<馬酔木(あしび)>
堀辰雄夫妻が奈良の浄瑠璃寺を訪ねたのは昭和18年4月です。太平洋戦争が始まって一年五ヶ月後のことです。厳しい世相の中での奈良訪問です。堀辰雄の奈良訪問はこれが最後となります。昭和19年以降、喀血が続き、体調が悪化したためです。
堀辰雄の「大和路・信濃路」から「浄瑠璃寺の春」の項です。
「浄瑠璃寺の春
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。…」
「大和路・信濃路」の一部である”浄瑠璃寺”は「婦人公論」の昭和十八年七月号に掲載されています。”浄瑠璃寺”は後に”浄瑠璃寺の春”と改題されます。私が所持している「大和路・信濃路」は文庫本は別にして、亡くなられた後の昭和29年7月発行です。「大和路・信濃路」してまとまったのはこの本が最初ではないかとおもいます。
★左上の写真は浄瑠璃寺の参道に咲いていた馬酔木の花です。4月19日に訪ねていますので、堀辰雄夫妻と殆ど同時期に訪ねたことになります。ただ馬酔木の花は3月末が開花時期だそうで、最後の時期でした。堀辰雄夫妻も同じ花を見たものとおもいます。浄瑠璃寺の参道の写真を掲載しておきます(参道右側に馬酔木の花が咲いていました)。
【馬酔木(あしび)】
あしびの正式名はアセビ(馬酔木)といい、ツツジ科の低木です。別名として、あしび、あせぼ、とも云われています。本州、四国、九州の山地に自生する常緑樹で、やや乾燥した環境を好み、樹高は1.5mから4mほどです。葉は楕円形で深緑、表面につやがあり、枝先に束生します。早春になると枝先に複総状の花序を垂らし、多くの白くつぼ状の花をつけます。果実は扇球状になります。有毒植物であり、葉を煎じると殺虫剤となります。馬酔木の名は、馬が葉を食べれば苦しむという所からついた名前であるといわれています。
多くの草食ほ乳類は食べるのを避け、食べ残されるため、草食動物の多い地域では、この木が目立って多くなることがあります。奈良公園では、シカが他の木を食べ、この木を食べないため、アセビが相対的に多くなっています。(ウイキペディア参照)
【浄瑠璃寺(じょうるりじ)】
浄瑠璃寺は京都府木津川市加茂町西札場にある真言律宗の寺院で、嘉承2年(1107)の建立です。山号を小田原山と称し、本尊は阿弥陀如来と薬師如来、開基(創立者)は義明上人です。寺名は薬師如来の居所たる東方浄土『東方浄瑠璃世界』に由来しています。本堂に9体の阿弥陀如来像を安置することから九体寺(くたいじ)の通称があり、古くは西小田原寺とも呼ばれていました。緑深い境内には、池を中心とした浄土式庭園と、平安末期の本堂および三重塔が残り、平安朝寺院の雰囲気を今に伝えています。本堂は当時京都を中心に多数建立された九体阿弥陀堂の唯一の遺構として貴重です。堀辰雄の『浄瑠璃寺の春』にも当寺が登場しています。中世から近世にかけて浄瑠璃寺は興福寺一乗院の末寺でしたが、明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良・西大寺の末寺となっています。(ウイキペディア参照)
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得ます。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立します。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出しました。(新潮文庫より)