<法隆寺>
堀辰雄の「大和路・信濃路」の中で法隆寺を2回か訪ねています。10月23日、26日の両日です。
堀辰雄の「大和路・信濃路」から10月24日の項です。
「… 十月二十四日、夕方
きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。――
それがこんど、金堂の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず愉(たの)しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩の、手にしている蓮華に見入っていると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。…」
法隆寺金堂は昭和15年(1940)から、当時の一流の画家たちを動員して壁画の模写を初めています。模写事業は第二次世界大戦をはさんで戦後も続けられますが、昭和24年(1949)1月24日朝、不審火によって金堂が炎上し壁画も焼けてしまいます。当時金堂は解体修理中で、上層階の部材は火災を免れています。又、壁画は、昭和10年(1935)には京都の美術書出版社である便利堂が壁画の原寸大写真を撮影しており、オリジナルの壁画が焼損した今では、この写真が貴重な資料となっています。(ウイキペディア参照)
★左上の写真は正面が法隆寺金堂、左が五重塔です。拝観料は1000円とすこし高めですが、見る価値はあります。金堂や五重塔だけを見るのではなく、前回紹介した西円堂等も見る価値があります(西円堂は無料です)。堀辰雄は金堂を見た後、”子規の茶屋”に立寄ったり、宝蔵(現在は新しい大宝蔵院が出来ています)を見たりしています。その頃に”子規の茶屋”がまだ残っていたはずはないのですがとうでしょうか?
「…それから金堂を出て、新しくできた宝蔵の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもいがけず詩人のH君にひょっくりと出逢った。ずっと新薬師寺に泊っていたが、あす帰京するのだそうだ。そうして僕がホテルにいるということをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだったので、こちらに僕も来ているとは知らずに、ひとりで法隆寺へやって来た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあい、それから一しょに宝蔵を見にゆくことにした。…」
【法隆寺(ほうりゅうじ)】
法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山である。別名を斑鳩寺という。
現存する法隆寺西院伽藍(五重塔、金堂他)は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院(夢殿他)の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。(ウイキペディア参照)
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)