●堀辰雄の軽井沢を歩く T【ルウベンスの偽画編】
    初版2010年5月29日
    二版2010年6月6日  <V01L01> グリーンホテルを修正,巨人の椅子の写真を追加

 「堀辰雄を歩く」を引き続いて掲載します。今回は「堀辰雄の軽井沢を歩く T」です。堀辰雄と軽井沢は切っても切れない関係です。「ルウベンスの偽画」、「風立ちぬ」、「美しい村」と小川和佑さんが書かれた「堀辰雄 その愛と死」を参考にしました。軽井沢観光協会では軽井沢ゆかりの作家として堀辰雄の作品「美しい村」を軽井沢の観光ビジョンとして定めています。




「高原文庫」
<軽井沢「高原文庫」>
 堀辰雄と軽井沢では「高原文庫」を先ず訪ねなければなりません。塩沢湖の側なので軽井沢駅からは少し遠くて、車かレンタサイクルでないと無理かなとおもいます。昭和16年に購入した堀辰雄の四番目の別荘、軽井沢1412がこの高原文庫に移設されています。私も今回の取材を始めるにあたり、お世話になりました。軽井沢の堀辰雄については全て分かるという感じでした。ありがとうございました。この高原文庫でお話を聞いて、次に軽井沢町立図書館に向かい、堀辰雄ゆかりの地の場所を確認しました。図書館の皆さん、ありがとうございました。昔からの地図があったため、比較的容易に場所を特定することができました。ただ、それでも昔の地図の場所が現在の地図の何処の場所に当たるかが、よく分からず大変でした。昔の地図は正確ではないので大変です。最後に訪ねたのが「りんどう文庫」さんです。軽井沢銀座の中にあります。店主の方がよくご存知で、非常に参考になりました。

写真は塩沢湖畔にある「高原文庫」です。朝早かったので暫く私一人でしたが、直ぐにバスで団体客がきました。展示室もいいのですが、やはり堀辰雄の四番目の別荘、「軽井沢1412」がいいですね。

【堀辰雄(ほり たつお) 明治37年 (1904)12月28日-昭和28年(1953) 5月28日】
東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頼』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『莱徳子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。(新潮文庫より)

「現在の軽井沢駅」
<軽井沢駅>
 堀辰雄の「ルウベンスの偽画」に沿って、軽井沢駅から歩いてみます。「ルウベンスの偽画」は初出が同人雑誌「山繭」の第2巻第6号です(昭和2年(1927)年2月1日号)。「山繭」は中原中也や富永太郎で有名ですね。
 堀辰雄の「ルウベンスの偽画」の書き出しです。
「 それは漆黒の自動車であった。
 その自動車が軽井沢ステエションの表口まで来て停まると、中から一人のドイツ人らしい娘を降した。
 彼はそれがあんまり美しい車だったのでタクシイではあるまいと思ったが、娘がおりるとき何か運転手にちらと渡すのを見たので、彼は黄いろい帽子をかぶった娘とすれちがいながら、自動車の方へ歩いて行った。
「町へ行ってくれたまえ」……」

 現在の軽井沢駅は二代目です。現在の駅の右側に旧軽井沢駅舎があります。一度取り壊された旧駅舎を軽井沢町が明治43年改築当時の姿に復元したものです。駅前から北に延びる現在の三笠通りは新道で、旧道は北に向かって一筋左側になります。当時はこの道を通って旧軽井沢の別荘に向かったのだとのおもいます。当時の旧軽井沢駅の写真も掲載しておきます。

写真は現在の軽井沢駅です。鉄道では東京からは新幹線でしか来れないのは不便です。今回は車での訪問でしたが、次回は東京から高崎線、信越線と乗り継いで、横川駅まで行き、そこから旧中山道を歩いて軽井沢まで行くつもりです。横川駅から軽井沢駅まで中山道で17〜18Km位だとおもいます。

「万平ホテル」
<万平ホテル>
 「ルウベンスの偽画」は堀辰雄が芥川龍之介に見て貰った最後の作品になります。芥川龍之介が死去したのは昭和2年7月ですから、時期的にはピッタリです。堀辰雄が初めて軽井沢を訪れたのは大正12年夏で、翌年の夏、金沢の室生犀星を訪ねた後、軽井沢に向かい、つるや旅館に滞在していた芥川龍之介を訪ねています。芥川龍之介に心酔していたのでしょう。続けて堀辰雄の「ルウベンスの偽画」からです。
「 … 町へはいろうとするところに、一本の大きい栗の木があった。
 彼はそこまで来ると自動車を停めさせた。
 自動車は町からすこし離れたホテルの方へ彼のトランクだけを乗せて走って行った。
 それのあげた埃が少しずつ消えて行くのを見ると、彼はゆっくり歩きながら本町通りへはいって行った。……」

 ここで登場する”すこし離れたホテル”が何処のホテルを示しているのか探したのですが、後の文章で”彼もホテルとは反対の方向のその小径へ曲った。”とありましたので、「万平ホテル」と推定しました。「ルウベンスの偽画」で登場する親子は片山広子と娘の総子ですので、片山広子の別荘の位置から、「万平ホテル」と推測しています。

写真は現在の「万平ホテル」です。現在のホテルは昭和11年に完成していますので、「ルウベンスの偽画」を書いた頃の昭和2年は明治35年建築の建物になります。

「旧軽井沢郵便局舎跡」
<郵便局>
 次に登場するのが「郵便局」です。現在の軽井沢郵便局は当時と場所を変えており、旧軽井沢郵便局舎は明治44年(1911)建築で、一時軽井沢町観光協会に転用されていましたが、平成8年(1996)に塩沢湖の軽井沢タリアセン内(高原文庫近く)に移築保存されています。軽井沢観光会館になっている建物は旧軽井沢郵便局舎のコピーとなります。
「… 本町通りは彼が思ったよりもひっそりしていた。彼はすっかりそれを見違えてしまうくらいだった。彼は毎年この避暑地の盛り時にばかり来ていたからである。
 彼はしかしすぐに見おぼえのある郵便局を見つけた。
 その郵便局の前には、色とりどりな服装をした西洋婦人たちがむらがっていた。
 歩きながら遠くから見ている彼には、それがまるで虹のように見えた。…」

 ここでの本通りは、軽井沢銀座です。旧中山道となりますので、江戸時代には交通の要所となっています。明治以降、駅から遠く離れた宿場町が寂れていくのに、旧軽井沢は逆に発展しています。

写真は軽井沢観光会館です。旧軽井沢郵便局舎跡に建てられています。現在の軽井沢郵便局舎は万平ホテル(当時は萬平ホテル)跡に建てられたものです(万平ホテルは明治35年に現在の場所に移転)。

「曲がり角」
<曲がり角>
 彼は一人の少女を見初めます。彼女は本町通り(軽井沢銀座)を歩いて別荘の方へ曲がります。
「… そのとき彼はひょいと、向うの曲り角を一人の少女が曲って行ったのを認めたのである。
 おや、彼女かしら?
 そう思って彼は一気にその曲り角まで歩いて行った。そこには西洋人たちが「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」と呼んでいる丘へ通ずる一本の小径があり、その小径をいまの少女が歩いて行きつつあった。思ったよりも遠くへ行っていなかった。
 そしてまちがいなく彼女であった。
 彼もホテルとは反対の方向のその小径へ曲った。その小径には彼女きりしか歩いていないのである。彼は彼女に声をかけようとして何故だか躊躇をした。すると彼は急に変な気持になりだした。…」

 。
 上記の「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」は旧軽井沢北側の愛宕山中腹にあるオルガンロックを指しています。正しい「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」については下記を参照して下さい。
 
写真の曲がり角が上記に書かれている曲がり角です。左右が軽井沢銀座通りで、右側がつるや旅館方面ですので、左から右に歩いてきたことになります。この小道を少し歩いて、十字路を真っ直ぐに行き、次のY字路を右に曲がると片山別荘になります。

「巨人の椅子」
<巨人の椅子>   2010年6月6日 追加
 正しい「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」の場所です。この「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」については芥川龍之介の「軽井沢で」でも登場します。
「輕井澤で   芥川龍之介
   ――「追憶」の代はりに――
  K馬に風景が映つてゐる。
         *
 朝のパンを石竹の花と一しよに食はう。……

…雷は胡椒よりも辛い。
         *
 「巨人の椅子」と云ふ岩のある山、――瞬かない顏が一つ見える。
         *
 あの家は桃色の齒齦(はぐき)をしてゐる。
         *
 羊の肉には羊齒の葉を添へ給へ。
         *
 さやうなら。手風琴の町、さようなら、僕の抒情詩時代。」。(一部省略しています)

 「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」は、軽井沢駅南側の軽井沢プリンスホテルゴルフコースの東側にある矢ヶ崎山の山頂近くにある岩です。
 
写真は軽井沢プリンスホテルゴルフコースです。写真正面の山の山頂近くに大きな岩があります。この岩が「巨人の椅子(ジャイアンツ・チェア)」です。拡大写真を掲載しておきます。

「片山別荘」
<バンガロオ>
 堀辰雄の「ルウベンスの偽画」で登場する親子が住んでいた別荘です。先ほども書きましたが、この親子は片山広子と娘の総子ですから、別荘も特定できます。
 堀辰雄の「ルウベンスの偽画」からです。
「… 彼はもう彼女に声をかけなければいけないと思う。が、そう思うだけで、彼は自分の口がコルクで栓(せん)をされているように感ずる。だんだん頭の上でざわざわいう音が激しくなる。ふと彼はむこうに見おぼえのある紅殻色のバンガロオを見る。
 そのバンガロオのまわりに緑の茂みがあり、その中へ彼女の姿が消えてゆく……
 それを見ると急に彼の意識がはっきりした。彼は彼女のあとからすぐ彼女の家を訪問するのは、すこし工合が悪いと思った。しかたなしに彼はその小径を往ったり来たりしていた。いいことに人はひとりも通らなかった。…
… そのとき二人は、露台の上からあたかも天使のように、彼等の方を見下ろしている彼女の母に気がついた。二人は思わず顔を赧(あか)らめながら、それをまぶしそうに見上げた。…」

 別荘に通じる道は本当に小径です。軽井沢を訪れたことのある方は分かるとおもいますが、車は小型車が一台やっと通れる幅です。すれ違いは無理です。この小径が又よくて、軽井沢らしいのです。
 
写真正面が片山広子親子の別荘でした。そのまま残っていました。

「グリーンホテル跡」
<浅間山の麓のグリイン・ホテル>
   2010年6月6日 写真と場所を修正
 堀辰雄は「ルウベンスの偽画」でもう一つ、ホテルを登場させています。堀辰雄の「ウベンスの偽画」からです。
「… それから後は浅間山の麓のグリイン・ホテルに着くまで、ずっと夫人の引きしまった指と彼女のふっくらした指をかわるがわる眺めていた。沈黙がそれを彼に許した。
 ホテルはからっぽだった。もう客がみんな引上げてしまったので今日あたり閉じようと思っていたのだ、とボオイが言っていた。
 バルコニイに出て行った彼等は、季節の去った跡のなんとない醜さをまのあたりの風景に感じずにはいられなかった。ただ浅間山の麓だけが光沢のよいスロオプを滑らかに描いていた。
 バルコニイの下に平らな屋根があり、低い欄干をまたぐと、すぐその屋根の上へ出られそうであった。そんなに屋根が平らで、そんなに欄干が低いのを見たとき、彼女が言った。
「ちょっとあの上を歩いてみたいようね」…」

 もう一軒のホテルは”浅間山の麓のグリイン・ホテル”です。浅間山山麓と書いていますので、中軽井沢駅から北に上がった旧グリーンホテルと推定しています。

写真はグリーンホテル跡です。写真の正面右側にホテルがありました。現在は取り壊され、階段しか残っていませんでした。写真のやや左、雲の切れ間に浅間山がみえます。場所的には中軽井沢からスケートセンター方面(鬼押しだし)に向かい、バス停で「萩ヶ岡入口」の所です。

次回は堀辰雄の軽井沢での住まいを巡ります。

「片山広子宅跡」
<山王三丁目一三五二番地>
 片山広子については芥川龍之介と一緒に特集する予定だったのですが、時間が掛かりそうなので、片山広子の東京での住まいだけを掲載しておきます。彼女の家は大森駅近くの馬込文士村の中にあります。明治43年から終戦前の昭和19年の強制疎開で浜田山に転居するまで、大森山王三丁目の路地の奥の広い邸宅に住んでいました。

写真は山王三丁目にある片山広子と山本有三の記念碑です。馬込文士村には彼方此方にこの記念碑が建てられています。片山広子宅はこの記念碑から南に100m、路地を入った右側にありました。現在の大田区山王三丁目15番付近です。昭和16年の火保図を見ると、既に環状七号線があり、片山広子宅に隣接していて、多分邸宅の一部を割愛されていたのではないかとおもわれます。

【片山 広子】
(片山廣子、かたやま ひろこ、筆名:松村みね子、明治11年(1878)2月10日 - 昭和32年(1957)3月19日)
東京生まれ。東洋英和女学校卒。明治32年(21歳)、後に日本銀行理事となる片山貞治郎と結婚。佐佐木信綱に師事して歌人として活動するほか、松村みね子の筆名でジョン・ミリントン・シング、ロード・ダンセイニ、W・B・イェーツ等のアイルランド戯曲を翻訳した。大正9年(42歳)に夫と死別。美貌の文学者として、年少の芥川龍之介は詩を捧げ、堀辰雄も「菜穂子」に広子とその娘、芥川の交遊のさまを描いた。昭和31年(1954)『燈火節』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
(ウィキペディア参照)


堀辰雄の軽井沢地図


堀辰雄年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 堀辰雄の足跡
明治37年 1904 日露戦争 0 12月28日 麹町区平河町5-5に、父堀浜之助、母志氣の長男として生まれます
明治39年 1906 南満州鉄道会社設立 2 向島小梅町の妹(横大路のおばさん)の家に転居
明治40年 1907 3 土手下の家に転居
明治41年 1908 中国革命同盟会が蜂起
西太后没
4 母志氣は上條松吉と結婚
向島須崎町の卑船通り付近の路地の奥の家に転居
明治43年 1910 日韓併合 6 4月 実父堀浜之助が死去
水戸屋敷の裏の新小梅町に転居
明治44年 1911 辛亥革命 7 牛島小学校に入学
大正6年 1917 ロシア革命 13 東京府立第三中学校に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 17 第一高等学校理科乙類(独語)に入学
大正12年 1923 関東大震災 19 軽井沢に初めて滞在
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 20 4月 向島新小梅町に移転
7月 金沢の室生犀星を訪ねる
8月 軽井沢のつるやに宿泊中の芥川龍之介を訪ねる
大正14年 1925 関東大震災 21 3月 第一高等学校を卒業。
4月 東京帝国大学国文学科に入学
夏 軽井沢に滞在
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
23 2月 「ルウベンスの偽画」を「山繭」に掲載
         
昭和6年 1931 満州事変 27 4月 富士見高原療養所に入院
6月 富士見高原療養所を退院
8月 中旬、軽井沢に滞在
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
28 4月 夏 軽井沢に滞在
12月末、神戸の竹中郁を訪ねる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 30 7月 信濃追分油屋旅館に滞在
9月 矢野綾子と婚約
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 31 7月 矢野綾子と信州富士見高原療養所に入院
12月6日 矢野綾子、死去
昭和11年 1936 2.26事件 32 7月 信濃追分に滞在
昭和12年 1937 蘆溝橋で日中両軍衝突 33 6月 京都、百万辺の竜見院に滞在
7月 帰京後、信濃追分に滞在