<軽井沢835>
今週は堀辰雄が旧軽井沢で滞在した別荘を歩いてみました。最初の別荘は昭和13年に加藤多恵子と結婚後、初めて借りた別荘です。「堀辰雄全集第八巻」の書簡から、別荘の推移を見てみました。まずは「堀辰雄全集第八巻」、昭和13年5月3日の室生犀星宛の手紙からです。
「昭和十三年五月三日附 軽井澤より
室生犀星宛(封書)
漸つと気に入った別荘が見つかりました すこし山の中なので多恵子や良ちゃん達には少々気の毒ですけれど、かう云ふ場所なら夏でも僕が仕事をしてゐられると思ひ、とうとうそれに決めました こんどの日曜(八日)あたりそちらに移ります 軽井澤の水源地は御存知でしたかしらあそこへ上ってゆく林道の一番はづれに教本の大きな樅の木にかこまれて二軒ばかり外人の別荘がある、その一つです 隣りの別荘はなんでも毎年綺麗な妻君のゐるフランス人の一家が借りてゐるさうです 僕も今年の夏は一つここに頑張って仕事に精出します。…」
「五月十一日附 軽井澤八三五より
立原道道宛(はがき)
漸つと気に入った別荘が見つかったので日曜の朝引越した。いつか君と散歩した水源池のある山のなかの一番奥の方の別荘だ。なかなか好いから一度見に来給へ。五月十一日」
ここで、立原道造が登場していますね。このはがきで初めて別荘番号が書かれていました。この後の書簡にはこの別荘番号が続けて書かれています。この場所は旧軽井沢銀座からも1Km弱あり、かなり遠い感じです。
★写真の右側が軽井沢835跡付近です。別荘番号の「軽井沢835」は一度無くなり、その後、この水源地への路の左側の建物に付けられていました(女子聖学院の別荘で、現在は無くなっており、また別の別荘に付けられています)。当時の「軽井沢835」の別荘は、写真右側の現在のゴールドクレスト軽井沢保養所付近と推定されます(別荘ですので直接の写真は控えさせて頂きました)。当時の別荘の写真を掲載しておきます。
【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)