<軽井沢駅>
今回は「堀辰雄の軽井沢を歩く」の三回目になります。堀辰雄の軽井沢を全て網羅するには、後二回くらい掲載しないと終わりそうにありません。まずは堀辰雄の「雉子日記」の書き出しからです。
「 去年の暮にすこし本なんぞを買込みに二三日上京したが、すぐ元日にこちらに引っ返して来た。汽車がひどく混んで、私はスキイの連中や、犬なんぞと一しょに貨物車に乗せられてきたが、嫌いなスティムの通っていないだけでも、少し寒くはあったが、この方がよっぽど気持が好いと思った。
すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。……
…膝まで入ってしまうような雪の中を、停車場まで歩いて、それから汽車に乗って、軽井沢に来たが、ここでも軽便を待つのがもどかしく、勝手知った道なので、近道をしようとして野原を突切った…」
堀辰雄の「雉子日記」は昭和15年発刊ですので、鎌倉から婦人の実家に転居した頃だとおもいます。鎌倉の深田久弥宅で喀血したから2年だっていますので、かなり体は回復していたとおもいます。
★上記の写真は現在の旧軽井澤駅舎です。綺麗に保存されています。元々は現在の駅舎のところにあったのを移転したのだとおもいます。大正から昭和初期の頃の駅舎の写真を掲載しておきます。
★上記に”軽便を待つ”と書かれていますが、この軽便とは草軽電気鉄道のことです。左の写真は現在の「草軽ターミナル」前です。草軽電気鉄道の新軽井澤駅舎は丁度この付近にありました。戦前は駅前の道が国道18号で、駅前から100m程の所を走っている18号のバイパスはありませんでした。当時の航空写真(昭和21年)を掲載しておきます。残念ながらこの草軽電気鉄道は昭和37年に廃止されています。旧軽井沢駅舎の前に当時の草軽電気鉄道の電気機関車が展示されていますので写真を掲載しておきます。本当におもちゃみたいな電気機関車です。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)