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●堀辰雄の「旅の絵」を歩く U
    初版2010年4月23日  <V01L03>

 今回は『堀辰雄の「旅の絵」を歩く』の続編を掲載します。前回は神戸に到着してから、中山手通りの”HOTEL ESSOYAN”に宿泊するまででしたが、今回は神戸市内を歩きます。元町通りからヴェルネ・クラブ、英国三番館を中心に掲載しました。次回も引き続き掲載する予定です。




「元町通り」
<元町通り>
 堀辰雄は神戸の中心街である中山手通り二丁目の「HOTEL ESSOYAN」に宿を見つけ、宿泊します。翌日の昼頃に、竹中郁が迎えにきます。神戸市内の異国情緒ある町並みと食を楽しみます。
「… 正午ごろ、T君が私を誘いに来てくれた。それから二人でホテルを出ると、一時間ばかり古本屋だの古道具店だのをひやかしたのち、海岸通りのヴェルネ・クラブに行った。……」。
 ここからは、私の推定です。堀辰雄と竹中郁が歩いた道を辿ってみました。先ず、”古本屋だの古道具店”です。次に訪ねた”海岸通りのヴェルネ・クラブ”から考えると、元町通りを西に向かったのだとおもいます。古道具屋で有名なのは、菊田一夫の「がしんたれ」で登場するお店、元町五丁目の「珍物屋」です。菊田一夫が幼い頃に働いていたお店です。現在は中華料理屋になっていました。まとめると、二人は「HOTEL ESSOYAN」からトアロード(名前には諸説あります)を大丸前まで下り、元町通りを一丁目から六丁目までを”古本屋だの古道具店”を見ながら歩いたのだとおもいます。元町六丁目の角にあった三越神戸店にたどり着きます。

写真は大丸神戸店の前、元町通り、元町一丁目の入り口です。元町通りは元々西国街道の街道筋で、そのまま商店街になっています。一丁目から六丁目まであり、約1.1Km程が商店街になっていますが、5〜6丁目付近は寂れて、寂しいかぎりです。

「ヴェルネ・クラブ跡」
<ヴェルネ・クラブ>
 竹中郁は堀辰雄を連れて元町通りを西に向かい、レストランにつれていきます。最初からレストランを決めていて、元町通りを西に向かったのだとおもいます。正午過ぎから一時間歩いてレストランですから、昼食ですね。
「 …正午ごろ、T君が私を誘いに来てくれた。それから二人でホテルを出ると、一時間ばかり古本屋だの古道具店だのをひやかしたのち、海岸通りのヴェルネ・クラブに行った。しゃれた仏蘭西料理店だ。そこの客は大概外国人ばかりだった。私たちが一隅の卓で殻つきの牡蠣を食っていると、兎の耳のようにケープの襟を立てた、美しい、小柄な、仏蘭西女らしいのが店先きにつと現われて、ボオイをつかまえ、大事そうに両手でかかえている風呂敷包を示しながら、何やら片言まじりの日本語で喋舌っている。……」
 昼食に訪ねたレストランは「ヴェルネ・クラブ」でした。このレストランの場所については、なかなか分からなかったのですが、神戸を描いて有名な小松益喜の絵の中に「ヴェルネ・クラブ」の絵を見つけることができました。小松益喜ご本人が書かれたこの絵の解説の中に、「もと三越の南側にあったうまい店である。よく小磯良平氏につれっていってもらった。フランス人の、デップリ太った叔父さんと、小磯氏はフランス語で親しそうに話していた。」と書かれていました。竹中郁と小磯良平は中学の同級生で、一緒にパリ留学した友人です。竹中郁がこのレストランを知っていて当然のはずです。

写真の左側の建物が三越神戸支店の跡です。三越神戸支店は昭和2年(1927)開店で、昭和14年には南側に増床していますので、推定ですが、増床した南側に「ヴェルネ・クラブ」があったようです。ですから、昭和14年前には無くなっていたのではないでしょうか。当時の三越神戸支店付近写真と、海岸通り側から撮影した写真を掲載しておきます。

「ヴェルネ・クラブ」
<小松益喜の「ヴェルネ・クラブ」>
 このレストラン「ヴェルネ・クラブ」についてはユーハイム婦人の書かれた「ユーハイム物語」の中にも登場しています。
「…自分の娘のようにということでは、本当に家族の一人のようにして、よくオリエンタルホテルや、西町の興銀ビルのとなりの地下にあったフランス人経営のヴェルネ(バーネットクラブ)その他に夫妻で食事に連れていった。マナーを身につけるようにということである。…」
 
ここに”ヴェルネ(バーネットクラブ)”の名前が登場しています。堀辰雄は”ヴェルネ・クラブ”と書きましたが、ユーハイム婦人は”バーネットクラブ”と書いています。フランス語と英語の読み方の違いかとおもっています。西町の興銀ビルのとなりの地下”ですから、大丸の南側になります。一瞬、三越と大丸を間違えたのかなとおもったのですが、左の絵から判断すると、地下ではありませんので、やはり三越神戸支店南側が正しいようです。推定ですが、三越神戸支店が増床する昭和14年前に、大丸の南側に移転したのだと推定しています。
 
写真は小松益喜の「ヴェルネ・クラブ」です。”西町の興銀ビルのとなりの地下”については、昭和12年の神戸市商工年鑑に「バーネットクラブ」が掲載されていました。神戸区明石町31明海ビルです。ビルは立て直されていますが、現在のビルの写真を掲載しておきます。

「メリケン波止場」
<波止場>
 神戸に来れば、やはり波止場ですね。竹中郁は堀辰雄を海岸通りの波止場に連れていきます。
「私たちはそれからマカロニイやら何やらを食べて、その店を出た。そうして私たちはすぐ近くの波止場の方へ足を向けた。あいにく曇っていていかにも寒い。海の色はなんだかどす黝くさえあった。おまけに私がそいつの出帆に立会いたいと思っていた欧洲航路の郵船は、もうこんな年の暮になっては一艘も出帆しないことがわかった。私の失望は甚だしかった。そうしてただ小さな蒸汽船だけが石油くさい波を立てながら右往左往しているきりだった。ときどき私たちとすれちがって行く仏蘭西の水兵たちの帽子の上に、ポンポン・ルウジュが、まるで嬉しがっている心臓のように、ぴょんぴょん跳(は)ねていたが、それが私の沈んだ心臓と良い対照をした。…」
 ここも推定ですが、竹中郁が堀辰雄を連れていった波止場はメリケン波止場ではないかとおもいます。可能性としては、海岸通りですから中突堤でもよいのですが、やはりメリケン波止場ではないかとおもいます。当時の写真を掲載しておきます。

写真は現在のメリケン波止場です。メリケン波止場から、海岸通りを見ています。当時の写真と見比べて下さい。当時の海岸通りの風景は現在の上海のバンドそのままです。

「英三番館跡」
<海岸通りの何とかいう薬屋>
 今週最後は、”海岸通りの何とかいう薬屋”です。この薬局については、居留地に近かったこともあり、詳細に分かっています。
「 …海岸通りの何とかいう薬屋のショオウィンドを覗いたら、パイプやなんかと一緒に五六冊、英吉利語の本が陳列されてあった。そのなかにふと海豚叢書の「プルウスト」を見つけたので、ゆうべの読みづらかったハイネの詩集を思い出しながら、その薬屋のなかへ這入ってその小さな本を買った。T君の話では、この店にはときどき随筆物で面白い本が来るのだそうだ。…」。
 ここで最初に登場すのは、小松益喜の絵「英三番館」です。壁に会社名等が書かれており、商売の内容が分かります。”J.L THOMPSON&Co. DISPENSING CHEMISTS.”と書かれており、直訳すると、”トンプソン商会、調剤(薬剤)師”となります。このお店で堀辰雄が買った本が「プルウスト」となる訳です。

写真は海岸通りのメリケン波止場前から西町方面を撮影したものです。少し角度は違いますが、当時の写真を掲載しておきます。この当時の写真を見ながら、神戸新聞に掲載された小松益喜の「神戸異人館今昔、居留地と西町風景(焼失)」を読むと良くわかります。
「…左側の三階建、二階建、二階建の三軒見えている街並の一番奥の二階建の壁看板の家は、私が最とも好んで描いた家である。私はここで八年間、午前中はこの町で過ごしたのである。…」
 ”一番奥の二階建の壁看板の家”がトンプソン商会となります。もう一人、神戸を撮影した戦前の写真家、中山岩太が「英三番館」を撮影した写真がありました。これらから、英三番館(トンプソン商会)の場所を特定すると、写真正面のビルの所に洋館が三軒建っており、手前から、三階建、二階建、二階建となっていたようです。英三番館(トンプソン商会)は一番右端になります。写真左に写っているビルは郵船神戸支店ビルです。屋根を除いて当時のまま残っています。

今週はここまでです。まだまだ続きます。


堀辰雄の神戸地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在




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