<知恩寺>
堀辰雄は昭和16年6月、突然京都を訪ねています。彼の書簡で見ると、6月13日に京都百万遍より大山定一宛に出したのが京都での最初の書簡で、最後は7月6日の葛巻義敏宛です。7月10日付で向島発の書簡がありますので、その間に帰京したものとおもわれます。7月1日から京都では祇園祭が始まります。宵山は14日ですので、それを見ずに帰ったことになります。仕事のためか、体調が悪くなったかのどちらかだとおもいます。
まずは「堀辰雄全集 第八巻 書簡」の中で昭和12年6月16日の書簡からです。
「232 六月十六日 京都百万遍龍見院より
神西清宛(はがき)
急に思ひ立って数日前京都に来た一月許り滞在する 少し身體の惑いところを無理して来たので、こちらでもまだ半病人みたいな暮らしをしてゐる 早く元気になって方々に飛び廻りたい君もやって来ないかなあ」
関西方面に旅行したのは昭和6年末に神戸の竹中郁を訪ねたのが初めてではないかとおもいます。
★左上の写真は百万遍の交差点横にある知恩寺の表門です。浄土宗七大本山の寺院で、「百万遍知恩寺」(ひゃくまんべんちおんじ)と称し、単に「百万遍」とも通称するそうです。この名前は京都に疫病が蔓延し、後醍醐天皇の勅により七日念仏百万遍を行い疫病を治めたことから「百万遍」の号が下賜されています。又、このお寺は三回場所を移転しています。一回目は、1382年(弘和2年:永徳2年)相国寺が建立される際に一条小川に移されています(京都市上京区一条通り油小路上ルに元百万遍町の町名が残る)。二回目は、1592年(文禄元年)に豊臣秀吉の寺地替えにより土御門(寺町通り荒神口上ル)に移されています。三回目は、江戸時代の1662年(寛文2年)で、現在の北白川の地に移転しています。(ウイキベディア参照)。京都大学の直ぐ横にあります。堀辰雄はこの知恩院の塔頭のひとつである龍見院に宿を見つけます。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)