●「村上ラヂオ2」の”うなぎ屋”とは!
    初版2011年7月16日  <V01L01> 

 今週は久しぶりに「村上春樹の世界」を掲載します。前回の掲載から一年以上経過しています(内容の更新は少ししています)。7月7日に新刊書として「村上ラヂオ2」が発売されましたので、青山関連のところを中心にして少し歩いてみました。


「村上ラヂオ2」
<「村上ラヂオ2」 マガジンハウス>
 「村上ラジオ」が最初に発刊されたのは2001年の6月で、「anan」に掲載されたのを一冊の本にまとめたものでした。前回から丁度10年が経ち、再度「anan」に掲載されたのをまとめています。村上春樹のエッセイはいつ読んでもおもしろいのですが、だんだん固有名詞が少なくなってきています。もう少し名前を出しても良いのではないでしょうか。その方か面白く読めます。
 まず最初は”おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2”の書き出しです。
「十年ぶりに戻ってきて
 この本は「アンアン」に連載していた「村上ラヂオ」を一年分まとめたものです。順番は連載の通りになっています。僕は十年ほど前にもやはり「アンアン」 で、同じタイトルの連載を持っていたのですが、そのあとは小説を書くのが忙しくて、とてもエッセイの連載どころではなくなってしまった。でも長篇小説『1Q84』を三年かかりでようやく書き終えて、肩の荷が下りたというか、「久しぶりにエッセイをまとめて書いてもいいかな」という気持ちになりました。…」


左上の写真はマガジンハウスの「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」の表紙です。「1Q84」で人気が高まり、出版各社が村上春樹に原稿依頼した結果ではないかとおもっています。

「 交番とSUBWAY」
<サブウェイ>
 「表参道の交番のそばに小さなうなぎ屋があった」と読むと、すぐに昔の「少年カフカ」の中のQ/Aで、同じような内容が書かれていたことをおもいだしました。東京紅団も「少年カフカの青山を歩く」で、一度掲載していました。その時はこの”小さなうなぎ屋”が分からずに苦労しました。今回は再チャレンジとして、探してみました。
 先づは「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」、”うなぎ屋の猫”からです。
「うなぎ屋の描
 その昔、表参道の交番のそばに小さなうなぎ屋があった。名前は覚えていない。古いしもたや風の造りで、だいたいいつも客席の座布団の上で猫がひなたぼっこをしていた。僕は昼下がりにそのうなぎ屋にいって、猫の隣でうなぎを食べるのが好きだった。今ではもうそのうなぎ屋はなくなって、たしか「サブウェイ」というファストフードの店になっている。……
… でも僕がいちばん懐かしく思い出すのは、表参道のうなぎ屋かもしれない。表参道ヒルズもなく、ルイ・ヴィトンもベネトンもなく、半蔵門線もなく、交番のおまわりさんはいつ見ても暇そうで、猫は日の当たる座布団の上で熟睡していた。でも括って、うなぎにはまったく興味がないのかなあ。…」

 村上春樹が青山界隈(千駄ヶ谷も含む)に住んでいたのは、昭和52年(1977)から昭和56年(1981)の間と、平成7年(6年?、1995)以降です。上記に”その昔”と書いてありますが、”その昔”が15年前なのか、33年前なのかよく分かりません。しかたがないので全て調べてみることにしました。

写真正面のやや左が表参道交番です。上記に書かれている「サブウェイ」は右側から2番目のビルの一階にありました。この「サブウェイ」は1990年代後半には既にあったようなので、”その昔”は昭和50年代と推測しました。

「'ONE表参道」
<うなぎ屋跡>
 ここからは昭和50年代の表参道と青山通りの交差点付近の”うなぎ屋”を探してみます。まず、「サブウェイ」の前は何だったのかですが、昭和40年代は「下島テーラー」という洋服屋さんだったようです(ビルではなく木造家屋)。その後の昭和50年代後半には6階建の「しもじまビル」になっています。この時は村上春樹は千葉に転居した後になります。村上春樹が千駄ヶ谷にいた頃は下島テーラーで、うなぎ屋ではなさそうです。
 この”うなぎや”については「少年カフカ」にも書かれていました。
「…僕は昔、表参道と青山通りの角の交番の前にあった小さなしもた屋風のうなぎ屋さんが好きで、よく食べに行きました。もう今はなくて、「SUBWAY」かなんかになってしまったんですが、値段もそんなに高くなくて、いつも座布団の上で大きな猫が昼寝していて、とてもいい感じのうなぎ屋さんでした。猫をなでながらうなぎが出てくるのを待っていて、出てくるとふたをとって、山椒をぱらぱらとかけて、それから割り箸をおもむろに割って、くんくんとうなぎのいい匂いを嗅いで、まずは肝吸いを軽くすすり……なんて書いているとだんだんうなぎ、食べたくなってきますね。…」
 この文章をよく読むと、”しもた屋風のうなぎ屋さん”と書かれています。ですからビルではないと分かります。そこで、もう少し範囲を広げて探してみました。秋葉神社から少し原宿側(4軒目)に「岡田うなぎ」という店を見つけることができました。

左上の写真はロエベ等が入っている”ONE表参道ビル”です。この右側が秋葉神社なので、写真の角から10数メートル先に「岡田うなぎ店」があったようです。推定ですが、 ”表参道の交番のそばに小さなうなぎ屋”というのは、この「岡田」という”うなぎ屋”のことではないでしょうか!!(昭和50年前後の地図を参照)

「青山ユアーズ跡」
<ユアーズ>
 村上春樹は昔の青山を書いています。下記の文章からすると、やっぱり昭和50年代ではないかとおもいます。
 「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」、”うなぎ屋の猫”からです。
「… 昔はあのあたりもずいぶんのんびりして、人通りも多くなく、猪が気持ちよく昼寝できるような環境が残っていた。僕が隣でうなぎを食べていても、猫はぜんぜん気にせずにぐうぐう寝ていた。きっとうなぎの匂いなんて嗅ぎ飽きていたのだろう。
 青山のあたりにはずいぶん長く住んでいて、いろんな店に通ったのだけど、そのほとんどはもう姿を消してしまった。スーパーでいえば「ユアーズ」もなくなり、「紀ノ国屋」もすっかり様変わりした。…」

 ”スーパーでいえば「ユアーズ」”と書いていますのでびっくりしました。「ユアーズ」まで覚えている人は少ないのではないでしょうか。回転扉のアメリカナイズしたスーパーでした。その頃は珍しい24時間営業だったような記憶があります。昭和57年頃(1982)までありましたが、その後は無くなっています。VANの別館が近くにあり、その左隣数軒先のビルが「ユアーズ」だったと記憶しています。間違っていたらごめんなさい。

写真の左側の青山クリスタルビルのところが「ユアーズ」跡です。右隣がワールド本社で、昔の面影は全くありません。


村上春樹の青山地図


村上春樹年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和49年 1974 長島茂雄引退 25 ジャズ喫茶「ビーター・キャット」を国分寺に開店
昭和52年 1977 巨人優勝 28 ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 4月 神宮球場で「僕は小説を書けると悟った」
11月 第22回群像新人文学賞に応募
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「jazzLife」6月号臨時増刊
「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)
11月 野間文芸新人賞(発表)(『群像』1983/1月号)
昭和59年 1984 江崎グリコ事件 35 神奈川県藤沢市に転居
昭和60年 1985 石川達三死去
夏目雅子死去
36 渋谷区千駄ヶ谷に転居
6月 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」 
8月 谷崎潤一郎賞(発表)(『中央公論』11月号)
昭和61年
1986 チェルノブイリ原発事故 37 2月 神奈川県大磯町に転居
10月 ローマ、ギリシャに滞在
平成7年 1995 兵庫県南部地震
地下鉄サリン事件
46 港区南青山に自宅兼事務所?
平成12年 2000   51 大磯内で転居



「レストラン「KIHACHI」跡」
<レストラン「KIHACHI」>
 さすがに村上春樹は青山の住民です。超高級レストランに行くことが出来ます。私は超高級レストランには興味を引かれませんでしたので、このお店も知りませんでした。予約が簡単に取れたら訪ねていたかもしれません。
 「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」、”うなぎ屋の猫”からです。
「… 青山橋の近くにレストラン「KIHACHI」があったころ、大雨や大雪が降ったり、台風が釆たりすると、いつもそこに食事をしにいった。普段はなかなかテーブルが取れないのだが、天候がひどくなると予約キャンセルか相次ぐので、がらがらの店内で心静かに食事を楽しむことができた。そのとき僕はすぐ近くのマンションに住んでいたので(これも最近取り壊されたが)、大雨も強風もへっちゃらだった。よく「そろそろ台風、来ないかな」とか思ったものだった。「KIHACHI」もどこかに移転した。…」
 このレストラン「KIHACHI」についてはあまり知りませんのでコメントはやめにしておきます。
1986年6月 - 株式会社キハチアンドエスを設立(株式会社サザビー80%、熊谷喜八20%出資)
1987年9月 - 東京・南青山にて創業。「レストランキハチ」1号店を開店

写真の正面のマンションの左側のやや小さいビルのところに「KIHACHI」はありました(正確にはレストランキハチ)。本店は銀座に移られたようです。

「アフタヌーン・ティー跡」
<アフタヌーン・ティー>
 このお店も「少年カフカ」に登場しています。
 「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」、”うなぎ屋の猫”からです。
「… 根津美術館の近くに「アフタヌーン・ティー」があったころ、そこによく本を読みにいった。落ち着いて本を読める明るい喫茶店はなかなかないので、けっこう重宝した。しかし僕が重宝する店はだいたいほどなく姿を消してしまう。そして今では、見渡す限り「スターバックス」ばかりになった。…」
 2000年過頃までは同じ場所にお店があったようですが、現在は無くなっていました。

写真の右側から2軒目に「アフタヌーンティー・ティールーム青山店」がありました。1F、2Fともお店だったとおもいます。写真の右側のビルはマクラーレンが入っています。一度覘かれるとたのしいお店です。

「バー「アルクール」跡」
<バー「アルクール」>
 村上春樹ファンには有名なお店です。村上春樹のエッセイには必ずどこかで登場していたとおもいます。
 「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」、”うなぎ屋の猫”からです。
「… 神宮球場の帰りにはよく、外苑西通りのバー「アルクール」に立ち寄ってお酒を飲んだ。僕が適当な名前をでっち上げてカクテルを注文すると(たとえば「シベリア・プリーズ」とか)、やくざなバーテンダーは顔色ひとつ変えずに適当なカクテルを作って出してくれた。変わった店だった。…」
 神宮球場からの帰り道にはちょうどよいとこにあるバーです。私も何度か訪ねました。価格もリーズナブルで比較的空いていて、入りやすいバーだったのですが、2008年末に閉店しています。推定ですが、儲からなかったのだとおもいます。

写真は現在の「アルクール」跡です。名前もそのままですので次が決まらないのでしょう。この「アルクール」は西麻布一丁目に転居していました(移転先の写真を掲載しておきます)。私は残念ながらまだ訪ねておりません。

「ロイズ青山 バー&グリル跡」
<「Roy's」>
 先ほどの「アルクール」から少し青山三丁目交差点方面に歩いたところにあった大きなレストラン・バーでした。
「おおきなかぶ、むずかしいアボカド 村上ラヂオ2」、”うなぎ屋の猫”からです。
「…そのすぐ近くにある「Roy's」のカウンターで、生ビールを飲みながら仔牛のカツレツを食べるのも、僕のひそかな楽しみのひとつだった。
残念ながらどちらもよそに移っていった。…」

 このお店はハワイでレストランチェーンを経営している日系ロイ・山口さんのお店です。東京よりもハワイで入ったことがある方のほうが多いのではないでしょうか!

写真は「Roy's」が入っていた現在のリビエラビルです。”ロイズ青山 バー&グリル”は六本木ヒルズウエストウォークに移転していました(移転先の写真を掲載しておきます)。此方はリーズナブルな価格設定のようなので、一度食してみたいとおもっています。

さらに更新する予定です。