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●堀辰雄の東京を歩く T
    初版2010年5月8日  <V01L02> 暫定版

 『堀辰雄の「旅の絵」を歩く』に引き続いて、「堀辰雄の東京を歩く」を掲載します。東京から少し離れていましたので、やっと東京に戻って着たという感じです。堀辰雄は明治37年、東京市麹町区平河町で生まれます。幼年時代は複雑な家庭環境の中で育ちます。




「墨東の堀辰雄」
<「墨東の堀辰雄」>
 堀辰雄の生誕については、自身が書いた「幼年時代」とその追補版である「花をもてる女」があるのですが、住所等の記載が無いため、詳しく書かれている本を探しました。堀辰雄の研究者である谷田昌平さんが「墨東の堀辰雄」として、生い立ちを詳しく書かれていましたので、この本を参考にして墨東(向島)を少し歩いてみました。この「墨東の堀辰雄」を読めば”向島時代”の堀辰雄が全て分かりそうです。先ずは、「墨東の堀辰雄」のからです(以下で、墨東の墨の字が第三水準なので、墨を使いますがご容赦ください)。
「…そういう翳りのある境遇に生まれ育った幼少年期を素材にして、小説「幼年時代」を雑誌「むらさき」に昭和十三年九月号から執筆し始めたが、その年十二月十五日に父と信じていた上條松吉が亡くなった。…
…そして叔母さんから聞いた話によって、忽々の間に「幼年時代」初出稿に手を入れた改訂稿を、作品集『燃ゆる煩』(昭和十四年五月、新潮社刊)に収め、その一二年後の昭和十七年には、更に作品全体にわたって削除、改稿の筆を加えた定稿を完成した。そして叔母さんからは再度話を聞いたと思われるが、それらの話にょって自分の出生、生い立ちや、母のこと、実父のこと、養父松吉のこと等を感慨をこめて書き、青磁社版『幼年時代』(昭和十七年八月刊)に収めた定稿「幼年時代」の「拾遺」とした作品が「花を持てる女」(「文学界」昭和十七年八月号)である。…」。

 「幼年時代」については、新潮文庫で出版されていたのですが、現在は絶版になっています。図書館で堀辰雄全集を読むか、古本で購入するしかないという状況です。「花を持てる女」も同じ状況です。インターネットの「青空文庫」で読まれるのが一番良いとおもいます。

写真は谷田昌平さんの「墨東の堀辰雄」です。彌生書房の1997年出版です。よく調べられていますので、尊敬します。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「平河町森タワービル」
<生誕の地>
 このあたりのお話は谷田昌平さんの「墨東の堀辰雄」の独壇場です。堀多恵子さんと墨田区役所に訪ねたりして詳細に調べられています。年譜としてはもっとも信頼のおけるものとなっています。まずは堀辰雄の「花を持てる女」からです。
「 …私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。
 広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋しい夫婦なかだった。
 そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。―― ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。……」

 堀辰雄は明治37年(1904)の12月28日、麹町区平河町5−5に、父、堀浜之助、母、志氣の長男として生まれます。父親の堀浜之助は広島出身で、正妻に子供はなく、辰雄を正妻との子供として届けています(自動的に跡取りとなります)。この辺りのお話は、複雑なので、谷田昌平さんの「墨東の堀辰雄」を読んで下さい。

写真の平河町森タワービルが現在の千代田区平河町16付近です。麹町区平河町5−5は正確に場所を特定すると、写真の平河町森タワービルの西側辺りになります(裏側)。当時としてもかなり良い所に住んでいたとおもいます。

「向島小梅町」
<向島小梅町>
 母志氣は2年余りで辰雄を連れて平河町の堀家を出ます。居たたまれなくなったのでしょう。二人は向島の母志氣の妹の嫁ぎ先、横大路家に身を寄せます。堀辰雄の「花を持てる女」からです。
「 …とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことである。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫さんという人が世話になっていた。その薫さんが私の母贔屓で、すべての事情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先(ま)ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦 ―― それがいまの田端のおじさんとおばさんで ―― のところだった。……」
 ここで登場する”小梅の尼寺”は向島三丁目11の円通寺です。この付近に横大路家があったとおもいます。

写真の左側、少し先に円通寺があります。ですから、この付近に横大路家があったとおもわれます(詳細の場所は不明です)。この道を真っ直ぐすすむと、三囲神社の左側になります。

「向島二丁目」
<土手下の小さな家>
 辰雄と母志氣は、平河町の堀家を出た後、横大路家にやっかいになりますが、その後、土手下の家に移ります。堀辰雄の「花を持てる女」からです。
「…私の母は、それまで弟たちのところにいたおばあさんに来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこやの店をひらいた。…」
 堀辰雄の「幼年時代」も参照してみます。
「 …私は四つか五つの時分まで、父というものを知らずに、或る土手下の小さな家で、母とおばあさんの手だけで育てられた。しかし、その土手下の小さな家については、私は殆ど何んの記憶ももっていない。
 唯一つ、こういう記憶だけが私には妙にはっきりと残っている。――或る晩、母が私を背中におぶって、土手の上に出た。そこには人々が集って、空を眺(なが)めていた。母が言った。
「ほら、花火だよ、綺麗だねえ……」みんなの眺めている空の一角に、ときどき目のさめるような美しい光が蜘蛛手にぱあっと弾けては、又ぱあっと消えてゆくのを見ながら、私はわけも分からずに母の腕のなかで小躍りしていた。……」

 「幼年時代」の「拾遺」とした作品が「花を持てる女」ですから、「花を持てる女」がより正確になっているはずです。

写真は右が三囲神社、左が小梅小学校、正面は隅田川土手になります。この先の隅田川土手下付近に”たばこや”があったのではないかと推測しています。ただ水戸様からは少し遠くなります。

「向島須崎町」
<向島須崎町>
 土手下の”たばこや”では生活が大変だったのでしょう、母志氣はこの後、彫金師上條松吉と結婚します。堀辰雄の「幼年時代」からです。
「…私の意識上の人生は、突然私の父があらわれて、そんな佗住いをしていた母や私を迎えることになった、曳舟通りに近い、或る狭い路地の奥の、新しい家のなかでようやく始っている。そこに私達は五年ばかり住まっていたけれど、その家のことも、ほんの切れ切れにしか、いまの私には思い出せない。が、その頃の事は、その家ばかりではなく、私に思い出されるすべてのものはいずれも切れ切れなものとして、そしてそのために反ってその局所局所は一層鮮かに、それらを取りかこんだ曖昧糢糊(あいまいもこ)とした背景から浮み上がって来るのである。…」
 父となった彫金師上條松吉は、弟子も使っており、それなりの収入もあったようです。

写真正面が”すみだ福祉保健センター”で、この建物の右側の道を入った先の付近ではないかとおもっています。当時の地番で本所区仲之郷町三十二番地、現在の住居表示で向島三丁目36番1〜6付近とおもわれます。

「墨田公園正面」
<水戸屋敷の裏の新小梅町>
 明治43年8月の大洪水で小梅町辺りは、すっかり水につかり、母子は一時、神田連雀町に避難します。その後、本所区新小梅町2番地に引っ越します。堀辰雄の「幼年時代」からです。
「…その私達の新しく引越していった家は、或る華族の大きな屋敷の裏になっていた。おなじ向島のうちだったが、こっちはずっと土地が高まっていたので、それほど水害の禍いも受けずにすんだらしかった。前の家ほど庭はなかったが、町内は品のいい、しもた家ばかりだったから、ずっと物静かだった。
 引越した当時は、私の家の裏手はまだ一めんの芒原になっていて、大きな溝を隔てて、すぐその向うが華族のお屋敷になっていた。こちら側には低い生籬がめぐらされているだけだったので、自分より身丈の高い芒の中を掻き分けて、その溝の縁まで行くと、立木の多い、芝生や池などのある、美しいお屋敷のなかは殆ど手にとるように見えるのだった。…」

 本所区新小梅町2番地は水戸様(水戸徳川家の下屋敷)の真ん前です。関東大震災までは水戸家の所有でしたので、移転した当時は水戸様の真ん前だったわけです。関東大震災以降は墨田公園になります。
 
写真正面が本所区新小梅町2番地です。墨田公園内に堀辰雄の記念碑が建てられています。写真にも小さく写っています。現在の住居表示で墨田区向島一丁目7−6になります。

「本所高等学校」
<牛島尋常小学校>
 堀辰雄は明治43年8月の大洪水後に幼稚園に通い始めます。通った幼稚園は私立東橋幼稚園(現在の小梅小学校の所)でしたが、長く続かず、途中で通うのを止めてしまいます。翌年の明治44年4月、牛島尋常小学校に入学します。堀辰雄の「幼年時代」からです。
「…その小学校は、私の家からはかなり遠かった。それにまだ、その町へ引越してから一年も立つか立たないうちだったので、同じ年頃の子とはあまり知合のなかった私は、その町内から五六人ずつ連れ立っていく男の子や女の子たちとは別に、いつまでも母に伴われて登校していた。そうして学校へ着いてからも、他の見知らぬ生徒たちの間に一人ぼっちに取残されることを怖れ、授業の終るまで、母に教室のそとで待っていて貰った。最初のうちは、そういう生徒に附き添って来ていた母や姉たちが他にもあったけれど、だんだんその数が減り、しまいには私の母一人だけになった。…」
 新小梅町2番地からは”かなり遠かった”と書いています。距離で800m強ですから、子供の足で15分程度でしょうか、余り遠くありませんね、少し過保護に育てられたようです。

写真は現在の都立本所高等学校です。牛島学校跡の記念碑が建てられています。牛島尋常小学校は空襲で焼失し、戦後廃校になっています。その後、牛島尋常小学校跡地には都立本所高等学校が建てられます。

「堀辰雄を歩く」は続きます。


堀辰雄の向島地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 檀一雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 義務教育6年制 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
12月 養父上條松吉が死去
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在



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