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●堀辰雄の「旅の絵」を歩く T
    初版2010年4月9日  <V01L02>

 私事都合で3ヶ月程休んでいましたが、4月9日から再開しました。今回は『堀辰雄の「旅の絵」を歩く』を掲載します。堀辰雄は昭和7年12月末、体調が余り良くないのにもかかわらず、神戸を訪ねています。友人である竹中郁の出版記念会に参加するためでした。


「旅の絵 堀辰雄」
<「旅の絵」 堀辰雄>
 堀辰雄は昭和7年12月末、体調が余り良くないのにもかかわらず、神戸を訪ねています。友人である竹中郁の出版記念会に参加するためでした。堀辰雄はこの時の訪問を「旅の絵」として後に書いています。今回はこの「旅の絵」に従って神戸を歩いてみました。不明な所等は下記に掲載の本も参照しています。
 堀辰雄の「旅の絵」の書き出しです。
「 竹中郁に
 ……なんだかごたごたした苦しい夢を見たあとで、やっと目がさめた。目をさましながら、私は自分の寝ている見知らない部屋の中を見まわした。見たこともないような大きな鏡ばかりの衣裳戸棚(いしょうとだな)、剥(は)げちょろの鏡台、じゅくじゅく音を立てているスティム、小さなナイト・テエブルの上に皺(しわ)くちゃになって載っている私のふだん吸ったことのないカメリヤの袋(私はそれを何処の停車場で買ったのだか思い出せない)、それから枕(まくら)もとに投げ出されている私の所有物でないハイネの薄っぺらな詩集、――そう云うすべてのものが、ゆうべから私の身のまわりで、私にはすこしも構わずに、彼等の習慣どおりに生き続けているように見えた。今しがた見たことは確かに見たのだが、どうしても思い出せない変にごたごたした夢も、それまで自分はぐっすり眠っていたのだという感じを私に与えはしているものの、同時に、まるで他人の眠りを借りていたかのような気にも私をさせないことはなかった。………」

 上記は堀辰雄全集の中の「旅の絵」からです。「旅の絵」はこの堀辰雄全集掲載以外は、写真掲載の新潮文庫「燃ゆる頬・聖家族」の中に掲載されているのみです。ただ、堀辰雄全集と新潮文庫とでは書き出しが違います。一番最初に書かれている”竹中郁に”が新潮文庫には書かれていません。理由ははっきりしません。「旅の絵」は竹中郁を訪ねた話なのですが、不思議です。
初出:「新潮」 昭和8年(1933)9月号
初収単行本:「物語の女」山本書店 昭和9年(1934)9月1日

写真は新潮文庫の「燃ゆる頬・聖家族」です。この中に「旅の絵」が掲載されています。新潮文庫、昭和22年(1947)11月30日発行です。現在は絶版になっているようです。

「わたしのびっくり箱」
<「私のびっくり箱」 竹中郁>
 堀辰雄が訪問した神戸の竹中郁も、後に、この時のことについて書いています。堀辰雄が有名になったので、堀辰雄全集の月報等に書かされていたようですが、エッセイとしても地元の「神戸っ子」等に書いています。竹中郁は昭和57年3月に亡くなられますが、その後、これらのエッセイをまとめて足立巻一が「私のびっくり箱」として出版しています。
「私のびっくり箱」の中の”堀辰雄の記念地”の書き出しです。
「 小説家の堀辰雄が初めて箱根をこえて関西の土をふんだのは昭和七年十二月の二十三日の夜だった。元町の三丁目浜側の「藤屋」 という洋菓子店の喫茶室からわたくし方へ電話をしてきて、いま到いたところだ、なんとか宿をきめたいから出てきてくれと電話をかけてきた。…」
 竹中郁は堀辰雄の友人と言うよりは、小磯良平の友人として有名で、昭和初期、小磯良平と一緒にパリに留学しています。又、竹中郁は詩人として関西では、かなり有名でした。

写真はのじぎく文庫の「私のびっくり箱」です。昭和60年神戸新聞出版センター発行ですから、絶版になっているかもしれません。地元を知る人にとってはかなりおもしろい本ではないかとおもいます。

「消えゆく幻燈」
<「消えゆく幻燈」 竹中郁>
 もう一つ、竹中郁のエッセイをまとめたものがあります。自身のことや神戸について書かれたものをまとめたのが「私のびっくり箱」なら、詩や美術についてまとめたのが「消えゆく幻燈」です。ただ、こちらにも堀辰雄について書かれた、エッセイが記載されています。やはり堀辰雄について書かれたエッセイは人気があるようです。
「消えゆく幻燈」の書き出しです。
「…さて、私は実はこの場所をかりて、堀辰雄君との交友をしるしたいのが念願であった。
堀と初めて会ったのは、昭和二年七月吉、東京田端なる芥川さんのお宅に於てであった。
なぜそんなにその日まで判然と記憶しているかと云うとその二週間のちの二十四日にはそこのあるじの芥川さんが自決されて、…」

 「私のびっくり箱」より堀辰雄に関してはこちらの方がおもしろいかもしれません。ページ数もこちらの方が多いです。
 
写真は編集工房ノアの「消えゆく幻燈」です。先にも書きましたが、竹中郁の詩、小説、美術についてまとめたものがこの本になります。稲垣足穂、三好達治、室生犀星等についても書かれていますので、関西以外の方でもおもしろく読むことができるとおもいます。

「神戸の本棚」
<「神戸の本棚」植村達男>
 竹中郁が亡くなってからは神戸での堀辰雄について、書かれる方はいなかったのですが、植村達男さんが、堀辰雄の「旅の絵」と竹中郁のエッセイを参照しながら、堀辰雄の神戸を書いています。なかなかおもしろい、エッセイになっています。
「神戸の本棚」、”堀辰雄と竹中郁”の書き出しです。
「 昭和七年十二月二十三日、堀辰雄は詩を通じての友人竹中郁の詩集『象牙海岸』出版記念会出席のため神戸を訪れた。昭和五年十月のひどい喀血、翌昭和六年四月の長野県富士見高原療養所入院(六月退院)のあとで、昭和七年秋には定期的に発熱をみるなど堀辰雄の体調は良くない。病躯を押しての神戸行きは、フランス帰りの竹中郁への友情と、当時
ヨーロッパ航路の玄関であった神戸のエキゾチズムにひたりたい気拝から敢行したものであろう。…」。

 より詳細に神戸での堀辰雄を書いています。

写真は勁草出版サービスセンターの「神戸の本棚」です。昭和61年発行ですからこちらもかなり古い本になります。

「須磨明石六甲の旅」
<「須磨・明石・六甲の旅」若杉慧>
 もう一冊、神戸の堀辰雄について書いた本を見つけました。若杉慧が書いた「須磨・明石・六甲の旅」です。昭和36年に書かれた観光案内なのですが、執筆者の若杉慧は、パリ帰りの竹中郁が昭和7年に出版した「象牙海岸」の出版記念会に出席者した中の一人だったのです。若杉慧は竹中郁を誘って、堀辰雄と竹中郁が歩いた神戸の町を歩きます。
「須磨・明石・六甲の旅」の”旅の絵めぐり”からです。
「…「もしもし竹中君……ぼくです、しばらく、……おとといこちらに来ました。ええ、ありがとう。ところできみこの二、三日ひまはありませんか」
 − あ、ちょうどいま神戸に出ようとしてるとこや、すこし買物があってね
「じゃあ会いましょう、……どこがいいです? きみの都合のいいところ」
 − どこでもいいが‥…じゃあユーハイムにしようか
 焼かれたあとのユーハイムは生田神社の西門前に移転新築していることをきいて、そこの二階に行って私は待った。…」。

 このような観光案内本に、”堀辰雄の神戸”について書いても売れないのではないかとおもいます。ただ昭和36年出版ですから、当時は堀辰雄と書くと人気があったのかもしれません。上記に書かれた”焼かれたあとのユーハイムは生田神社の西門前に移転新築”跡の写真を掲載しておきます(谷崎潤一郎が通った寿司屋「又平」の右隣になります、残念ながら「又平」は閉店していました)。この後、ユーハイムは元町一丁目に移ります。

写真は秋元書房のトラベル・シリーズ「須磨・明石・六甲の旅」です。表紙には堀辰雄の”ほ”の字もありません。昭和36年発行です。


堀辰雄の神戸地図(谷崎潤一郎の地図を流用)


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在



「神戸駅」
<神戸駅>
 参考図書も出そろいましたので、ここから堀辰雄の「旅の絵」を歩いてみます。先ずは「旅の絵」の書き出しからです。
「… 小さなトランクひとつ持たない風変りな旅行者の一種独特な旅愁。――私はさっぱり様子のわからない神戸駅に下りると、東京では見かけたことのない真っ白なタクシイを呼び止め、気軽に運賃をかけ合い、そこからそうしつけている者のように、元町通りの方へそれを走らせた。もっとも通行人を罵る運転手の聞きなれないアクセントは私をちょっとばかり気づまりにさせたが。………」。
 先ず、JR神戸駅(当時は)堀辰雄が神戸を訪ねたのは昭和7年の12月末ですから、神戸駅は既に高架化されています(神戸地区の国鉄線の高架化は昭和6年10月)。ですから、堀辰雄が降りた神戸駅は現在の神戸駅となるわけです。当時の神戸駅前の写真を掲載しておきます。

写真が現在のJR神戸駅です。改築はされていますが面影は当時のままです。小さなトランクを下げて神戸駅前に立ちましょう。そしてタクシーに……

「藤屋跡」
<藤屋喫茶店>
 堀辰雄は神戸駅からタクシーで東に向かいます。神戸駅から相生橋跡のガードをくぐり、三越神戸店(昭和3年開店)の左の元町通り(元町六丁目)を東に向かいます。
「…元町通り。店店が私には見知らない花のように開いていた。長い旅のあとなので、すっかり疲れきり、すこし熱気さえ帯びていたけれど、それでも私は見せかけだけは元気よくコツコツとステッキを突きながら、人々の跡から一体どんな方角へ行くのかわかりもせずに歩き続けていた。今夜何処へ泊ったものやらまだ目あてのない旅行者で自分があることに誰からも気づかれまいと思って……。私はとある珈琲店の中へ気軽そうにはいって行った。ただその店の名前が東京で私の行きつけている珈琲店の名前に似ていたばっかりに。私はそこから須磨のT君のところへ電話をかけた。T君はすぐ私のいる店へ来ると言った。そうして私がまだ一杯のオレンジエードを飲んでしまわないうちに、そのT君が元気よくはいって来た。彼はベレ帽をかぶり、なんだか象の皮のような外套(がいとう)を着込んでいた。…」。
 どうやら、元町三丁目辺りでタクシーを降りたようです。当時もこの付近は凄い繁華街だったととおもいます。この喫茶店で堀辰雄はTに電話かけています。昭和7年に自宅に電話があったとはすごいです。上記に書かれているTとは竹中郁のこととなるわけです。

写真は現在の元町三丁目の西端から東方面を撮影したものです。藤屋喫茶店は戦後も営業していましたが、現在は無くなっています。”ロンドン”という名のパン屋さんになっていました。正確には写真の右から二番目の所です。当時の元町三丁目の写真を掲載しておきます(藤屋より少し東寄り)。

「HOTEL ESSOYAN跡」
<HOTEL ESSOYAN>
 堀辰雄から呼び出されたT(竹中郁)は元町三丁目の藤屋喫茶店に向かいます。そこから二人は堀辰雄が宿泊するホテルを探します。旅館でなくてホテルを探したのは、やはり神戸の異国情緒をもとめたのでしょうか!!
「 それから私たちは薄ぐらい山手通りを、狭い坂を上ったり下りたりしながら、小さなホテルから小さなホテルへと歩き廻っていた。しかし私の気に入ったホテルはひとつも無かった。私たちは再び中山手通りへ出た。しかしそのだだ広いだけ、かえって薄ぐらい感じのする電車通りには、ほとんど人影がなかった。T君が突然立ち止まった。そうして電車通りの向う側にある一つの赤ちゃけた小ぢんまりした建物を指さした。その家の上の、煤けたなりに白白とした看板には、
 HOTEL ESSOYAN
 という横文字が、建物と同じような赤ちゃけた色で描かれてあるのが、ぼんやりと読めた。遠くからそれを一目見たきりで、その小さなホテルは私の気に入った。…」。

 昭和7年の神戸市商工年鑑に”社長エッチ、エスディ、イソヤン、中山手通二丁目136”を見つけました。ホテル名は記載が無かったのですが、旅館・貸席の項目にありましたので間違いないとおもいます。

写真正面左側先、中山手通二丁目、太陽生命ビルの左隣になります(詳細の写真です、空き地と左隣のビルの所)。この場所については、竹中郁の「私のびっくり箱」に書かれていたヒントが参考になりました。「…中山手通り生田神社裏に開店した「ふじい」というレストオランへ開店祝いに招かれて出席した。神社裏の大きな消防署の建物から東へ三四軒目の前庭をかかえた建物がそれだ。そこの二階の会場へみちびかれた途端、窓からみえる生田の森の繁みをみた。それとその家の占める土地の広さ。その二つの条件から、ここはエソヤンホテルの跡にまちがいないと睨んだ。…」。上記に書かれている”大きな消防署”とは生田消防署のことで、阪神淡路大震災で場所が変わっています。写真の右側ビルのところが生田消防署跡です。ですから、ここから左に三四軒先になるわけです。中山手通二丁目の当時の写真を掲載しておきます。

今日はここまでです。『堀辰雄の「旅の絵」を歩く』は後、二回位掲載にかかりそうです。



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