地に書斎を移した。。…」
 地震後、養父上條松吉と堀辰雄は一時避難で、松吉の兄の家に間借りします。その住所に芥川龍之介から手紙が届いています。
「 芥川龍之介より
十一月十八日附 市外田端四三五より 府下南葛飾郡大字四つ木二七八、上條様方宛(封書)
 冠省 原稿用紙で失禮します 詩二篇拝見しました あなたの芸術的心境はよくわかります或はあなたと合っただけではわからぬもの迄わかったかも知れません あなたの捉へ得たものをはなさずに、そのままずんずんお進みなさい(但しわたしは詩人ぢやありません。又詩のわからぬ人間たることを公言してゐるものであります。……」

 堀辰雄と養父上條松吉が避難した住所は”府下南葛飾郡大字四つ木二七八”です。

写真は当時の住所で、府下南葛飾郡大字四つ木二七八付近です。現在の住所で葛飾区四ツ木三丁目12番付近です。当時と一番違うのは荒川放水路が出来たことで、そのためだけではないのですが、付近の地番も合筆されたりして複雑になっています。詳細な場所は調査不足です。

「田端三八番地」
<紅葉館>
 堀辰雄が田端で下宿した”紅葉館”について、この下宿の名前が登場するのは、私が調べた限りでは、平木二六の「若き日の堀辰雄」だけです。
「…一高に入ってからの堀君は、小梅の自宅から通うのが億劫だったのであろう、最初は寮生活をしていたが、まもなく田、端の坂の中途にある紅葉館という旅館に下宿するようになった。一高ではなんでも中寮の二番室にいたと思う。ぼくはそこで神西清君とも知合い、三人でしばしば白十字や青木堂の二階にコーヒーなどをのみに行った記憶がある。…」
 同級生の平木二六が書いていますので、間違いはないとおもうのですが、書簡等にはこの住所は出てきません。

写真正面の左側が田端38番地です。紅葉館は左側にあったとおもわれます。右側先に見えているお寺は子規のお墓がある大龍寺です。

「田端百四二番地」
<大盛館>
 もう一軒、堀辰雄の田端での下宿の名前が登場しています。室生犀星からの書簡です。大正13年3月3日、関東大震災で金沢に帰った室生犀星からの堀辰雄に宛てた手紙でした。
「室生犀星より
三月三日 金澤市川岸町十二より 東京市外田端一四二、大盛館宛(封書)
 「凍て返る日ごとに垣の破れかな」は君の秀作だらう、帆前船もちょっといい。
 くりしまのを一本だけ見た。あれでは日本のリリアン・ギッシュにはなれない。形はいいが、ああいふデリカシイは好かない。
 けふはこちらも春めいて、二階で日和遊びをしてゐる。植木一鉢を置いてな。
  雪のとなり家はカナリヤの謦
  藪の中の一町つづき残る雪
    三月雛の日                           犀  星
  辰  雄  君」

 この宛先の住所が、”東京市外田端一四二、大盛館宛”です。堀辰雄が大盛館に一瞬でも下宿していたのは間違いないようです。上記の”くりしま”とは”栗島すみ子”のことで、その群を抜いた美貌と舞踊で磨かれた立ち振る舞いで、日本を代表する映画女優です。リリアン・ギッシュはアメリカのサイレント時代の悲劇映画には欠かせない名女優です。室生犀星が見た映画は「船頭小唄」か「自活する女」のどちらがだとおもいます。(ウイキベディア参照)

 紅葉館と大盛館に下宿した時期については、詳細は不明です。関東大震災の後、四ツ木に避難していますが、大正13年4月に新小梅町に家が建て直されるまでの間の書簡を見てみると、第一高等学校の寮、大盛館等の住所が見受けられます。堀辰雄は一時四ツ木に避難しますが、その後、新小梅町に家が建て直されるまでの期間、第一高等学校の寮や紅葉館、大盛館等の下宿を転々としていたのではないかと推測しています。
 
写真の左側付近に「大盛館」がありました。戦後は”滝の湯”という風呂屋だったとおもいます。現在の住所で田端三丁目14−16です。

ブラシュアップをする予定です。


堀辰雄の本郷地図


堀辰雄の田端地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 義務教育6年制 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 5月 田端523番地の室生犀星を訪ねる
8月 室生犀星に連れられて初めて軽井沢に滞在
9月 関東大震災、母が水死(50歳)
南葛飾本田村大字四ツ木278上條方に父と仮寓
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
21 3月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在



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