●堀辰雄の奈良を歩く 【浄瑠璃寺の春編】
    初版2012年4月21日 <V01L03> 

 暫く時間があきましたが「堀辰雄の奈良を歩く」を引き続き掲載します。今回は堀辰雄の「大和路・信濃路」から”浄瑠璃寺の春”です。このお寺は辺鄙なところにあったため戦火にも遭わず平安時代の様式をそのまま残しています。このお寺の庭に立つと、なんというか、ムードが良いのです。訪れる人が少ないこともあるのですが、気持ちが安らぎます。




「馬酔木(あしび)」
<馬酔木(あしび)>
 堀辰雄夫妻が奈良の浄瑠璃寺を訪ねたのは昭和18年4月です。太平洋戦争が始まって一年五ヶ月後のことです。厳しい世相の中での奈良訪問です。堀辰雄の奈良訪問はこれが最後となります。昭和19年以降、喀血が続き、体調が悪化したためです。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から「浄瑠璃寺の春」の項です。
「浄瑠璃寺の春

 この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。…」

 「大和路・信濃路」の一部である”浄瑠璃寺”は「婦人公論」の昭和十八年七月号に掲載されています。”浄瑠璃寺”は後に”浄瑠璃寺の春”と改題されます。私が所持している「大和路・信濃路」は文庫本は別にして、亡くなられた後の昭和29年7月発行です。「大和路・信濃路」してまとまったのはこの本が最初ではないかとおもいます。

左上の写真は浄瑠璃寺の参道に咲いていた馬酔木の花です。4月19日に訪ねていますので、堀辰雄夫妻と殆ど同時期に訪ねたことになります。ただ馬酔木の花は3月末が開花時期だそうで、最後の時期でした。堀辰雄夫妻も同じ花を見たものとおもいます。浄瑠璃寺の参道の写真を掲載しておきます(参道右側に馬酔木の花が咲いていました)。

【馬酔木(あしび)】
 あしびの正式名はアセビ(馬酔木)といい、ツツジ科の低木です。別名として、あしび、あせぼ、とも云われています。本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹で、やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどです。葉は楕円形で深緑、表面につやがあり、枝先に束生します。早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつけます。果実は扇球状になります。有毒植物であり、葉を煎じると殺虫剤となります。馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるといわれています。 多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残されるため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがあります。奈良公園では、シカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっています。(ウイキペディア参照)

【浄瑠璃寺(じょうるりじ)】
 浄瑠璃寺は京都府木津川市加茂町西札場にある真言律宗の寺院で、嘉承2年(1107)の建立です。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人です。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来しています。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれていました。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝えています。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重です。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場しています。中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺でしたが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となっています。(ウイキペディア参照)

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
 東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得ます。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立します。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出しました。(新潮文庫より)

「平城山を越えた女」
<平城山を越えた女(内田康夫)>
 浄瑠璃寺については、さまざまな本に書かれていますが、ここでは二冊紹介したいとおもいます。一冊目は内田康夫の浅見光彦シリーズ「平城山(ならやま)を越えた女」です。推理小説ですから、奈良の地名や神社仏閣名がたくさん登場します。そのなかでも浄瑠璃寺は書き出しから登場しています。
 内田康夫の浅見光彦シリーズ「平城山(ならやま)を越えた女」からです。
「… 吉田初枝は店の表のドアを開け、重苦しい空を見上げて、その拍子にクシャミをした。
 初枝の家は、浄瑠璃寺の参道の途中から左に、飛石伝いに入り込んだところにある、茶店と土産物屋をごっちゃにしたような、小さな店である。初枝の夫の武男がまだ子供のころは、花を栽培し寺や旅館などに納めていたそうだ。そのうちに、浄瑠璃寺の参拝客を相手に、よもぎ餅など、季節のものを食べさせる茶店ふうの店を始めた。浄瑠璃寺門前の店々の第一号である。…
… 
第一章 写経の寺にて
       1
 浅見光彦のところに(『旅と歴史』の藤田編集長から電話で、「奈良の日吉館が消えるそうだから、行ってみてくれない」と言って寄越したのは、三月はじめの月曜日のことである。月曜の朝っぱらから、慌てたような口調で電話を寄越すというのは、何かしら ── たとえば、予定していた原稿が入らないとか ── 齟齬をきたしたことの証左に決まっている。
 浅見はなかば警戒しながら応対することにした。
「何ですか、その日吉館というのは?」
「えっ、浅見ちゃん、知らないの? かの有名な日吉館を」
 藤田は小馬鹿にしたように、ひとしきり笑った。…」

 上記に書かれている”初枝の家は、浄瑠璃寺の参道の途中から左に、飛石伝いに入り込んだところにある”は似たようなお店があります。看板には「あ志び乃店、山菜料理・民宿」とあります(参道の写真の左端に看板があります)。内田康夫は実際に浄瑠璃寺を訪ねているのがよくわかります。次に、”日吉館”と書かれていますが、奈良の日吉館といえば、文学者の泊る旅館として有名ですね。堀辰雄も宿泊しています。奈良国立博物館の道を挟んで北側にある旅館です。残念ながら、本に書かれている通り廃業されています。建て直された建物の写真を掲載しておきます。

写真は内田康夫の講談社文庫版浅見光彦シリーズ「平城山(ならやま)を越えた女」です。平城山(ならやま)とは読めませんね。”平城”は”奈良”の古代表記だそうです(”平城山”は奈良北部の山並みの名称)。平城宮(へいぜいきゅう、へいじょうきゅう)の読み方はこれで良いのでしょうか?

「顔」
<顔(丹羽文雄)>
 もう一冊は丹羽文雄の「顔」です。「顔」は昭和34年1月1日から翌年の2月23日まで毎日新聞に連載された新聞小説です。この小説を解説するつもりはないのでストーリーは説明しませんが、すこしだけ書くと、主人公耕の恋人が耕の父親の妻になり、父親の死去後の二人の関係を描写した物語です。この小説の後半に浄瑠璃寺が登場しています。主人公と彼女は二人で訪ねます。
 丹羽文雄の「顔」からです。
「…「君が運転してくれるのか」
 玄関をでて、群はハイヤーの運転手に声をかけた。昨日の運転手であった。
「浄瑠璃寺を知ってるだろうね?」
「いったことはないのですが……」
 宿の女中も、道を知らなかった。
「県境から右に折れるということはきいてますが」奈良と京都の県境であった。
「途中できけはいいだろう」
 衿子がコートをきて、車にはいった。耕がならぷと、
「いいお天気ですから、きなくともいいかも知れませんわね」…
… 
「どこへつれていかれるのか、心細い気がしますわ」
 冗談のように衿子がいう。
「鎌倉前期につくられた吉祥天像や、九躰仏をみることは、つけ足しです。ぼくのねがいは、九百十何年前につくられた、淋しい山寺のなかに、あなたをおいてみたかった」…」

 上記の主人公と彼女が京都で宿泊したのは、小説上は岡崎の「明」と書いていますが、この旅館にはモデルがあります。祇園の元藝子、奥山はつ子が開いた旅館「奥山」です。
 谷崎潤一郎もこの「奥山」については書いています。
「… 会場の奥山と云ふのは、昔祇園で名を売つた奥山はつ子が八九年前から左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓に開業してゐる料亭の名である。はつ子が祇園第一の美妓、従つて又京都を代表する典型的な美人であることは、既に数々の機会に繰り返して述べたことがあるから、諄くは書くまい。…」
 「奥山」は有名ではありませんが知る人ぞ知る旅館でした。この辺りのお話は別途書きたいとおもっています。

写真は丹羽文雄の新潮文庫版「顔」です。一年以上続いた新聞小説ですからページ数が多いです。一つ一つの事項を丁寧に書いており、この浄瑠璃寺についても詳細に説明しています。堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」よりもはるかに詳細ですから興味をそそられます。新聞小説所以です。堀辰雄が小説家として今一度裁けなかったのはこの辺りにあるのかもしれません。


堀辰雄の奈良地図 -3-


「浄瑠璃寺(九体寺)」
<浄瑠璃寺(九体寺)>
 堀辰雄夫妻が歩いたように奈良ホテルから浄瑠璃寺に向かいます。堀辰雄夫妻は浄瑠璃寺まで2時間掛かったと書いていますので、推定ですが徒歩としてルートを考えました。奈良ホテルから奈良街道を北に向かい、佐保川石橋手前を右に折れて、月瀬街道に入ります。月瀬街道の中ノ川付近から山道を浄瑠璃寺に向かえば距離は5.8Km程ですから、ゆっくり歩いて2時間だとおもいます(奈良駅からは6。5Km位です)。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”浄瑠璃寺の春”です。
「… 最初、僕たちはその何んの構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危く其処を通りこしそうになった。その途端、その門の奥のほうの、一本の花ざかりの緋桃(ひもも)の木のうえに、突然なんだかはっとするようなもの、――ふいとそのあたりを翔け去ったこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のようなものが、自分の目にはいって、おやと思って、そこに足を止めた。それが浄瑠璃寺の塔の錆ついた九輪だったのである。
 なにもかもが思いがけなかった。―― さっき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗っていた一人の娘にたずねてみると、「九体寺やったら、あこの坂を上りなはって、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたずねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと教えてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切って、さあもうすこしと思って、僕たちの目のまえに急に立ちあらわれた一かたまりの部落とその菜畑を何気なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでいた。あちこちに桃や桜の花がさき、一めんに菜の花が満開で、あまつさえ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごえさえのんびりと聞えていて、―― まさかこんな田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が ―― はるばると僕たちがその名にふさわしい物古りた姿を慕いながら山道を骨折ってやってきた当の寺があるとは思えなかったのである。……
「なあんだ、ここが浄瑠璃寺らしいぞ。」僕は突然足をとめて、声をはずませながら言った。…」

 ”緋桃(ひもも)の木”を探したのですが、私もよく分からず、お寺の方に聞いてもよく分かりませんでした。赤い花だけ分かっていましたので、山門を入った左側の木ではないかとおもっています。又、”田園風景のまっただ中に、その有名な古寺が”と書いていますが、田園風景と云うよりは”山間の古寺”という感じです。この辺りの描写は丹羽文雄の「顔」を参照した方が良さそうです。堀辰雄が訪ねたのが昭和18年で、丹羽文雄の連載が始まったのが昭和34年ですから16年の差があります。丹羽文雄は当然「大和路・信濃路」を読んでいたとおもわれます。
 丹羽文雄の「顔」からです。
「… 耕は車をでて、国鉄バスの標識をながめやった。こんな淋しいところまでバスがかよっていたのか。四、五軒点在しているわら屋根をみる。かすかに水の音がしていた。衿子は、不安そうにあたりをみまわしていたが、浄瑠璃寺の七堂伽藍をあてにしていたようである。この山寺は、特殊な貴族の現世利益や現世逃避のために建てられたものでなく、地方の豪族がその領民たちの幸福をねがって建てられたもののようである。はるか前方に小さい門があった。いかにも山寺の門にふさわしい簡素なつくりだった。足もとに、大きな石がある。往時をしのばせる何かの礎石のようである。山門まで二百ヤードはあるだろう。ふたりは、山門にむかった。…」
 丹羽文雄のほうが描き方が新しいです。バスは現在は奈良交通です。奈良駅行が一日に6本しかありません。浄瑠璃寺入口バス停留所の写真を掲載しておきます。

写真は現在の浄瑠璃寺山門です。写真のとおり桜がとても綺麗です。堀辰雄も丹羽文雄も書いていませんので当時はまだ無かったのかとおもいます。

「阿弥陀堂」
<阿弥陀堂>
 山門を入ると直ぐ左に鐘楼、正面に池があります。すこし右に歩くと阿弥陀堂です。こぢんまりしていますので一カ所ですべて見渡せます。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」の”浄瑠璃寺の春”からです。
「… 僕は再び言った。「おい、こっちにいい池があるから、来てごらん。」
「まあ、ずいぶん古そうな池ね。」妻はすぐついて来た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
「そうらしいな。」そう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えている阿弥陀堂を熱心に眺めだしていた。
 阿弥陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だった。
 うすぐらい堂のなかにずらりと並んでいる金色の九体仏を一わたり見てしまうと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめている僕をそこに残して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい縁さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな会話をしあっている。
「ずいぶん大きな柿の木ね。」妻の声がする。
「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意そうだ。
「何本あるのかしら? 一本、二本、三本……」
「みんなで七本だす。七本だすが、沢山に成りまっせ。九体寺の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに来やはります。あてが一人で(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせわしい事やったらおまへんなあ。」
「そうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」…」

 阿弥陀堂の拝観は右側に入口があり、そこから阿弥陀堂の裏側をまわって反対側から入ります。柿の木を探したのですが、阿弥陀堂の裏には見当たらず、拝観入口付近の木ではないかとおもいました。柿のなっている写真を撮影するつもりですので、秋の紅葉のころにもう一度訪ねてみます。
 丹羽文雄の「顔」からです。
「…浄瑠璃寺の本堂といわれる阿弥陀堂は、寄棟の本瓦葺だった。正面の桁行十一間、側面の梁間四間という横に細ながい、涌洒な建物にむかったとき、衿子には、耕がわざわざここに案内した理由がわかったような気がした。
 「藤原時代ですわね」
「そう、藤原の和様建築の典型的なものです」
 もとは、入母屋の檜皮葺だったという。耕は、衿子をかえりみた。そして、苦笑をうかべた。
衿子は、見とれている。藤原時代の和様建物の印象が、どこか衿子の印象にかようものがあると思ったからだ。瀟洒であり、ひどく趣をことにしているのだ。衿子のすがたからくる滴酒な線の類似だったろうか。阿弥陀堂の背景は、自然のすがたにかえっていた。自然はひっそりと、山寺をとりかこんでいる。人間臭がひどく稀薄である。風変り、な、横に細ながい本堂までが、人間臭から超越しているようである。
「池の向こう側からながめると、いっそう阿弥陀堂の美しさがわかるでしょう。静かな池の面に、本堂がさかさに映っているら櫺子窓や、白壁や、板扉がうつる。極楽浄土の理想境を、ここにあらわしているんですよ」
「ひっそりとして、人かげもなくて、時計がとまってしまったみたいな気持ですわ。うごいているものも、なくて……」…」

 丹羽文雄の描き方は何ともいえずいいですね!! 私の好みにあいます。訪ねて見るとわかりますが”人間臭”がないのはよく分かります。こんな辺鄙なところに派手ではない優雅さがあるのです。一日いても飽きません。この池の端に立つのは不倫の二人がピッタリかもしれません。

写真は三重塔から見た阿弥陀堂です。あまり木が茂っていないのでよく見渡せます。

「九躰仏」
<九躰仏(九体仏)>
 阿弥陀堂の中に九躰仏(九体仏)が東向きにあります。阿弥陀如来九体を祀る阿弥陀堂は東向きで、池を挟んで西向きの薬師如来を祀る三重塔と相対しています。東方の教主薬師仏を東に西方の教主阿弥陀仏を西に祀って、その間に浄土の苑池を置く。仏説通りの構図です。この様式は平安時代以降に京都を中心として生まれます。代表的なお寺は藤原道長が建てた法成寺が有名なのですが現存しません。唯一残っているのは宇治の平等院です。(「浄瑠璃寺」参照、浄瑠璃寺発行)
 丹羽文雄の「顔」からです。
「… 方丈に声をかけてから、阿弥陀堂に上るべきだったろうが、たれもいるように思われないので、ふたりは本堂の階段を上った。衿子は堂内にひと足ふみいれて、頭からおしかぶさるような大きな金泥の仏像におどろいた。座高七尺四寸余の中尊と、ほかの八鉢もいずれも座高四尺六寸ほどの大きさだった。一列にずらりとならんでいる。おなじような大きな仏が、どうして九躰も必要なのか。衿子は、藤原時代に流行した、仏説の九等級の往生をあらわした千仏思想のいわれを知らなかった。九人も大きな仏が昔のままにならんでいるなど、いまでは浄瑠璃寺だけにのこるものである。金泥のはげ落ちた仏の顔は、円満具足のおだやかな表情である。和様彫刻のもっとも典型的なものである。衿子は、天井をながめた。天井の垂木がまるだしになっている。.ほかに、四天王像があった。地蔵菩薩像もあった。厨子におさまった吉祥天像には、期待していたほどの感動はうけなかった。そばの九躰仏があまり大きすぎるので、吉祥天女像がことさら小さく、貧弱にながめられる。衿子は何かバランスをうしなった気持で、とおりいっぺんの鑑賞しかできなくなった。馬頭観音像や、不動明王と二童子像を拝しても、それらの上にただながい歴史が感じられるだけであった。九百年の歳月が、つめたい静寂をただよあせている。耕もだまって、各仏像をたんねんにみてまわっている。本堂の右のすみで、仏像の写真が売られていた。…」
 本堂の右隅では今も売店があります。50年以上たっても変わりません。それにしても丹羽文雄はよく細かく描写しています。何かを参照したのだとはおもいますが、さすがの丹羽文雄です。堀辰雄もここまで書ければよかったのにとおもいます。堀辰雄は堀辰雄の良さがあるのですが!!

写真は現在の九躰仏です。写真はモノクロですが、実際は金色に輝いています。四天王は多聞天が京都、広目天が東京国立博物館にあります。浄瑠璃寺に残っているのは持国天、増長天の二体のみです。

「三重塔」
<三重塔>
 阿弥陀堂と池をはさんで東にあるのが三重塔です。薬師如来像を祀っています。この三重塔は京都一條大宮から移設されたものだそうです(移設元は不明)。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”浄瑠璃寺の春”です。
「…「あこの塔も見なはんなら、御案内しまっせ。」少女は池の向うの、松林のなかに、いかにもさわやかに立っている三重塔のほうへ僕たちを促した。
「そうだな、ついでだから見せて貰おうか。」僕は答えた。「でも、君は用があるんなら、さきにその用をすましてきたらどうだい?」
「あとでもええことだす。」少女はもうその事はけろりとしているようだった。
 そこで僕が先きに立って、その岸べには菖蒲のすこし生い茂っている、古びた蓮池のへりを伝って、塔のほうへ歩き出したが、その間もまた絶えず少女は妻に向って、このへんの山のなかで採れる筍だの、松茸だのの話をことこまかに聞かせているらしかった。…」

 昭和51年から国の補助を受けて平安時代の姿に戻す作業が行われています。池の姿などが少し変わったようです。堀辰雄夫妻が見た浄瑠璃寺とは違うようです。

写真は現在の三重塔です。4月ですので木々の緑がまだまだです。

「般若寺」
<奈良坂>
 堀辰雄夫妻は浄瑠璃寺から奈良坂経由で奈良市内に戻ります。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”浄瑠璃寺の春”です。
「… その夕がたのことである。その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟(しげき)が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、―― 少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
 突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。……」
「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし……」
 そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。…」

 堀辰雄は奈良坂については何も記述していません。般若寺などの有名なお寺があるのですが残念です。堀辰雄は奈良坂から佐保川石橋の先を左に折れて、正倉院の裏手を回って大仏殿の裏手に出たようです。そこから左に向かえば、二月堂、三月堂があります。奈良坂の説明は内田康夫の浅見光彦シリーズに任せたいとおもいます。
 内田康夫の浅見光彦シリーズ「平城山(ならやま)を越えた女」からです。
「…  その平城山を越えて大和−京都を往来する道が「奈良坂」である。古代は平城宮址の北方から山城へ向かう歌姫越えを指してそう呼んだが、今日では一般的に般若寺の脇を通って行く国道24号線 ── 奈良街道の峠付近のことをいう。
 地図で見るとよく分かるように、奈良坂は京都、山城と大和、吉野を結ぶ最短コースとして、古くから交通の要所、であった。地方の国府などに赴任する万葉人たちが、家族や恋人と別れを惜しんだ坂でもあるし、東大寺の大仏殿造営のための用材も、木津川から陸揚げされた後、ここを通って運ばれた。
 源頼政を宇治で破った平重衡が、その勢いに乗じて東大寺、興福寺をはじめとする南都の堂塔伽藍を炎上させた際にも、奈良坂を通って南都に侵入した。垂衡は後に一ノ谷合戦で敗れ捕らえられ、いったんは鎌倉に運ばれながら、奈良僧徒の怨みは強く、奈良に移送され、奈良坂を望む木津川べりで斬死の刑に処せられた。
 奈良街道 ── 現国道24号線は、京都府木津町側から奈良県に入り、奈良坂を登りつめる少し手前で旧街道と左に分かれバイパスになる。その分岐点にあるバス停が「奈良坂」と標示されている。
 旧街道は車がやっと擦れちがえる程度の細道で、道の両側に古ぼけたしもたやふうの民家が、低い軒を突き合わせるようにして並んでいる。崩れかけた鮮麗も観ることができる。まれに新しく建てた新建材の建物があると、異端者めいて無粋な感じがする。
 旧街道を登りつめた、いくぶん平坦なあたりに、般若寺がある。般若寺は楼門が国宝で、ほかに十三重の石宝塔や文殊菩薩騎獅像などの重要文化財があり、「コスモス寺」の別名でも知られているのだが、観光客の訪れは意外なほど少ない。…」

 丹羽文雄は面白いです。新聞小説は楽しめます。

写真は現在の般若寺付近の奈良坂です(右側が般若寺)。般若寺で面白かったのは、一番奥に宮本武蔵の碑があったことです。
宮本武蔵「般若坂の決闘」石碑
武蔵が興福寺法蔵院の槍道場で他流試合をした後、院主の胤栄とはかり、奈良の街で乱暴していた野武士を相手に般若坂(野)で決闘した。決闘の死者を弔うための供養碑。「三界萬十方四聖法界平等」とある。(昭和37年に映画化)
 般若坂と奈良坂は同じなのですね!


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良も訪問
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在、
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都に滞在、奈良も訪問
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る