●堀辰雄の軽井沢を歩く V【雉子日記編】
    初版2011年2月19日  <V01L01>

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。今回は「堀辰雄の軽井沢を歩く V【雉子日記編】」です。「雉子日記」に沿って軽井沢を歩いてみました。今回も不明点が多くて調べるのに苦労したのですが、軽井沢銀座「りんどう文庫」さんで教えて頂きました。ありがとうございました。尚、写真撮影は昨年夏から秋にかけてです。




「旧軽井沢駅舎」
<軽井沢駅>
 今回は「堀辰雄の軽井沢を歩く」の三回目になります。堀辰雄の軽井沢を全て網羅するには、後二回くらい掲載しないと終わりそうにありません。まずは堀辰雄の「雉子日記」の書き出しからです。
「 去年の暮にすこし本なんぞを買込みに二三日上京したが、すぐ元日にこちらに引っ返して来た。汽車がひどく混んで、私はスキイの連中や、犬なんぞと一しょに貨物車に乗せられてきたが、嫌いなスティムの通っていないだけでも、少し寒くはあったが、この方がよっぽど気持が好いと思った。
 すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。……
…膝まで入ってしまうような雪の中を、停車場まで歩いて、それから汽車に乗って、軽井沢に来たが、ここでも軽便を待つのがもどかしく、勝手知った道なので、近道をしようとして野原を突切った…」

 堀辰雄の「雉子日記」は昭和15年発刊ですので、鎌倉から婦人の実家に転居した頃だとおもいます。鎌倉の深田久弥宅で喀血したから2年だっていますので、かなり体は回復していたとおもいます。

「草軽電鉄 新軽井澤駅舎跡」
上記の写真は現在の旧軽井澤駅舎です。綺麗に保存されています。元々は現在の駅舎のところにあったのを移転したのだとおもいます。大正から昭和初期の頃の駅舎の写真を掲載しておきます。

上記に”軽便を待つ”と書かれていますが、この軽便とは草軽電気鉄道のことです。左の写真は現在の「草軽ターミナル」前です。草軽電気鉄道の新軽井澤駅舎は丁度この付近にありました。戦前は駅前の道が国道18号で、駅前から100m程の所を走っている18号のバイパスはありませんでした。当時の航空写真(昭和21年)を掲載しておきます。残念ながらこの草軽電気鉄道は昭和37年に廃止されています。旧軽井沢駅舎の前に当時の草軽電気鉄道の電気機関車が展示されていますので写真を掲載しておきます。本当におもちゃみたいな電気機関車です。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「Haus Sonnenschein跡」
<Haus Sonnenschein>
 堀辰雄の「雉子日記」に沿って歩いて行きます。追分から軽井澤にやってきた堀辰雄は、駅前の軽便鉄道(草軽電気鉄道)に乗らず、雪の中を旧軽井沢に向かって歩いて行きます。
 堀辰雄の「雉子日記」のからです。
「… すっかり雪に埋もれた軽井沢に着いた時分には、もう日もとっぷりと暮れて、山寄りの町の方には灯かげも乏しく、いかにも寥しい。そんななかに、ずっと東側の山ぶところに、一軒だけ、あかりのきらきらしている建物が見える。あいつだな、と思わず私は独り合点をして、それをなつかしそうに眺めやった。
 ハウス・ゾンネンシャインと云う、いかめしい名の、独逸人の経営しているパンションが、近頃釜の沢の方に出来て、そこは冬でも開いていると云うことを、夏のうちから耳にしていたが、私がそれを見たのはついこの間のこと、……
…、釘づけになった数軒の別荘の間から、私の前に突然、緑と赤とに塗られた雛型のように美しい三階建のシャレエが見え出した。南おもては一面の硝子張りだが、それがおりからの日光を一ぱいに浴びながら内部の暖気のためにぼうっと曇り、その中から青々とした棕櫚(しゅろ)の鉢植をさえ覗かせている。―― 近づいて標札を見ると、「Haus Sonnenschein」とある。ふん、こいつだなと思って、私はその家の前を何度も振り返りながら、素通りして、裏の山へ抜けようとしかけたが、頭上の大きな樅の木からときおりどっと音を立てて雪が崩れ落ちてくるのに目が開けられないほどなので、又、引っ返してきた。その時ふいに、クリスマスに来たいと言ってきた阿比留信にこんなところに泊まらせてやったら愉快がるだろうと気まぐれに思い立って、そのままずかずかと裏木戸から這入って、台所を覗いて見ると、ストオヴの側で白いエプロンをかけた日本人の若い娘が卓の上に水仙の花を惜しげもなく一ぱい散らかして、いくつかの花瓶(かびん)にそれを活けていたが、私の意を伝えると、きのう主人夫婦も横浜から来たばかりで、何でも、もうクリスマスには大ぜいな客があるように申しておりましたけれども、……まあ、中へおはいりになってお待ち下さい、と人懐こそうに私の方をまじまじと見ながら、そう言い置いて、奥へ引っ込んでいった。私はもうそんなことはどうだっていいんだと云ったような、ぼうっとするような気持で、好い匂いのするストオヴに頬を赤くしながら、真白いエナメル塗りの台所の一隅に片寄せられてある、男と女の長靴から、さかんに湯気が立ちのぼっているのを見入っていた。………」

 ”Haus Sonnenschein”とはドイツ語で、日本語では”太陽の輝くホテル”とでも訳していいとおもいます。

写真は森裏橋から南側のサナトリウムレーン(ささやきの小径)を撮影したものです。右側にサナトリウムレーン(ささやきの小径)の道標があります。この道を少し入った左側に「ハウス・ゾンネンシャイン(Haus Sonnenschein)」がありました(下記の地図を参照)。現在はありませんが、昭和48年頃の写真があります。真偽は不明ですが一応軽井沢の”ハウス・ゾンネンシャイン(Haus Sonnenschein)”として掲載されていました。三階建てですので、辻褄はあいます。

「郵便局の横町」
<郵便局の横町にある理髪店>
 次に堀辰雄の「雉子日記」で登場するのが旧軽井沢銀座通りの”郵便局の横町にある理髪店”です。
 堀辰雄の「雉子日記」のからです。
「…軽井沢の町だって、いまは大抵の店は何処かへ店ごとそっくり荷送されでもしそうな具合に、すっかり四方から荷箱同様の板を釘づけにされている。唯二三軒、うす汚ない雑貨店みたいのが、いまでも店を開いているが、そんな店先にもクレエヴンやペル・メルの罐が店ざらしになっているのは、さすがに軽井沢らしい。郵便局の横町にある理髪店に飛び込んで髭をあたって貰う。南を向いた店先には一ぱい日がさし込んでいる上に、ストオヴを自棄に焚いているので、苦しいくらい熱い。この店は夏場は五つか六つ鏡が並べてあった筈だが、いまはたった二個、―― そうして他の鏡のあった場所は、何処かの別荘のお古らしい、バネの弛んでいそうなベッドが占領している。ここでこの親方は、客の来ない時は昼寝でもしているのだろう。―― 私の向っている凸凹のある鏡には、筋向うの、やっぱり釘づけにされた、そして横文字の看板だけをその上にさらし出している、肉屋と、支那人の洋服屋が映っている。おや、何だか見覚えのある奴が通るぞ。なあんだ、テニス・コオトの番人か。やあ、こんどは自動車が通る。毛唐の奴らが鮨づめになっていやあがる。ふふん、さてはハウス・ゾンネンシャインの連中だな。鏡の中に映らないが、自動車が何か引きずってゆく音がする、何だい? と訊いたら、橇ですよ、と親方は無雑作に答える。…」
 上記に書かれいる郵便局とは、軽井沢郵便局のことで、現在は少し西側に移転しています。当時の郵便局舎は塩沢湖の軽井沢タリアセン内(高原文庫近く)に移築保存されています。当時の軽井沢郵便局舎の写真を掲載しておきます。”クレエヴンやペル・メルの罐”は煙草のことでペル・メルはポールモール(PALL MALL)ではないかとおもいます(推定)。”クレエヴン”は調査不足です。

写真は軽井沢郵便局舎跡の横町です(左側が郵便局舎跡で現在は軽井沢観光会館です)。上記から”理髪店は南を向いている”ので、写真の路地の先の左側にあったはずなのですが、理髪店は右側にありました(戦後のことで戦前はよく分かっていません)。いろいろ調べたのですが、結局、理髪店の詳細な場所は不明でした。

「軽井沢ホテル跡」
<ホテル>
 今回の最後は軽井沢ホテルです。「水車の道」や「聖パウロ・カトリック教会」の名も登場しています。
 堀辰雄の「雉子日記」のからです。
「… それからいそいで理髪店を飛び出すと、きっとゴルフ場へでも行って橇で遊ぶのだろうと思って、そっちへ行って見ようと、まだ雪の大ぶ残っている町の裏側の「水車の道」へはいって聖パウロ・カトリック教会の前まで行きかけたけれど、道は悪し、なんだか面倒くさくなって、その筋向うの裏口からホテルに飛び込んで、お茶を飲まして貰う。勿論、客なんか一人もいない。そこで軽便の出るまで、ホテルの娘と無駄口をききながら、ストオブに噛じりついていた。…」
 この「軽井沢ホテル」は明治35年開業で戦前の昭和16年に廃業しています。昭和16年ですから、戦争が始まる直前です。外人の宿泊客が無くなってきたためでしょう。

写真の路地の正面辺りに軽井沢ホテルがありました。突き抜けると「水車の道」になり、左側に聖パウロ・カトリック教会があります(下記の地図を参照してください)。又、下記の「堀辰雄の軽井沢地図(手書き)」には軽井沢ホテルが書き込まれています。


堀辰雄の軽井沢地図(手書き)


堀辰雄の軽井沢地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
34 1月 帰京
2月 鎌倉で喀血、鎌倉額田保養院に入院
4月 室生犀星夫妻の媒酌で加藤多恵子と結婚
5月 軽井沢835の別荘に滞在、父松吉が脳溢血で倒れる
10月 逗子桜山切通坂下の山下三郎の別荘に滞在
12月 父松吉、死去
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
35 3月 鎌倉小町の笠原宅二階に転居
7月 軽井沢638の別荘に滞在
10月 鎌倉に帰る
昭和15年 1940 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
36 3月 東京杉並区成宗の夫人実家へ転居
7月 軽井沢658の別荘に滞在
昭和16年 1941 真珠湾攻撃
太平洋戦争
37 6月 軽井沢1412の別荘を購入
7月 軽井沢1412の別荘に滞在