●村上春樹のニューヨークを歩く
    初版2013年4月21日  <V01L02>  暫定版

 今週は引き続き「村上春樹の世界」を掲載します。3月末に米国の東海岸を訪ねる機会があり、ボストンからニューヨークで写真を撮ってきました。ニューヨークでも時間が余りなく、たまたま宿泊したホテルがワールドトレードセンター跡の真ん前のミレニアム・ヒルトン(Millenium Hilton)だったので、夕食前の1時間と早朝の1時間で写真を撮影しました。何時になるか分りませんが継続して改版していきたいとおもいます。今回はGoogle Mapを使用します。拡大・縮小おもいのままで、地図の下の「大きな地図で見る」を選択するとストリートビューでも見れます。


「ザ・スコット…」
<ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック>
 村上春樹が米国のニュージャージー州プリンストン市のプリンストン大学(Princeton University)に客員研究員として招聘されたのは平成3年(1991)1月からですから、「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック(昭和63年(1988)出版)」はその前に書かれたことになります。1987年が「ノルウェーの森」ですから金銭的にも余裕が出てきた頃です。”あとがき”を読むと、米国を訪ねたいというおもいがうかがえ、フィッツジェラルドが卒業したプリンストン大学に招聘されることになります。

 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「    あとがき

 僕がスコット・フィッツジェラルドの作品にはじめて触れてから、もう二十年以上の歳月が流れた。そのあいだにいろいろなことがあった。まず第一に僕も ── と比べるのも気かひけるのだが ── 小説家になった。そして少しずつ、少しずつ、彼が死んだ歳(四十四歳)に近づいている。…
… この本の前半には、僕がこれまでいろんな雑誌や本のために書いたフィッツジェラルドに関する文章を収め、後半には本書のために訳した『自立する娘』と『リッチーボーイ(金持の青年)』を収めた。『「エスクァイア」で読むアメリカ』(上)に収められたアーノルド・ギングリッチの『スコット、アーネスト、その他の人々』(拙訳)、スコット・フィッツジェラルド『マイ・ロスト・シティー』(拙訳・中公文庫)も併読していただければ幸いである。これからも少しずつ、ゆっくりと時間をかけて、フィッツジェラルドの作品を訳していきたいと思う。六十を過ぎた頃には、あるいは、『グレート・ギャツビー』を訳せるようになっているかもしれない。…」

 ”僕がスコット・フィッツジェラルドの作品にはじめて触れてから、もう二十年以上の歳月が流れた”と書いていますので、20年前は昭和43年(1968)ですから早稲田大学」に入学した頃になります。”六十を過ぎた頃には、あるいは、『グレート・ギャツビー』とを訳せるようになっているかもしれない”とも書いています。村上春樹が、『グレート・ギャツビー』とを訳したのは平成18年(2006)ですから57歳のときになります。

左上の写真は中公文庫の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」です。初版は昭和63年(1988)1月にTBSブルタニカから発行されています。

F・スコット・キー・フィッツジェラルド(Francis Scott Key Fitzgerald, 1896年9月24日 - 1940年12月21日)】
 F・スコット・キー・フィッツジェラルドは、アメリカの失われた世代を代表する作家の一人で、北西部ミネソタ州のセントポールに生まれています。1898年から1901年および1903年から1908年までをニューヨーク州バッファローで過ごし、父ががプロクター・アンド・ギャンブル社を解雇されると一家はミネソタ州へと戻り、地元の学校セントポール・アカデミーに入学します。その後ニュージャージー州のプレップ・スクールニューマン・スクールへと入学、1913年、プリンストン大学へと進学しています。大学では、終生の友人であり後に自身の編集者を務めることになるエドマンド・ウィルソンと出会っています。1920年3月に『楽園のこちら側』が出版されるとベストセラー入りします。4月にはゼルダとニューヨークのセント・パトリック大聖堂で結婚します。1925年に『グレート・ギャツビー』が出版されると後世この作品によってフィッツジェラルドは、20世紀アメリカ文学全体を代表する作家の一人として認められるようになります。1930年代後半のフィッツジェラルドは、借金の返済とスコティーの学費を稼ぐためにシナリオライターとして映画会社と契約しハリウッドに居住しています。アルコールが手放せず、健康状態が悪化していたフィッツジェラルドは最後の小説を執筆中の1940年12月21日心臓麻痺をおこしグレアムのアパートで死亡します。(ウイキペディア参照)

「RIDER'S…」
<RIDER'S:NEW YORK CITY>
 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」に書かれている「RIDER'S:NEW YORK」についてGoogleで検索したら直ぐに見つけることが出来ました。日本人も村上春樹ファンが探しているのだとおもいます。University of California のCalifornia Digital Libralyにあり、ダウンロードできます。流石、アメリカです。

 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「… 今、僕の手もとに一冊の古い本かある。ホテルのベッドの枕もとに置いてある聖書くらいの判型で表紙はくすんだ緑色、厚さは四センチくらい、手に取ると結構ずしりと重い。タイトルは『RIDER'S:NEW YORK CITY』、つまりニューヨーク市を訪れる観光客のためのガイド・ブックである。
 もちろんそれだけなら面白くもなんともない。ニューヨーク市のガイド・ブックなんて、その気になれはいくらでも手に入る。この木の面白さは、これが一九二四年に発行されている点にある。一九二四年といえばかのローリング・トウェンティーズのどまんながで、ニューヨークが空前絶後の繁栄の中で黄金色に輝いていた頃である。このガイド・ブックはその頃のニューヨーク・シティーが観光客や市民に向けていったい何をどのような形で供していたのが、あるいはどれほどの光を放っていたのかを実にリアルに我々に伝えてくれるのである。…」

 本当にニューヨークのことが細かく書かれた観光ガイドブックです。ビル一つ一つについて細かく書かれています。現代の日本製ガイドッブそのものです。当時としては画期的なガイドブックで人気があったとおもいます。ただ、デジタル化するときに、見開きの地図が見開きされずにデジタル化されているのが少々残念です。

写真は「RIDER'S NEW YORK CITY」です。”Digitized the internet Archive in2008 with funding from Microsoft Corporation”と書かれていますので、デジタル化したのは2008年だとおもいます。ですから村上春樹は古本で入手したようです。


村上春樹のニューヨーク(Manhattan)


「WALL ST.」
<WALL ST.>
 宿泊したホテルがワールドトレードセンター跡の真ん前のミレニアム・ヒルトン(Millenium Hilton)で、ウオールストリート(WALL ST.)に近かったので徒歩でいきました。Google Mapで距離を測ったら3mileと出ました。アメリカですね、約500mです。見てびっくり、ビルに囲まれた細い路地でした。

 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「…何もここまで詳しくやらなくったっていいんじゃないかと思えるくらい細密に一九二四年のニューヨーク・シティーが隅から隅まで淡々と ── かなり事務的に ── 描き出されているのである。押しつけがましい感動や余分な色づけはまったくといっていいくらいない。たとえば次の文章を読んでみてほしい。これはウォール・ストリートの説明である。
「ウォール・ストリートとブロードウェイの交わる北東のかどにはユナイティッド・バンク・ビルディングがある。ビルの所有主はファースト・ナショナル・バンクと、バンク・オブ・リパブリックだが、この両行の他にもいくつかの民間銀行や鉄道会社がここに事務所を置いている。No.10ウォール・ストリートのニュー・ストリートの人口の向いにはアスター・ビルディングがある。ここにはかつてファースト・ブレスビテリアン教会か建っており、ジョナサン・エドワーズやジョージーホワイトフィールドが説教をした。……地価は一平方フィート八二五ドル」…」

 これが世界の金融を動かすところかとおもいました。確かに廻りのビルは高く立派ですが、道があまりに貧弱です。

 「RIDER'S NEW YORK CITY」の原文で見ると
「…At the N. E. corner of Wall st. and Broadway is the United BankBuilding, owned by the First National Bank and the Bank of the Re-public and housing also several private banking firms, and southern and western railway companies. No. 10 Wall st., opposite the end of New St., is the Astor Building, on the site formerly occupied by the first Presbyterian Church. Jonatlian Edwards and George Whitclield both preached here.…」
となります。

左上の写真の道がウオールストリート(WALL ST.)で、左右がブロードウエイ(Broadway Av.)です。”ウォール・ストリートとブロードウェイの交わる北東のかどにはユナイティッド・バンク・ビルディング”とありますから、正面やや左のビルがユナイティッド・バンク・ビルディングとなります。ただし、地図には”1st Nat. Bank”と書かれています。アスター・ビルディングは”1st Nat. Bank”の隣に”Astor Bldg.”と書かれていました。(詳細は一番下の地図を参照)

「ワールド・トレード・センター跡地」
<ワールド・トレード・センター>
 ”ワールド・トレード・センター”はあまりに有名です。再開発の最中で、高層ビルの建設途中でした。予定が大幅に遅れて完成は数年先になるようです。

 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「… さてそれではフィッツジェラルドの乗ったフェリー・ボートについてもう少しくわしく調べてみよう。ライダーズ版ガイド・ブックによるとペンシルヴァニア鉄道中央駅の前にあるペンシルヴァニア鉄道専用桟橋がらは当時二種類のフェリー・ボートか出ている。ひとつはデズブロセス・ストリート・フェリーであり、ひとつはコートランド・ストリート・フェリーである。フィッツジェラルドがどちらに乗ったのかはわからないけれど、コートランドの方がずっと距離が短いから、たぶんこちらの方であろう。
 コートランド・ストリート・フェリーは文字どおりマンハッタン島コートランド・ストリートに到着する。現在でいうとちょうどワールド・トレード・センターの真正面に到着するわけだが、この一九〇六年当時にはもちろんワールド・トレード・センターの一一〇階建てのビルはない。そのがわりにコートランド、デイ、フルトンという三つの方い通りがきちんとした升目を描いている。…」

 ”ペンシルヴァニア鉄道中央駅の前にあるペンシルヴァニア鉄道専用桟橋”の場所が良く分かりませんでした。何方か詳しい方がいらっしゃいましたらご教授願います。デズブロセス・ストリートの場所も分りません。

左上の写真はフルトン・ストリート(Fulton St.)からワールド・トレード・センター跡の再開発ビルを見たものです。右側はセントポール・チャーチ(St. Pauls Church)です。フルトン・ストリート(Fulton St.)から南にデイ・ストリート(Dey St.)コートランド・ストリート(Cortlandt St.)、シンガー・ビルディングのあるリバティ・ストリート(Liberty St.)と続きます。


村上春樹のニューヨーク(Lower Manhattan).


「シンガー・ビルディング跡」
<シンガー・ビルディング>
 ローワー・マンハッタン(Lower Manhattan)の観光案内が続きます。この辺りの朝晩の通勤は物凄いです。人が途切れることがありません。歩道は狭く、人は溢れているという感じです。ただ通勤客の着ているものは日本の方が高級そうです。それにしてもアメリカ人はコーヒーが好きです。スターバックスはどこも行列です(私も並びました)。ついでにニューヨークで一番美味しいと言われているハンバーガーを食しました(スタバとハンバーガーが一番の組合せのようです)。SHAKE SHACKという公園の中にあるお店でした。バンズ(Bun)が美味しくてなかなかでした。

 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「… とはいってもこのあたりがマンハッタン島の中心部であることに変りはない。このコートランド通りに並んでいた当時の高層ビルを列挙してみると、
「シンガー・ビルディングには美しい塔がついている(アーネスト・フラグ設計)。四一階建てで地上から照明灯の先端までの高さは六一二フィート。地下から旗の先までだと七二四フィートある。床面積は九・五エーカー、便所の数は六〇〇、配管の全長は一五マイル、配線の全長は三四二五マイル、評価額は八二〇万ドル。夜には一三〇〇万燭光の電灯が点く」
「シンガー・ビルの隣りにはベネスン・インヴェスティング・ビルディングがある。三四階建て、高さ四八六フィート六インチ、床面積一三・五エーカー。評価額六二二万ドル、土地を加えると1000万ドルを越すだろう。設計はフランシス・H・キムボール。このビルはイタリア大理石のみを使って建てられてある。チャーチ通りに向けての拱廊には全部で二万立方フィートのイタリア大理石が使ってあるか、この量はオフィスービルとしては世界一である」…」

 戦前のニューヨーク、マンハッタンのビル群は物凄いです。よくもまあ、日本が戦争を仕掛けたものです。国の規模が違いすぎます。
 
左上の写真のところにシンガー・ビルディング(Singer Bldg.)がありました。ウイキペディアに写真がありましたので掲載しておきます。ベネスン・インヴェスティング・ビルディング(City Investing Bldg.)はシンガー・ビルディング(Singer Bldg.)の右裏になります。

「地下鉄のフルトン駅」
<高架線のコートランド駅か、地下鉄のフルトン駅>
 最後はニューヨークの地下鉄です。地下鉄といってもニューヨークの地下鉄は最初から高架の地下鉄もありました。私もニューヨークの地下鉄に乗車しましたが、東京と同じく路線が複雑で、乗換えに困りました。同じ路線で急行的な路線と各停の路線が一緒に走っていて旨く乗換えないと目的地に着けません。それと切符がまた大変でした。メトロカード(MetroCard)を買うのは簡単なのですが、入場口で読み込ますのが大変です。古いIDカードリーダーで、こすって読み込ますのと同じように行うのですが、時々エラーになります。何度も行うのですが何度やってもだめなことがあります。そうすると窓口に言って説明しなければなりません。これがまた大変です。ということで疲れてしまいました。

 村上春樹の「ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック」からです。
「… といったところだ。なかなかすごいビジネス街である。フィッツジェラルドの乗ったフェリー・ボートはこのような一画に向けて進んでいったわけだ。ここで下りて数ブロック歩くと高架線のコートランド駅か、地下鉄のフルトン駅がある。
 ニューヨークに行くことかあったら、一度ジャージイのペン・ステーションがら朝このフェリーに乗ってコートランド通りで下りてみたいと思う。もっともこのフェリーが現在でもまだ存続しているがどうかは不明である。御存じの方は教えてください。…」

 ”高架線のコートランド駅”はもうありませんでした。地下駅化していました。”地下鉄のフルトン駅”は路線は増えていますが入口は昔のままのようです。
 
左上の写真はフルトン・ストリート(Fulton St.)にある”地下鉄のフルトン駅”です。”フルトン駅”は路線が多いので彼方此方にありました。


村上春樹のニューヨーク(RIDER'S NEW YORK CITYから).


村上春樹年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和39年 1964 東京オリンピョク 15 4月 兵庫県立神戸高校入学
昭和43年 1968 エンタープライズ寄港阻止衝突
パリ5月革命
19 4月 一浪して早稲田大学第一文学部演劇科入学
昭和44年 1969 東大安田講堂封鎖解除 20 春、三鷹のアパートに転居
昭和45年 1970 三島由紀夫割腹自殺
よど号事件
21 アルバイトに精を出す
昭和46年 1971 ニクソンショック 22 陽子夫人と学生結婚
10月 文京区千石の夫人の実家に転居
昭和49年 1974 長島茂雄引退 25 ジャズ喫茶「ビーター・キャット」を国分寺に開店
昭和52年 1977 巨人優勝 28 ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 4月 神宮球場で「僕は小説を書けると悟った」
11月 第22回群像新人文学賞に応募
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「jazzLife」6月号臨時増刊
「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)
11月 野間文芸新人賞(発表)(『群像』1983/1月号)
昭和59年 1984 江崎グリコ事件 35 神奈川県藤沢市に転居
昭和60年 1985 石川達三死去
夏目雅子死去
36 渋谷区千駄ヶ谷に転居
「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」で第21回谷崎潤一郎賞を受賞
昭和61年
1986 チェルノブイリ原発事故 37 2月 神奈川県大磯町に転居
10月 ローマ、ギリシャに滞在
昭和62年 1987 国鉄分割民営化 38 9月 「ノルウェーの森」 (講談社)
昭和63年 1988 ソウル五輪開催
リクルート事件
39 10月 「ダンス・ダンス・ダンス」 (講談社)
平成3年 1991 湾岸戦争、ソ連崩壊 42 1月 米国のプリンストン大学に客員研究員として渡米
平成5年 1993 田中角栄死去 44 タフツ大学(ボストン)へ移籍
平成7年 1995 兵庫県南部地震
地下鉄サリン事件
46 5月 4年間にわたる米国滞在を終え帰国
港区南青山に自宅兼事務所?
平成12年 2000   51 大磯内で転居