●堀辰雄の京都を歩く T
    初版2011年7月23日
    二版2011年10月2日  <V01L01>  京屋の写真を入替え

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。「堀辰雄を歩く」も今回で18回目になります。全て掲載するのに、後、数回はかかりそうです。さて、今週は「堀辰雄の京都を歩くT」です。堀辰雄は昭和12年初夏に突然京都を訪ね、1ヶ月近く滞在しています。(知恩寺と知恩院を間違いました。ごめんなさい!)




「知恩寺」
<知恩寺>
 堀辰雄は昭和16年6月、突然京都を訪ねています。彼の書簡で見ると、6月13日に京都百万遍より大山定一宛に出したのが京都での最初の書簡で、最後は7月6日の葛巻義敏宛です。7月10日付で向島発の書簡がありますので、その間に帰京したものとおもわれます。7月1日から京都では祇園祭が始まります。宵山は14日ですので、それを見ずに帰ったことになります。仕事のためか、体調が悪くなったかのどちらかだとおもいます。
 まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」の中で昭和12年6月16日の書簡からです。
「232 六月十六日 京都百万遍龍見院より
神西清宛(はがき)
 急に思ひ立って数日前京都に来た一月許り滞在する 少し身體の惑いところを無理して来たので、こちらでもまだ半病人みたいな暮らしをしてゐる 早く元気になって方々に飛び廻りたい君もやって来ないかなあ」

 関西方面に旅行したのは昭和6年末に神戸の竹中郁を訪ねたのが初めてではないかとおもいます。

左上の写真は百万遍の交差点横にある知恩寺の表門です。浄土宗七大本山の寺院で、「百万遍知恩寺」(ひゃくまんべんちおんじ)と称し、単に「百万遍」とも通称するそうです。この名前は京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜されています。又、このお寺は三回場所を移転しています。一回目は、1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移されています(京都市上京区一条通り油小路上ルに元百万遍町の町名が残る)。二回目は、1592年(文禄元年)に豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上ル)に移されています。三回目は、江戸時代の1662年(寛文2年)で、現在の北白川の地に移転しています。(ウイキベディア参照)。京都大学の直ぐ横にあります。堀辰雄はこの知恩院の塔頭のひとつである龍見院に宿を見つけます。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「龍見院」
<龍見院>
 堀辰雄が京都での宿としたのが知恩寺の塔頭、龍見院でした。寺ですから料理は精進料理なのでしょうね。堀辰雄の健康にはすごく良かったとおもいます。
 まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」の中からです。
「233 六月十六日 京都百万遍龍見院より
立原道造宛(はがき)
 大學のそばのお寺のはなれが借りられた 二三日前田中君と大原の寂光院へ行って来たがそれが身體に障って半病人みたいになってゐる 少し心細い 早くよくなって方々飛びまはりたい 君の小説よんだ 及第 骨組みなどもなかなかしっかりしてきた」

 立原道造宛の書簡です。体調は相変わらず良くないようです。夏の京都はかなり暑く、過ごすのが大変です。暑さから考えると6月はぎりぎりセーフなのですが、梅雨ですから雨ばかりでこちらも大変です。

写真は現在の知恩寺の塔頭、龍見院です。知恩寺の門を入って右側奥にあります。この龍見院は徳川家康の家臣、鳥居元忠(とりい もとただ)の墓があるので有名です。鳥居元忠は、石田三成が関ヶ原の戦いに向けて挙兵した時に、伏見城に籠城して討死しています。この時の床板が、「血天井」として京都の養源院にあり、こちらも有名です。

「ドイツ文化研究所跡」
<ドイツ文化研究所>
 堀辰雄は京都で大山定一を訪ねています。大山定一は旧制第六高等学校から京都帝国大学ですから、堀辰雄との接点がよく分かりません。
 大山定一が堀辰雄の死後、「文芸」昭和三十二年二月臨時増刊号に「京都における堀さんの思い出」として書いています。
「 じかに堀さんと会って話をしたのは、ほんの二三の機会しかなかった。
 ある年の夏(たぶん昭和十二、三年)堀さんは百万遍の寺の一つに、二週間ばかり滞在していた。散歩のついでに、ぶらりと堀さんはドイツ文化研究所にぼくを訪ねてくれた。このときが初対面だった。以来、三日か四日おきにお会いした。百万遍と研究所とは、歩いてほんの二三分の距離しかない。…」

 時期は昭和12年6月です。”百万遍の寺の一つ”は上記の通り龍見院です。大山定一と堀辰雄は明治37年(1904)生まれの同い年で、大山定一は当時、ドイツ文化研究所に勤めていました。このドイツ文化研究所は「立原道造の京都を歩く」で掲載した「獨乙文化研究所」と同じです。

写真は東山東一条交差点から北西を撮影したものです。写真正面のところに獨乙文化研究所(ドイツ文化研究所)がありました。当時の写真がありましたので掲載しておきます。戦後は西洋文化研究所と改称しましたが、米軍に接収され、解除後の昭和50年(1975)に建て直されています。

「常寂光寺」
<常寂光寺>
 大山定一は堀辰雄を連れて京都をを歩いています。
 大山定一の「京都における堀さんの思い出」からです。
「…午前中、堀さんはただ気ままに、しずかな読書で時をすごしているらしかった。そして、午後から連れだって、郊外を散歩したり博物館へ行ったりした。案内役のぼくがひどくたよりないものだから、小倉山をたずねたとき、定家卿の時雨亭の跡をみたのはよかったが、二尊院とばかり思って、となりの常寂光寺のなかをあるき、それが二尊院でなかったことに、五、六日たってから気がつくという始末だった。…」
 二尊院とか常寂光寺とかいうと嵯峨野です。今でこそ観光地として有名になっていますが当時は京都のド田舎だったとおもいます。藤原定家の山荘「時雨亭」が有名なのは、この場所で「小倉百人一首」を編纂したからです。この山荘の場所については諸説有り、未だ、さだまってはいないようで、その一つが常寂光寺であり二尊院です。

写真は常寂光寺の表門です。この門から入って小倉山を登っていくと時雨亭跡の碑がある場所があります。大山定一と堀辰雄はこの辺りを歩いていたとおもわれます。

「寺町通りを御池通り手前から撮影」
<寺町通りの例の京屋>
 2011年10月2日 京屋の写真を入替え
 堀辰雄は大山定一と歩いた寺町通りの古本屋で、とある本を見つけていました。帰京後にこの本の購入を依頼しています。
 「堀辰雄全集 第八巻 書簡」からです。
「238 七月十九日附 信濃追分油屋より
大山定一宛(封書)
……それから一寸御面倒なお願ひですが、寺町通りの例の京屋といふ本屋で、(飾り窓にジイド全集をどと一緒に陳例してあったのですが《La Revue de Litteratune Comparee(?)》(比較文學評論)といふ雑誌の「プウシキン特輯號」といふのがあるのを見かけたことを、友人の神西清に話しましたが、是非それを欲しい由、申しますので、貴兄にお願ひしでもしそれがまだ京屋にあったら、大至急で神西の方へ直接本屋から代金引換にてお迭り下さるやうにして頂きたいと存じます 宛名は
 神奈川縣鎌倉町二階堂八三六 神西清
であります お暑いところ恐れ入りますが是非お頼みいたします 寛は神西も創元社の叢書でプウシキンを引き受け、何でもこの秋に取りかからねばならないのださうです…」

 神西は既に鎌倉に住んでいます。東京で本が見つからず、京都の古本屋で見つかるとは凄いですね。本のタイトルがまた凄いです。

写真の右側端に本能寺表門の石柱があります。この本能寺表門の左側四軒目に京屋がありました。現在の四軒目は御池通りに出てしまいます。御池通りの道の上と言った方がよいとおもいます。御池通りは昭和20年に南側に50m道路に拡張しています(北側には市役所があった)。この拡張に飲み込まれてしまったとおもわれます。

 「堀辰雄を歩く」は続きます!!


堀辰雄の京都地図-1-(立原道造の京都地図と連携)


堀辰雄の嵯峨野地図-2-(谷崎潤一郎の細雪から流用)


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在、奈良を尋ねる
7月 帰京後、信濃追分に滞在
11月 油屋焼失
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
5月 神西清と奈良を訪問、日吉館に泊る
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在
10月 奈良に滞在
12月 再び奈良に滞在、神戸経由で倉敷に向かう
昭和17年 1942 ミッドウェー海戦 38  
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 29 4月 婦人と木曽路から奈良に向かう
5月 京都に滞在、奈良も訪問
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
40 9月 追分油屋隣に転居
         
昭和26年 1951 サンフランシスコ講和条約 47 7月 追分の新居に移る