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最終更新日:2017年10月28日


●村上春樹の早稲田時代を歩く 初版2003年6月14日 <V02/L01>
 今週も掲載予定を変更します。読者の皆様からの要望が多い”村上春樹の早稲田時代”を先に掲載したいと思います。村上春樹を特集したのは昨年の4月から7月にかけての4ヶ月間で、延べ8回に分けて掲載しましたが早稲田時代はメニューには載せていたのですが不明な所が多くて未掲載のままでした。今週は村上春樹の未掲載分の最後として”村上春樹の早稲田時代を歩く”をおおくりします。(早稲田時代はまだ不明な部分が多いです。何方か御存じの方かいましたらご連絡下さい)

<早稲田大学入学>
 村上春樹は神戸高校卒業後一浪します。神戸高校は旧一中で公立では兵庫県でトップクラスの学校です。推測ですが、国公立大学(東大、京大?)を目指していたため一浪したのではないかとおもいます。翌年の昭和43年、もう浪人はできないため早稲田大学第一文学部演劇科に入学します。当時の上京のようすを、「象工場のハッピーエンド」では、「夕方まえに東京に着いて目白の新しい部屋に行ってみると着いているはずの荷物がどういうわけかまだ着いていなかった…。部屋はがらんとしていた。引出しがひとつしかないおそろしくシンプルな机とおそろしくシンプルな鉄のベッドがあるっきりだ。…」、と書いています。自宅から寮生活への変化は、革命そのものです。また当時の状況を、「国境の南、太陽の西」では、「僕らは六〇年代後半から七〇年代前半にかけての、熾烈な学園闘争の時代を生きた世代だった。…戦後の一時期に存在した理想主義を呑み込んで貪っていくより高度な、より複雑でより洗練された資本主義の論理に対して唱えられたノオだった。…」、うむ…‥と下を向いて考えながら、「昔をおもいだすなあ〜!!」、なんて云ったら馬鹿にされそうです。また、「村上春樹の世界」ではこの時代を、「タフでハードな時代」、と称しており、村上春樹にとっては生きにくかった時代の様です。

左上の写真は早稲田大学第二学生会館です(大隈講堂の横で、現在は建て直されています)。昭和44年9月3日、警視庁機動隊は学生が占拠中の大隈講堂と第二学生会館を封鎖解除しています(東大安田講堂の封鎖解除はこの年の1月19日でした)。

村上春樹の早稲田時代年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

村上春樹の足跡

昭和43年
1968
川端康成ノーベル賞受賞
19
4月 一浪して早稲田大学第一文学部演劇科入学、和敬塾に下宿
秋、西武新宿線の都立家政のアパートに転居
昭和44年
1969
東大安田講堂封鎖解除
20
春、三鷹のアパートに転居
昭和45年
1970
三島由紀夫割腹自殺、よど号事件
21
 
昭和46年
1971
ニクソンショック
22
陽子夫人と学生結婚、
10月 文京区千石の夫人の実家に転居
昭和47年
1972
川端康成自殺
23
 
昭和49年
1974
長島茂雄引退
25
ジャズ喫茶「ビーター・キャット」を国分寺に開店
昭和50年
1975
サイゴン陥落
26
3月 早稲田大学卒業

<和敬塾>
 村上春樹は一浪後早稲田大学第一文学部演劇科に入学します。「引越しグラフィティ」で当時のことを書いています。「僕が大学に入ったのは一九六八年で、とりあえず目白にある学生寮に入った。この寮は椿山荘の隣りに今でもあるから、目白通りを通った時はちらっと見ておいて下さい。僕はここに半年住んでいたが、その年の秋に素行不良で放り出された。……生まれてこの方一人で暮したのははじめてだったから毎日の生活はとても楽しかった。だいたい夜になると目白の坂を下って早稲田の界隈で飲んだくれる。で、飲むと必ず酔いつぶれる。その頃は酔いつぶれずに飲むなんていう器用なことはできなかった。酔っ払うと誰かがタンカを作って寮まではこんでくれた。タンカを作るには実に便利な時代だった。というのはそこらじゆうにタテカンがあふれていたからである。「日帝粉砕」とか「原潜寄港絶対阻止」なんていう看板を適当に選んでむしりとってきて、そこに酔っ払いを載せて運ぶのである。これはなかなか楽しかった。でも一度だけ目白の坂でタテカンが割れて、石段でいやというほど頭を打ったことがあるハおかげで二、三日頭が痛んだ。」、和敬塾に関しては「ノルウエーの森」や村上春樹に関しての本、雑誌等にまず最初に書かれいますので、皆様よく御存じだと思います。上記に書かれている目白の坂とは胸突坂で、早稲田から神田川を超えて和敬塾に帰る路です。

左上の写真が和敬塾の西寮です。右から西寮と書かれています。「ノルウエーの森」では東寮なんですか、当時は北寮、南寮、西寮しかありませんでした。村上春樹はこの西寮の4階に住みます。和敬塾の正面入口は目白通り側です。


<村上春樹 早稲田周辺地図>




<都立家政付近(特定できず)>
 和敬塾が肌に逢わなかった村上春樹は西武新宿線都立家政駅近くに引っ越します。「目白の寮を追い出されてから練馬の下宿に移った。早稲田の学生課でみつけたいちばん安い部屋である。三畳で四千五百円、敷金・礼金なし、これはもう絶対に安い。敷金・礼金なしなんて他にない。下宿は西武新宿線の都立家政の駅から歩いて十五分くらいの距離にあった。まわりは絵に描いたみたいな大根畑である。東京にもこういうところがあるんだなとつくづく感心した。……女の子とうまくいかなかったりしたこともあって、練馬時代は僕にとってはちょっと暗めの時代だった。ほとんど学校にも行かずに、新宿でオールナイトのアルバイトをして、そのあいまに歌舞伎町のジャズ喫茶に入りびたっていた。ジャズ喫茶といえば「ヴィレジ・ゲート」とか「ヴィレジ・ヴアンガード」なんかが暗っぽくて好きだった。女の子と行く時は「ダグ」とか「オールド・ブラインド・キャット」なんかがよかった。……ここには一九六八年の秋から翌年の春まで住んだ。」,新宿のダグは写真が有りますので見て下さい。新宿については別途特集したいとおもいますので期待して下さい。

右の写真は西武新宿線都立家政駅です。踏切を渡って写真の正面の方に歩いていくと練馬区方面です。都立家政駅自体は中野区で少し歩くと練馬区になります。上記に書かれている通り、駅から徒歩15分で練馬区ならすぐ場所が分かるかと思ったのですが、下の地図で赤線が徒歩15分の所で、幅を見て青から緑の間と仮定しましたが、このなかに昭和43年当時アパートが6〜7軒もありました(候補)。上記に書かれている状況だけでは特定できませんでした。赤くマークされた所が可能性がある所です。


<村上春樹 都立家政周辺地図>




<三鷹のアパート(特定できず)>
 都立家政の次に引っ越したのが三鷹の駅から遠いアパートでした。「都立家政の暗い三畳間で半年暮して、生きているのがつくづく嫌になってきたのでまた引越すことにした。一九六九年の春のことである。…今度の住居は三鷹のアパートである。ごみごみとしたところにはもううんざりしたので、郊外に移ることにしたのだ。六畳台所つきで七千五百円(安いなあ)、二階角部屋でまわりは全部原っぱらだから実に日あたりが良い。駅まで遠いことが難といえば難だけど、なにしろ空気はきれいだし、少し足をのばせば武蔵野の雑木林がまだ自然のままに残っているし、すごくハッピーだった。……あとそのころの記憶というと、ブラジャーが空を飛んでたっていうくらいしか覚えてない。ブラジャーは本当に空を飛ぶのか? もちろん飛ばない。風に吹かれて空を漂っていただけである。…実際には毎日女の子とデートしたり映画観たりして結構たらたらと生きていたみたいだ。」、と女の子とデイトしているなどと簡単に書いています。ただなぜ三鷹に引っ越したかとなるとすこし思い当たる点があります。浦澄彬の「村上春樹を歩く」の中に「…どうやら高校時代のガールフレンドが、後の村上作品に大きな影響を与えたらしいのである。新聞委員会の同期に、村上春樹と仲の良かった女の子がいた。その女の子が、初期三部作の自殺したガールフレンドや、『ノルウェイの森』の「直子」のモデルではないかと言われているのである。その女の子、Kさんは、村上春樹と仲がよく、二人はつきあっているのではないかと噂されていたらしい。二人そろって暗いイメージのカップルだったという。Kさんは神戸高校を卒業後、そのまま国際基督教大学(ICU)に進学した。…」、あります。村上春樹の「羊をめぐる冒険」では書き出しにICUが登場します。「その年の秋から翌年の春にかけて、週に一度、火曜日の夜に彼女は三鷹のはずれにある僕のアパートを訪れるようになった。彼女は僕の作る簡単な夕食を食べ、灰皿をいっぱいにし、FENのロック番組を大音量で聴きながらセックスをした。水曜の朝に目覚めると雑木林を散歩しながらICUのキャンパスまで歩き、食堂に寄って昼食を食べた。そして午後にはラウンジで薄いコーヒーを飲み、天気が良ければキャンパスの芝生に寝転んで空を見上げた。水曜日のビクニック、と彼女は呼んだ。…」、と書かれています。神戸高校で一緒だったKさんは村上春樹よりも一年早くICUに入学しています。(村上春樹は一浪しています)、「ノルウェイの森」の中では「…僕と直子は中央線の電車の中で偶然に出会った…」と書かれており、以上を総合すると本当に二年ぶりで村上春樹はKさんに偶然出会い、そのまま三鷹での付き合いか始まったのだと推定しています。ICUでのKさんの足跡を辿れば詳細がわかると思うのですが… …!!(何方か御存じの方おりませんか)

左上の写真はICUの桜並木です。少し時期が遅くて葉桜になっていました。村上春樹が住んでいたアパートですが、上記の状況をまとめてみると、1.駅(駅は三鷹駅とは何処にも書いていないため、武蔵境駅も可能性あり)から遠い(30分位掛かる?)、2.三鷹市のはずれ、3.ICUの近く(歩いていける)、4.アパートの周りは原っぱ、となります。三鷹駅から三鷹図書館まで2Kmで約30分です。下記の地図の赤くマークされた所が可能性の有るアパートです。まだ特定できていません。


<村上春樹 三鷹市周辺地図>




<文京区千石>
 村上春樹は昭和46年、陽子さんと学生結婚します。「三鷹のアパートで二年暮してから、文京区の千石というところに越した。小石川植物園の近くである。どうして郊外からまた一気に都心に戻ってきたかというと、結婚したからである。僕は二十二でまだ学生だったから女房の実家に居候させてもらうことにしたのだ。」、奥様の実家の千石の家は布団屋だったようです。「僕が居候していた女房の実家は、昔の徳川家の屋敷の一画に建っている。一画と言っても庭のずっと隅の方だから、べつに由緒も何もない。ただ困ったことにはというか何というか ー この家は実にかつての地下牢の上に建っているのである。つまり家の下には、その跡があるわけだ。で、もちろん幽霊が出る。僕ははじめのうちはそういうことを知らなくて、なんだかいやに湿っぽくて暗いなあ、というくらいにしか感じなかった。夜中に便所に行ったりすると妙に気持悪い雰囲気があったりした。女房が時々幽霊を見た。幽霊といっても人の形をとったものではなく、白いかたまりのようなもので、それが家の中をしばらくふわふわと飛びまわってから壁に吸い込まれていくのである。」、場所が場所だけにいろいろ出てきますね。それにしても陽子さんとの結婚に関しては詳細がよくわかりません。以前にも書きましたが、友人や奥様が書いたものが出版されないと分からないままだとおもいます。(ご本人が存命中は無理かもしれません)

右の写真の左側が千石の陽子さんの実家跡です。現在は転居されてご家族は何方も住んでいないそうです。ただ、表札が陽子さんの実家のお名前と同じなのですが、全く無関係だそうです(メールで教えて頂きました。ありがとうございました)。

都立家政と三鷹については住所がまだ特定できていません。特定出来しだい改版していく予定です。(御存じの方がいらっしゃいましたらご教授願います)


【参考文献】
・風の歌を聴け:村上春樹、講談社文庫
・1973年のピンボール:村上春樹、講談社文庫
・羊をめぐる冒険(上、下):村上春樹、講談社文庫
・世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド(上、下):村上春樹、新潮文庫
・ダンス・ダンス・ダンス:村上春樹、講談社文庫
・ノルウェイの森(上、下):村上春樹、講談社文庫
・さらば国分寺書店のオババ:椎名誠、新潮文庫
・村上朝日堂:村上春樹、新潮文庫
・村上朝日堂の逆襲:村上春樹、新潮文庫
・村上朝日堂はいかにして鍛えられたか:村上春樹、新潮文庫
・村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた:村上春樹、新潮文庫
・村上朝日堂 はいほー!:村上春樹、新潮文庫
・辺境・近境:村上春樹、新潮文庫
・夢のサーフシティー(CD−ROM版):村上春樹、朝日新聞
・スメルジャコフ対織田信長家臣団(CD−ROM版):村上春樹、朝日新聞
・村上春樹スタディーズ(01−05):栗坪良樹、拓植光彦、若草書房
・イエローページ 村上春樹:加藤典洋、荒地出版
・イアン・ブマルの日本探訪:イアン・ブルマ(石井信平訳)、TBSブリタニカ
・村上春樹の世界(東京偏1968−1997):ゼスト
・村上春樹を歩く:浦澄彬、彩流社
・村上春樹と日本の「記憶」:井上義夫、新潮社
・象が平原に還った日:久居つばき、新潮社
・ねじまき鳥の探し方:久居つばき、太田出版
・ノンフィクションと華麗な虚偽:久居つばき、マガジンハウス
・僕たちの好きな村上春樹:宝島別冊
・村上春樹の読み方:久居つばき、くわ正人、雷韻出版
・鼠の心:高橋丁未子、北宋社
  

 
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