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●堀辰雄の「旅の絵」を歩く V
    初版2010年5月1日  <V01L02>

 『堀辰雄の「旅の絵」を歩く』の続編を引き続いて掲載します。前々回は神戸に到着してから、中山手通りの”HOTEL ESSOYAN”に宿泊するまで、前回は元町通りからヴェルネ・クラブ、英国三番館を中心に掲載しました。今回は最終回として、トアロードから異人館を歩きます。




「南京町」
<南京町>
 前回の最後は”トンプソン商会”でしたが、今回の最初は堀辰雄の「旅の絵」に従って、南京町を紹介します。神戸の南京町は横浜とは規模が全く違います。200m程の通りの両側のみです。
「…それからまた、私たちはその窓から電話やタイプライタアの強請ったり吃ったりする音の聞えてくる商館の間を何となくぶらぶらしてみたり、今では魚屋や八百屋ばかりになった狭苦しい南京町を肩をすり合せるようにして通り抜けたりしたのち、今度はひっそりした殆ど人気のない東亜通りを、東亜ホテルの方へ爪先きあがりに上った。……」。
 堀辰雄と竹中郁は西町の”トンプソン商会”の後、旧居留地の中を歩いたのだとおもいます。その後、南京町を通って、鮎川筋の「画廊(大塚銀次郎の画廊)」を通って、トアロードに向かいます。谷崎潤一郎の「細雪」にも南京町の”東雅楼”が登場しています。

写真は大丸神戸店の前の南京町入口です。元町通りの入口の左側になります。小さな南京町ですが、今はかなり活気がある南京町になっています。大森一樹監督で映画化された村上春樹の「風の歌を聴け」でも登場しますので、一度歩いてもよいとおもいます。

「トアロード」
<東亜通り>
 有名なトアロードです。堀辰雄の「旅の絵」では”東亜通り”として書かれています。谷崎潤一郎の「細雪」では”トーアロード”と書かれています。「細雪」は昭和18年以降ですから、堀辰雄が神戸を訪ねた昭和7年とは少し時代が違うようです。
「 …今度はひっそりした殆ど人気のない東亜通りを、東亜ホテルの方へ爪先(つまさ)きあがりに上った。その静かな通りには骨董店だの婦人洋服店だのが軒なみに並んでいる。ヒル・ファルマシイだとか、エレガントだとか云う店は毎年軽井沢に出張しているので私には懐しく、ちょっとその前を素通りしかねた。とあるネクタイ屋のショオウィンドに洒落れたネクタイが飾ってあるので近づいて行って、覗こうとしたら、何処からか犬が私たちに吠えついた。あたりを見廻しても、犬なんかいないのだ。……」
 トア・ロードの描写については谷崎潤一郎の「細雪」に一歩譲ります。ここで、谷崎潤一郎の「細雪」に登場して貰います。
「…百貨店、化粧品店、洋品店等の書付を見ると、妙子の買い物が大部分を占めているのであったが、お春は図らずも、去年の十二月に妙子が神戸のトーアロードのロン・シン婦人洋服店で掃えた駱駝のオーバーコートと、今年の三月頃に同じ店で掩えたヴィエラのアフタヌンドレスの勘定書があるのを見付けた。駱駝の方は、表と裏と色の違う織り方になっている、厚くて滴も大変軽い地質のもので、表は茶、裏は非常に花やかな赤であったが、当時妙子は、この外套は三百五十円かかった。…」
 ここに登場する「ロン・シン婦人洋服店」は関東大震災までは東京のお店で、震災を避けて神戸にお店を出したのだとおもいます。お店について詳しくないとここまで書けませんね。昭和初期のトアロードの写真を掲載しておきます。

写真は北長狭通三丁目付近から山の手に向かってトアロードを撮影したものです。現在はトアロード(TOR ROAD)が正式名称のようです。

「聖公教会跡」
<聖公教会>
 谷崎潤一郎は神戸を異国情緒漂う華麗な町として書いていますが、堀辰雄は素直に、見たままを書いています。大衆文学にはなれないですね。
「 …聖公教会の門のところに、まるで葡萄の房みたいに一塊りに、乞食どもがかたまっている。私たちがそれを不思議そうに見過ごしながら、それからすこし急な坂を上ってゆくと、今度は一軒の立派な花屋の前に、何台も何台も、綺麗な自動車ばかりがかたまっている。その時やっと教会と乞食と花とが私の頭のなかで唐草模様のように絡み合って、私に、今夜がクリスマス・イヴであるのを思い出させた。……私はそこでT君の方へふりかえりながら言った。
「これから外人墓地へでも行ってみようか?」……」

 ここで登場する”聖公教会”はトアロードの中山手通り手前の左側にあった教会です。空襲で焼けてしまって、再建もされなかったようです。この教会の名前は英語読みでは”オール・セント・チャーチ”です。若杉慧が「須磨・明石・六甲の旅」の中で、小松益喜を引用しています。
『オール・セント・チャーチ
「戦火にかかって焼失した教会ほ、このオール・セソト・チャーチだけだった。木造だったのでひとたまりもなかったわけだ。焼け残った教会も、ステンド・グラスは大半を失ってはいるが、天主堂、栄光教会、神戸教会、青年キリスト教会の四つは、一応原型をとどめている。それは、戦後雨後の筍のように出来たアメリカ風教会など足許にも寄れないような華麗荘厳なものである。焼失したオール・セソト・チャーチも、信仰の対象とするにふさわしい美しい教会であった。三角のトンがり帽に四枚の鎧戸を持ち、その下の壁は、凡て素焼の橙色瓦で覆われていた。最前部は地味な色の赤煉瓦だった。庭には西洋の極楽花である爽竹桃が一面に咲き乱れていた。この教会の裏側一帯は華僑の住家だったし、教会の下には同文書院があった。一日、この街道を通るとイー、ファソ、サソ、スウと数をよむ声が聞えるので、中をのぞいてみると、薄暗い部屋の中でアラビア数字をきれいにきちんと筆で書いているので驚いた。中国人が字がうまいのも、かくまで徹底して筆を使うからだと思ったことである。」(小松益喜)』

 この教会は小松益喜の絵にも登場していますが、昭和初期のトアロードの写真の中にも登場しています(小さい三角屋根が微かに見えますが)。神戸を撮影した戦前の写真家、中山岩太の写真にも登場しています。

写真の右側のマンションのところが”オール・セント・チャーチ”跡です。この場所が判明したのは、上記に書かれている”同文書院”から判明しました。マンションの左側、一軒目と二軒目(ホテル)の所に戦前の同文書院がありました。

「ハンター邸跡」
<ハンター邸>
 この後、堀辰雄と竹中郁は神戸の山の手、異人館街を歩きます。昭和初期ですから、山の手界隈はかなり多くの異人館があったのではないでしょうか。それにしても坂道を上るのは疲れます。
「…いつの間にか私たちの歩いている山手のこのへんの異人屋敷はどれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。…
…私は私で、こんなユトリロ好みの風景のうちに新鮮な喜びを見出している。こんな家に自分もこのまま半年ばかり落着いて暮らしてみたいもんだなあと空想したり、こういうところでその幼時を過したT君のことを羨ましがったりしながら、だんだん狭くなってくる坂を上ったり下りたりしているうちに、今度はT君の方が首をかしげだした。どうやら彼自身のこんがらがった幼時の思い出をほごすのにあんまり夢中になり過ぎていたT君は、いつの間にやら、私たちの目指している外人墓地への方角を間違えてしまっているらしかった。その挙句に漸っと彼は、私たちが飛んでもない見当ちがいな、或る丘の頂きに上って来てしまったことを、気まり悪そうに私に白状した。そうして私たちの上って来たやや険しい道は、一軒の古い大きな風変りな異人屋敷――その一端に六角形の望楼のようなものが唐突な感じでくっついている、そして棕梠だのオリイブだのの珍奇な植物がシンメトリックな構図で植わっている美しい庭園をもった、一つの洋館の前で、行きづまりになっていた。…」
 
ここに登場する異人館は後に竹中郁が堀辰雄全集の月報のなかで”堀君が見惚れて佇んだハンター邸”と書いているのと、上記に”一つの洋館の前で、行きづまりになっていた”とも書いていますので、ハンター邸に間違いないとおもいあます。
 
写真の中央の上の段の先、突き当たりにハンター邸がありました。上記の写真の塀にハンター邸の印のHが埋め込まれています。拡大写真を掲載します。当時のハンター邸の写真と、王子動物園に移設されたハンター邸の写真を掲載します。

「伝統的建造物16」
<異人館>
 若杉慧の「須磨・明石・六甲の旅」の中では、竹中郁は堀辰雄が好んだ異人館として、もう一軒紹介しています。
「…神戸市でもこの北野町界隈がいちばんうまく焼け残った。戦前神戸の面影をとどめた唯一の場所といってもいいくらいだ。急傾斜なので自動車も登ってこない。道も不規則にまがりくねったむかしのまま、空も三十年前と同じような曇りかたである。
「この家だよ、堀君がまじめな顔をしてこの家ぼくに貸してくれないかなあといって、しばらく立って眺めていたのは」
 竹中君もなつかしそうに言って立ちどまった。「こへいの塀や門は改造してるが、屋根や鎖床はむかしのままだ」…」

 堀辰雄が借りたいと言った異人館です。この異人館の場所がなかなか分からなかったのですが、若杉慧の「須磨・明石・六甲の旅」の掲載された写真を元に、探しましたら見つけることができました。
 
写真が堀辰雄が借りたいといった異人館です。ハンター邸より少し下になります。上記のハンター邸跡の写真を撮影した場所の反対側になります。

「戦前のユーハイム」
<ユーハイム>
 戦前の神戸のお話では、必ず登場するお店です。本当に有名だったようです。
「…夕方、私たちは下町のユウハイムという古びた独乙(ドイツ)菓子屋の、奥まった大きなストーブに体を温めながら、ほっと一息ついていた。其処には私たちの他に、もう一組、片隅の長椅子に独乙人らしい一対の男女が並んで凭りかかりながら、そうしてときどきお互の顔をしげしげと見合いながら、無言のまんま菓子を突っついているきりだった。その店の奥がこんなにもひっそりとしているのに引きかえ、店先きは、入れ代り立ち代りせわしそうに這入ってきては、どっさり菓子を買って、それから再びせわしそうに出てゆく、大部分は外人の客たちで、目まぐるしいくらいであった。それも大抵五円とか十円とかいう金額らしいので、私は少しばかり呆気(あっけ)にとられてその光景を見ていた。それほど、私はともすると今夜がクリスマス・イヴであるのを忘れがちだったのだ。…」
 谷崎潤一郎の「細雪」にも登場しています。当時はバームクーヘン等のドイツ菓子は本当にめずらしかったのだとおもいます。ユーハイムはもともと横浜でお店を開いており、関東大震災で、神戸に避難してきてお店を開きます。

写真正面の京町筋の左隣のビルのところが戦前のユーハイムでした。工場もお店の裏側の少し離れたところにありました。

「竹中郁宅跡」
<竹中郁宅>
 今回最後は、堀辰雄が訪ねた竹中郁宅です。”HOTEL ESSOYAN”に数日滞在後、神戸市須磨区の竹中郁宅に移っています。

写真は、須磨区行幸町二丁目付近を撮影したものです。写真には写っていませんが、左側はJR山陽本線になります。写真の先に天神橋が小さく写っています。戦前の竹中郁宅は正面あたりになります。空襲でこの付近もぎりぎりで焼けており、戦後は山陽電鉄月見山駅近くに住まわれていたようです。

竹中郁については、もう少し書きたいのですが、時期を見て加筆したいとおもいます。

堀辰雄の『「旅の絵」を歩く』は今回で終了です。


堀辰雄の神戸地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在




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