<焼ける前の油屋>
堀辰雄は大正12年に初めて軽井沢を訪ねていますが、追分に滞在したのは昭和7年になります。昭和6年には富士見診療所に入院していますので、静養を兼ねた長期の滞在が目的だったとおもいます。今回は堀辰雄の追分での”住まい”を歩いてみました。
まずは「堀辰雄全集 別巻二」に掲載されている油屋当主 小川誠一郎氏の「追分と堀先生」からです。
「 堀先生を私の家に紹介されたのは室生犀星先生である。多分昭和七年夏で「堀という若い小説家を三週間位泊めてやってほしい」という様な手紙を戴いた。最も堀先生は此時初めて追分を知ったのではなく、大正十三年夏、芥川龍之介先生が軽井沢に避暑されて居て、その時連れられて三、四回程ドライヴの途時立寄られたことがある。その当時はまだ東大の学生で制服を着用していたが眉目秀麗の青年であった。
堀先生は追分の四季の中、晩秋から初冬に移る頃の野分の季節が大好きであった様だ。殊に先生が好んでいた、昔小姓の間といった部屋から南面に眺める八ツ岳、蓼科山の夕映え、浅間山麓の林道の落葉松並木等を愛好して、一日の中、散歩の時間には殆どこの道にかぎっていた。」
堀辰雄が軽井澤の旅館つるやで芥川龍之介に初めて合ったのは大正12年の夏です。ここでは昭和13年夏に芥川龍之介と一緒に油屋にきたと書かれています。芥川龍之介が自殺したのは昭和2年ですからその前年まで、たびたび堀辰雄は芥川龍之介に同道していたのではないでしょうか。
堀多恵子さんの「来し方の記 辰雄の思い出」にも油屋が出会いの場として書かれていました。
「… 線があったとか、なかったとか、よく人は言うが、私が堀辰雄と一しょになったのも、不思議な緑に結ばれたのだろう。
私は昭和十二年の夏、健康を害して、大学生の弟と一しょに信濃追分の脇本陣である油屋旅館に、都会の暑さを避けていた。その頃はまだ軽井沢町ではなく、北佐久郡西長倉村字追分という表示であったと思う。
油屋旅館には大学入試のため勉学中の学生が大勢いた。彼らは日中は静かに勉強し、夕食の前後、宿の前の道路でキャッチボールなどをしていた。その僅かな時が賑やかだった。畳数の広い部屋で、皆行儀よく座って食事をしたことを覚えている。その他には堀辰雄のように病弱のため療養している人たちもかなり多かった。…」
堀辰雄と堀多恵子さんは昭和12年夏に油屋で出会い、翌年結婚しています。出会いから結婚までかなり早いですね。
★左上の写真は昭和初期の追分町の絵はがきです。この絵はがきは堀辰雄が昭和9年7月27日に矢野綾子さんに宛てた絵はがきと同一のものです。新潮社の「新潮日本文学アルバム
堀辰雄」のP38に掲載されています。文面は
「昔、大名の泊った部屋にはじめて寝ました。三度、夜中に目をさましました。しかし、お化はまだ出ません。少し疲れているので今日は一日寝ます。明日から勉強します。寂しいから、お手紙を下さい。」。です。
この絵はがきに”矢印を書いて、「この家が油屋です」と示しています”。すこし幼稚な文章です。
写真の撮影場所は現在の堀辰雄文学記念館の前から西側を撮影したとおもわれます。ですから油屋は左側の木の先になります。もう少し油屋に近づいた絵はがきと、反対側から撮影した油屋の絵はがきも掲載しておきます。江戸時代の脇本陣
油屋の絵はがきもありましたので掲載します。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953)
5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)