●堀辰雄の奈良を歩く 【斑鳩編】
    初版2011年5月14日 
    二版2011年7月31日  <V01L01>  一部の写真を入替え

 「堀辰雄の奈良を歩く」を引き続き掲載します。前回は”法隆寺の鐘と大黒屋”を歩きましたが、今回は堀辰雄の「大和路・信濃路」から法隆寺そのものと中宮寺、法起寺、法輪寺を歩きます。斑鳩の里はノンビリ歩けてよいところです。




「法隆寺」
<法隆寺>
 堀辰雄の「大和路・信濃路」の中で法隆寺を2回か訪ねています。10月23日、26日の両日です。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から10月24日の項です。
「… 十月二十四日、夕方
 きのう、あれから法隆寺へいって、一時間ばかり壁画を模写している画家たちの仕事を見せて貰いながら過ごした。これまでにも何度かこの壁画を見にきたが、いつも金堂のなかが暗い上に、もう何処もかも痛いたしいほど剥落しているので、殆ど何も分からず、ただ「かべのゑのほとけのくにもあれにけるかも」などという歌がおのずから口ずさまれてくるばかりだった。―― それがこんど、金堂の中にはいってみると、それぞれの足場の上で仕事をしている十人ばかりの画家たちの背ごしに、四方の壁に四仏浄土を描いた壁画の隅々までが蛍光灯のあかるい光のなかに鮮やかに浮かび上がっている。それが一層そのひどい剥落のあとをまざまざと見せてはいるが、そこに浮かび出てきた色調の美しいといったらない。画面全体にほのかに漂っている透明な空色が、どの仏たちのまわりにも、なんともいえず愉(たの)しげな雰囲気をかもし出している。そうしてその仏たちのお貌だの、宝冠だの、天衣だのは、まだところどころの陰などに、目のさめるほど鮮やかな紅だの、緑だの、黄だの、紫だのを残している。西域あたりの画風らしい天衣などの緑いろの凹凸のぐあいも言いしれず美しい。東の隅の小壁に描かれた菩薩の、手にしている蓮華に見入っていると、それがなんだか薔薇の花かなんぞのような、幻覚さえおこって来そうになるほどだ。…」

 法隆寺金堂は昭和15年(1940)から、当時の一流の画家たちを動員して壁画の模写を初めています。模写事業は第二次世界大戦をはさんで戦後も続けられますが、昭和24年(1949)1月24日朝、不審火によって金堂が炎上し壁画も焼けてしまいます。当時金堂は解体修理中で、上層階の部材は火災を免れています。又、壁画は、昭和10年(1935)には京都の美術書出版社である便利堂が壁画の原寸大写真を撮影しており、オリジナルの壁画が焼損した今では、この写真が貴重な資料となっています。(ウイキペディア参照)

左上の写真は正面が法隆寺金堂、左が五重塔です。拝観料は1000円とすこし高めですが、見る価値はあります。金堂や五重塔だけを見るのではなく、前回紹介した西円堂等も見る価値があります(西円堂は無料です)。堀辰雄は金堂を見た後、”子規の茶屋”に立寄ったり、宝蔵(現在は新しい大宝蔵院が出来ています)を見たりしています。その頃に”子規の茶屋”がまだ残っていたはずはないのですがとうでしょうか?
「…それから金堂を出て、新しくできた宝蔵の方へゆく途中、子規の茶屋の前で、僕はおもいがけず詩人のH君にひょっくりと出逢った。ずっと新薬師寺に泊っていたが、あす帰京するのだそうだ。そうして僕がホテルにいるということをきいて、その朝訪ねてくれたが、もう出かけたあとだったので、こちらに僕も来ているとは知らずに、ひとりで法隆寺へやって来た由。――そこで子規の茶屋に立ちより、柿など食べながらしばらく話しあい、それから一しょに宝蔵を見にゆくことにした。…」

【法隆寺(ほうりゅうじ)】
 法隆寺は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山である。別名を斑鳩寺という。
 現存する法隆寺西院伽藍(五重塔、金堂他)は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院(夢殿他)の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、「聖徳太子」の人物像には後世の潤色が多く含まれているとしても、そのモデルとなった厩戸王によって7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。(ウイキペディア参照)

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
 東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「夢殿」
<夢殿>
 堀辰雄は子規の茶屋から宝蔵を見て夢殿に向かいます。東大門(「中ノ門」ともよばれるこの門は、西院と東院の間に建っています)を抜けて夢殿までは一直線です(下記の地図参照)。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”十月二十六日、斑鳩の里にて”からです。
「…十月二十六日、斑鳩の里にて
 きょうはめずらしくのんびりした気もちで、汽車に乗り、大和平をはすに横ぎって、佐保川に沿ったり、西の京のあたりの森だの、その中ほどにくっきりと見える薬師寺の塔だのをなつかしげに眺めたがら、法隆寺駅についた。僕は法隆寺へゆく松並木の途中から、村のほうへはいって、道に迷ったように、わざと民家の裏などを抜けたりしているうちに、夢殿の南門のところへ出た。そこでちょっと立ち止まって、まんまえの例の古い宿屋をしげしげと眺め、それから夢殿のほうへ向った。
 夢殿を中心として、いくつかの古代の建物がある。ここいらは厩戸皇子の御住居のあとであり、向うの金堂や塔などが立ち並んでおのずから厳粛な感じのするあたりとは打って変って、大いになごやかな雰囲気を漂わせていてしかるべき一廓。―― だが、この二三年、いつ来てみても、何処か修理中であって、まだ一度もこのあたりを落ちついた気もちになって立ちもとおったことがない。
 いまだにそのまわりの伝法堂などは板がこいがされているが、このまえ来たとき無慙にも解体されていた夢殿だけは、もうすっかり修理ができあがっていた。……
 そこで僕はときどきその品のいい八角形をした屋根を見あげ見あげ、そこの小ぢんまりとした庭を往ったり来たりしながら、
 
ゆめどのはしづかなるかなものもひにこもりていまもましますがごと
義疏(ぎそ)のふでたまたまおきてゆふかげにおりたたしけむこれのふるには

 そんな「鹿鳴集」の歌などを口ずさんでは、自分の心のうちに、そういった古代びとの物静かな生活を蘇(よみがえ)らせてみたりしていた。…」

 関西本線の奈良から法隆寺間で薬師寺の塔が見えるのでしょうか。奈良駅から郡山駅簡が一番近く、直線で1.2Km程ですから遮るものがなければ十分に見ることが出来たとおもいます。現在では到底見ことはできません。又、”法隆寺にゆく松並木”と書いていますが、当時は法隆寺駅から法隆寺に向かう道は一本しかなく、真っ直ぐ道なりに進めば大黒屋横を抜けて夢堂になります。松並木とは法隆寺南大門の前の道とするとすこしおかしいです。
 又、厩戸皇子とは聖徳太子のことですね。わざと聖徳太子とは書かないでいるようです(聖徳太子の存在には疑義があるのか?)。
 会津八一の「鹿鳴集」は有名ですのであえてコメントすることはないかとおもいますが、「鹿鳴集」自体は昭和15年に創元社から発刊されています。この鹿鳴集に本人がコメントを付けたのが昭和27年に発刊された「自註鹿鳴集」です。会津八一の歌碑は中宮寺の本堂前と、夢殿から北に少し歩いたところにあります(場所が分り難いので近くの写真も掲載しておきます)。

写真は夢殿です。拝観料は法隆寺の拝観料に含まれていますので、1000円も高くはないかもしれません。


堀辰雄の斑鳩地図(大正10年)


「中宮寺」
<中宮寺>
 堀辰雄は夢殿から直ぐ裏の中宮寺に向かいます。中宮寺は法隆寺とは別に拝観料500円がかかります。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”樹下”です。
「…  或る秋の日にひとりで心ゆくまで拝してきた中宮寺の観音像。―― その観音像の優しく力づよい美しさについては、いまさら私なんぞの何もいうことはない。ただ、この観音像がわれわれをかくも惹きつけ、かくも感嘆せしめずにはおかない所以の一つは、その半跏思惟の形相そのものであろうと説かれた浜田博士の闊達な一文は私の心をいまだに充たしている。その後も、二三の学者のこの像の半跏思惟の形の発生を考察した論文などを読んだりして、それがはるかにガンダラの樹下思惟像あたりから発生して来ているという説などもあることを知り、私はいよいよ心に充ちるものを感じた。…」
 上記は「大和路・信濃路」の”樹下”に書かれていますので、すこし違和感があります。”樹下”に書かれているのは追分の泉洞寺にある石仏というイメージが強いのですが、中宮寺の観音像(菩薩半跏像)もガンダラ(ガンダーラ)の樹下思惟像からと考えるとおなじかなのしれません(釈迦如来像は、釈迦の生涯に合わせてさまざまな姿で造られており、樹下思惟像は青年期の出家前で、深く考え込んでいる姿で作られている)。両者の写真を掲載しておきますので見比べて下さい。

写真は現在の中宮寺本堂です。鉄筋コンクリート造りです。法隆寺の傍にあるにしては違和感があります。入口の写真も掲載しておきます。

「法起寺」
<法起寺>
 2011年7月31日 一部の写真を入替え
 堀辰雄も法輪寺や法起寺を訪ねていますが、今回は高浜虛子の「斑鳩物語」が面白そうだったのでこちらを取り上げました。
 高浜虛子の「斑鳩物語」の”中”からです。
「… 翌日午前は法隆寺に行って、午後は法起寺に行った。これで今回官命の役目は一段落となるのである。法起寺は住職は不在で、年とつた方の所化も一寸出たとの事で、十五六になるのっそりした小僧が炭をふうふう吹いて灰だらけにした火鉢を持って来て、ぬるい茶を汲んで来て主ぶりをする。取調の事は極めて簡単で直ちに結了する。塔の修覆が出来てからまだ見ぬので庭に出て見る。腰衣をつけた小僧サンも後からついて来る。白い庭の上に余の影も小僧サンの影もくっきりと映る。うらゝかな春の日だ。三重の塔は法隆寺の塔を見た目には物足らぬが其でも蟇股や撥形の争はれぬ推古式のところが面白い。会はふと此塔に登って見度くなった。
「小僧サン、塔に登りたいものですが……」…」

 高浜虛子はなにか官命の仕事で法起寺を訪ねたように書いています。お上が修復費用を負担しているのでその検分に訪ねたようです。この斑鳩物語で最も面白いのは大黒屋のお道さんと小僧の恋愛です。明治40年頃ですが、今とかわらない書き方です。今も昔も恋愛事は同じなのですね。
「…今我等の登ってゐる塔の影は塔に近い一反ばかりの菜の花の上に落ちて居る。
「叉来くさつたな。又二人で泣いてるな」
と小僧サンは独り言をいふ。見ると其塔の影の中に一人の僧と一人の娘とが寄り添ふやうにして立話をして居る。女は僧の肩に凭れて泣いて居る。二人の半身は菜の花にかくれて居る。
「あの坊さん君知ってるのですか」
「あれなあ、私の兄弟子の了然や。学問も出来るし、和尚さんにもよく仕へるし、おとなしい男やけれど、思ひきりがわるい男でナー。あのお道といふ女の方がよっぽど男まさりだつせ。あのお道はナア、親にも孝行で、機もよう織って、気立もしっかりした女でナア、何でも了然が岡寺に居った時分にナア、下市とか上市とかで茶屋酒を飲んだ事のある時分惚れ合ってナア、それから了然はこちらに移る、お道はうちへ帰るししてナア、今でもあんなことして注いたり笑ったりしてますのや。ハヽヽヽヽ」
と小僧サンは無頓着に笑ふ。お道は今朝から宿に居なかったが今こゝでお道を見ようとは意外であった。殊に其情夫が坊主であらうとは意外であった。我等は塔の上からだまつて見下ろして居る。…」

 この法起寺の三重塔の上から菜の花畑を見ています。三重の塔から見た北側の写真を掲載しておきます。菜の花畑は全くありませんでした。

写真は法起寺の池の手前から三重塔を撮影したものです。現在の法起寺入口は横にありますが、元々の入口である南大門は三重塔の南側にあります。大正10年の地図では南大門の南側に奈良街道まで道が続いていましたが、現在は畑になって道は無くなっていました。寂しい限りです(大正10年の地図と最下段の現在の地図を参照)。


堀辰雄の斑鳩地図(大正10年)


「法輪寺」
<法輪寺>
 最後は法輪寺です。堀辰雄の「大和路・信濃路」には詳しくは書かれていません。
 堀辰雄の「大和路・信濃路」から”十月二十六日、斑鳩の里にて”です。
「… それから約三十分後には、僕は何か赫かしい目つきをしながら、村を北のほうに抜け出し、平群の山のふもと、法輪寺や法起寺のある森のほうへぶらぶらと歩き出していた。
 ここいら、古くはいかるがの里と呼ばれていたあたりは、その四囲の風物にしても、又、その寺や古塔にしても、推古時代の遺物がおおいせいか、一種蒼古な気分をもっているようにおもわれる。或いは厩戸皇子のお住まいになられていたのがこのあたりで、そうしてその中心に夢殿があり、そこにおける真摯な御思索がそのあたりのすべてのものにまで知らず識らずのうちに深い感化を与え出していたようなことがあるかも知れない。そうしてこのあたりの山や森などはもっとも早く未開状態から目覚めて、そこに無数に巣くっていた小さな神々を追い出し、それらの山や森を朝夕うちながめながら暮らす里人たちは次第に心がなごやかになり、生きていることのよろこびをも深く感ずるようになりはじめていた。……
 そうだ、僕はもうこれから二三年勉強した上でのことだが、日本に仏教が渡来してきて、その新らしい宗教に次第に追いやられながら、遠い田舎のほうへと流浪の旅をつづけ出す、古代の小さな神々の佗びしいうしろ姿を一つの物語にして描いてみたい。それらの流謫の神々にいたく同情し、彼等をなつかしみながらも、新らしい信仰に目ざめてゆく若い貴族をひとり見つけてきて、それをその小説の主人公にするのだ。なかなか好いものになりそうではないか。
 行く手の森の上に次ぎ次ぎに立ちあらわれてくる法輪寺や法起寺の小さな古塔を目にしながら、そんな小説を考え考え、そこいらの田圃の中を歩いていると、僕はなんともいえず心なごやかな、いわばパストラアルな気分にさえなり出していた。…」

 堀辰雄は法起寺や法輪寺の塔を”小さな古塔”と書かれています。しかしこの”小さな古塔”はいろいろ話題を提供してくれていまず。堀辰雄が法輪寺を訪ねた昭和18年までは法輪寺の三重塔はありました。しかし、昭和19年7月の落雷により焼失しています(避雷針を供出したためです)。現在の三重塔は幸田文さん等の支援で昭和50年、2億円の費用で再建されています。

写真は現在の法輪寺です。正面左が三重塔、右側が金堂、正面先が講堂になっています。昔の南大門は写真のもう少し手前となります。南大門跡付近から見た法輪寺を掲載しておきます。


堀辰雄の奈良地図 -2-


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良も訪問
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在、
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都に滞在、奈良も訪問
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る