<ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック>
村上春樹が米国のニュージャージー州プリンストン市のプリンストン大学(Princeton
University)に客員研究員として招聘されたのは平成3年(1991)1月からですから、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック(昭和63年(1988)出版)」はその前に書かれたことになります。1987年が「ノルウェーの森」ですから金銭的にも余裕が出てきた頃です。”あとがき”を読むと、米国を訪ねたいというおもいがうかがえ、フィッツジェラルドが卒業したプリンストン大学に招聘されることになります。
村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「 あとがき
僕がスコット・フィッツジェラルドの作品にはじめて触れてから、もう二十年以上の歳月が流れた。そのあいだにいろいろなことがあった。まず第一に僕も
── と比べるのも気かひけるのだが ── 小説家になった。そして少しずつ、少しずつ、彼が死んだ歳(四十四歳)に近づいている。…
… この本の前半には、僕がこれまでいろんな雑誌や本のために書いたフィッツジェラルドに関する文章を収め、後半には本書のために訳した『自立する娘』と『リッチーボーイ(金持の青年)』を収めた。『「エスクァイア」で読むアメリカ』(上)に収められたアーノルド・ギングリッチの『スコット、アーネスト、その他の人々』(拙訳)、スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』(拙訳・中公文庫)も併読していただければ幸いである。これからも少しずつ、ゆっくりと時間をかけて、フィッツジェラルドの作品を訳していきたいと思う。六十を過ぎた頃には、あるいは、『グレート・ギャツビー』を訳せるようになっているかもしれない。…」。
”僕がスコット・フィッツジェラルドの作品にはじめて触れてから、もう二十年以上の歳月が流れた”と書いていますので、20年前は昭和43年(1968)ですから早稲田大学」に入学した頃になります。”六十を過ぎた頃には、あるいは、『グレート・ギャツビー』とを訳せるようになっているかもしれない”とも書いています。村上春樹が、『グレート・ギャツビー』とを訳したのは平成18年(2006)ですから57歳のときになります。
★左上の写真は中公文庫の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」です。初版は昭和63年(1988)1月にTBSブルタニカから発行されています。
【F・スコット・キー・フィッツジェラルド(Francis
Scott Key Fitzgerald, 1896年9月24日 - 1940年12月21日)】
F・スコット・キー・フィッツジェラルドは、アメリカの失われた世代を代表する作家の一人で、北西部ミネソタ州のセントポールに生まれています。1898年から1901年および1903年から1908年までをニューヨーク州バッファローで過ごし、父ががプロクター・アンド・ギャンブル社を解雇されると一家はミネソタ州へと戻り、地元の学校セントポール・アカデミーに入学します。その後ニュージャージー州のプレップ・スクールニューマン・スクールへと入学、1913年、プリンストン大学へと進学しています。大学では、終生の友人であり後に自身の編集者を務めることになるエドマンド・ウィルソンと出会っています。1920年3月に『楽園のこちら側』が出版されるとベストセラー入りします。4月にはゼルダとニューヨークのセント・パトリック大聖堂で結婚します。1925年に『グレート・ギャツビー』が出版されると後世この作品によってフィッツジェラルドは、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の一人として認められるようになります。1930年代後半のフィッツジェラルドは、借金の返済とスコティーの学費を稼ぐためにシナリオライターとして映画会社と契約しハリウッドに居住しています。アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたフィッツジェラルドは最後の小説を執筆中の1940年12月21日心臓麻痺をおこしグレアムのアパートで死亡します。(ウイキペディア参照)