●堀辰雄の追分を歩く
    初版2010年11月6日  <V01L02>  暫定版

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。今回は「堀辰雄の追分を歩く 」です。堀辰雄は大正12年に初めて軽井沢を訪ねていますが、追分に滞在したのは昭和7年になります。昭和6年には富士見診療所に入院していますので、静養を兼ねた長期の滞在が目的だったとおもいます。今回は堀辰雄の追分での”住まい”を歩いてみました。




「追分町絵はがき」
<焼ける前の油屋>
 堀辰雄は大正12年に初めて軽井沢を訪ねていますが、追分に滞在したのは昭和7年になります。昭和6年には富士見診療所に入院していますので、静養を兼ねた長期の滞在が目的だったとおもいます。今回は堀辰雄の追分での”住まい”を歩いてみました。
 まずは「堀辰雄全集 別巻二」に掲載されている油屋当主 小川誠一郎氏の「追分と堀先生」からです。
「 堀先生を私の家に紹介されたのは室生犀星先生である。多分昭和七年夏で「堀という若い小説家を三週間位泊めてやってほしい」という様な手紙を戴いた。最も堀先生は此時初めて追分を知ったのではなく、大正十三年夏、芥川龍之介先生が軽井沢に避暑されて居て、その時連れられて三、四回程ドライヴの途時立寄られたことがある。その当時はまだ東大の学生で制服を着用していたが眉目秀麗の青年であった。
 堀先生は追分の四季の中、晩秋から初冬に移る頃の野分の季節が大好きであった様だ。殊に先生が好んでいた、昔小姓の間といった部屋から南面に眺める八ツ岳、蓼科山の夕映え、浅間山麓の林道の落葉松並木等を愛好して、一日の中、散歩の時間には殆どこの道にかぎっていた。」

 堀辰雄が軽井澤の旅館つるやで芥川龍之介に初めて合ったのは大正12年の夏です。ここでは昭和13年夏に芥川龍之介と一緒に油屋にきたと書かれています。芥川龍之介が自殺したのは昭和2年ですからその前年まで、たびたび堀辰雄は芥川龍之介に同道していたのではないでしょうか。
 堀多恵子さんの「来し方の記 辰雄の思い出」にも油屋が出会いの場として書かれていました。
「… 線があったとか、なかったとか、よく人は言うが、私が堀辰雄と一しょになったのも、不思議な緑に結ばれたのだろう。
 私は昭和十二年の夏、健康を害して、大学生の弟と一しょに信濃追分の脇本陣である油屋旅館に、都会の暑さを避けていた。その頃はまだ軽井沢町ではなく、北佐久郡西長倉村字追分という表示であったと思う。
 油屋旅館には大学入試のため勉学中の学生が大勢いた。彼らは日中は静かに勉強し、夕食の前後、宿の前の道路でキャッチボールなどをしていた。その僅かな時が賑やかだった。畳数の広い部屋で、皆行儀よく座って食事をしたことを覚えている。その他には堀辰雄のように病弱のため療養している人たちもかなり多かった。…」

 堀辰雄と堀多恵子さんは昭和12年夏に油屋で出会い、翌年結婚しています。出会いから結婚までかなり早いですね。

左上の写真は昭和初期の追分町の絵はがきです。この絵はがきは堀辰雄が昭和9年7月27日に矢野綾子さんに宛てた絵はがきと同一のものです。新潮社の「新潮日本文学アルバム 堀辰雄」のP38に掲載されています。文面は
「昔、大名の泊った部屋にはじめて寝ました。三度、夜中に目をさましました。しかし、お化はまだ出ません。少し疲れているので今日は一日寝ます。明日から勉強します。寂しいから、お手紙を下さい。」。です。
 この絵はがきに”矢印を書いて、「この家が油屋です」と示しています”。すこし幼稚な文章です。
 写真の撮影場所は現在の堀辰雄文学記念館の前から西側を撮影したとおもわれます。ですから油屋は左側の木の先になります。もう少し油屋に近づいた絵はがきと、反対側から撮影した油屋の絵はがきも掲載しておきます。江戸時代の脇本陣 油屋の絵はがきもありましたので掲載します。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「現在の油屋」
<現在の油屋>
 油屋は昭和12年11月19日、隣家からの延焼で焼失します。この時に油屋に滞在していたのは立原道造なのですが、「立原道造の追分」については別途掲載します。堀辰雄は、たまたま軽井澤の川端別荘を訪ねており、火事に遭遇しなくてすんでいます。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」から当時の書簡を探してみました。
「十一月二十日附 軽井澤藤屋気付
佐藤恒子宛(はがき)
きのふ油屋全焼、丁度僕は川端さんのところへ遊びにいってゐる間だったので、何もかも焼いてしまひました あなたにこちらからお送りしようと思って本も二三冊持ってきてゐましたがそれも次になりました その他いろいろなものも ── もつと気もちが落ちついてから又お便りします
(二十日)
十一月二十二日附 軽井澤つるやより
佐藤恒子宛(封書)
十九日付のお手紙うれしく拝見しました 僕は十五日にまたこちらに来たのです 東京でいただいたお手紙の返事もこちらでゆっくり書き、それと一しょに僕の本も二三冊お造りしたいと思ってわざわざこちらに持って来てゐたのに、二十日までといふ約束だつた原稿を都合でどうしても十七日一ばいに書いてくれと頼まれ、爽勿々それに取りかかつて十八日に仕上げ、軽井澤まで速達で出しにいって、そのまま川端さんのところで火を焚きながらすっかり好い気もちになって話し込み、その晩はとうとう泊って、翌十九日三時ごろの汽車で追分に掃ったら駅で抽屋が火事のことをきき驚いて駈けつけたら、もう油屋はあらかた焼けてしまってゐたのです 何ひとつ持ち出せなかったのはしかし僕ばかりぢやなく、池屋の入達さへ病人を出すことに気をとられて位牌さへ取り出せなかったほど火の手が早かった由、あの大きな建物に火がついたと思ったら家全体が殆ど一どきに燃え立ったさうだけれど、何しろ家が古いので木が枯れ切ってゐたせいなんでせうね。火事の起りは隣家のお上さんが豚小屋の前で豚にやる餌を煮てゐた火の不始末からだとか、──夕方、川端さんが軽井澤から自動車で逆へにきてくれたので、火事のをさまるのを見て軽井澤に避難しました、僕の外に油屋にゐたのは立原君、野村君、──立原君などは二階にゐて逃げ遅れて危く焼け死ぬ所だった由、──この二人はけさ帰京しました、…」

 油屋は翌年には建て直されます。ただ、場所は道路を挟んで反対側になります。この建て直しには立原道造が協力しています。

写真は現在の油屋の入口です。少し入った中に旅館の建物があります。今年の夏に訪ねたら、休館中となっていました。どうしたのでしょうか!

「油屋の隣」
<油屋の隣の住まい>
 堀辰雄は加藤多恵子さんと結婚後直ぐは軽井澤の別荘に住んでいます。追分に移ってきたのは昭和19年9月になります。それまで、夏は軽井澤の別荘、冬は東京の奥様の実家に住まわれています。昭和18年頃になると、空襲も考えられるようになり疎開を考えていたようです。
 堀多恵子さんの「来し方の記 辰雄の思い出」を参考にしました。
「 辰雄は自分はもう東京では暮らせないと早くから悟り、疎開を考え、心あたりを物色していたが、やはり追分より他にないと思ったのだろう。私がそんな状態だったので、森達郎君をつれて追分に出かけたのは二月二十六日、最も寒い時であった。油屋では「先生のためにちゃんと隣りの家を用意してあります」と言ってくれた。八畳、六畳、三畳、台所という間取りの家であり、よく陽があたり、縁先には小さい池があった。油屋旅館のすぐ隣りである。……
… 戦後、立原道道さんの最後のノート二冊の行方がわからず、杉浦明平さんや小山正孝さんに迷惑をかけたが、このあわただしい引っ越しの時、杉並の家の戸棚に、私自身が辰雄からもらった手紙のたばと一しょに置いたままになっていた事が、辰雄の死後わかったのだった。……」

 昭和16年に軽井沢1412に別荘を購入していますが、この別荘では年間を通して生活するのはむりだとおもったのでしょう、追分の油屋に疎開の住まいを頼みます。
 立原道道の最後のノート二冊は堀辰雄が持っていたようです。

写真は堀辰雄が昭和19年から住んでいた油屋の右隣の家です。現在もそのまま残っていました。

「追分の新しい家」
<追分の新しい家>
 堀辰雄は昭和26年7月、追分の新しい家に転居します。この頃は生活も大変だったとおもいます。新築のお金はとうしたのでしょうか。軽井澤の別荘を処分したのかもしれません。
 堀多恵子さんの「来し方の記 辰雄の思い出」を参考にしました。
「 新しい家は十五坪はどの小さいもので、私が畑を作っている隣接地に建てた。北に浅間山を望み、南に八風の連山がつらなり、右手に遠く八ヶ岳が見える。右の端に蓼科山が帽子をかぶったようにのぞいている。周囲にはアカシア、ケヤキ、サワラの大木が高々と聳え、南面は穏やかなスロープで、散在する松の樹間から田んぼが見え、田植えから稲刈りまで働く人々の姿が見えた。その先を信越線がゆく。寝ながら浅間山が見え、床を緑近くに敷けば、庭先に遊ぶ小鳥の姿も見ることが出来、何よりも油屋の騒音が聞えず静かで、まるで別天地に移ったようだと喜んだ。…」
 この当時は国道18号のバイパスはまだ出来ていなかったので静かな場所だったとおもいます。

写真が堀辰雄が昭和26年から昭和28年に亡くなるまで住んだ家です。現在の堀辰雄文学記念館です。堀辰雄文学記念館の入口の写真も掲載しておきます。

 追分は立原道造も含めて順次紹介していきます。


堀辰雄の追分地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
         
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る