●《村上春樹の世界》千駄ヶ谷を歩く
    初版2002年4月6日
    二版2003年8月4日 ピーターキャットの提灯の写真を追加
    三版2009年7月5日  <V02L01> 神宮前郵便局を追加

 今週から村上春樹の世界を歩いてみたいと思います。村上春樹は現役の作家であり、評論や解説のたぐいの本はたくさん(山のように)出版されていますが、彼自身の分析本は全くと言っていいほど出版されていません。それと彼自身及び、彼の家族、友達に関する情報もほとんどありません。谷崎潤一郎をみていると失礼ですが亡くなられてから、松子夫人、弟の谷崎精二さん、友人の津島寿一さん等が書いていますので、現役の時代に身近な方から詳細の情報を得るのは不可能だったようです。そこで村上春樹自信が「村上朝日堂」や他の本で断片的に書かれている彼自信のことをつなぎ合わせてみました。まだまだ不十分ですが、村上春樹の世界を少しでも感じて頂ければ幸いです。まず最初は村上春樹が小説が書けると悟った神宮球場がある”千駄ヶ谷”からです。


「神宮球場外野席」
神宮球場>
 イアン・ブルマの「日本探訪」のなかに村上春樹とのインタビューが掲載されています。特にその中で村上春樹が作家になろうとおもったときのことをインタビューしています。
「…僕は作家になるんだ」と悟って体がふるえた時のことを村上はありありと思い出す。早春の午後の東京だった。日差しは優しく、そよ風が吹き、焼きイカの臭いがしていた。そして、野球ファンの応援の声が聞こえていた。一九七八年四月、村上は二九歳だった。彼は神宮球場の外野席に座って、ヤクルト・スワローズと広島カープの試合を観戦していた。アメリカ人デーヴ・ヒルトンの来日初打席だった。彼は二塁打を打った。その瞬間村上は、僕は小説を書けると悟った。なぜだかはいまだに分からない。ただ悟ったのだ。その当時、彼は妻の陽子と一緒に東京でジャズバーを経営していた。バーの名は「ピーターキャット」。毎晩店を閉めたあと、村上は台所のテーブルに向かって一時間か二時間書いていた。彼が英語で書きはじめた小説は『風の歌を聴け』だった。…」
 昭和53年(1978)4月は、もっと正確にいうと昭和53年(1978)4月2日(日)のセリーグの開幕戦でした。ここに書かれているデーヴ・ヒルトンは一番バッターで初回に広島の高橋投手から二塁打を放っています。ですから村上春樹は試合が始まった瞬間に悟ったわけです。ちなみに入場者は43千人でヤクルトはこの日ピッチャー安田で3−1で勝利しています。昨年ヤクルトが優勝したとき、毎日新聞10月12日夕刊に「神宮球場の外野席で」というお祝いを書いています。

写真は神宮球場ライト外野席です。2002年3月のヤクルト広島オープン戦の時の神宮球場ライト側外野席です。どうみてもヤクルトより広島の応援団の方が多くて残念です。村上春樹の「村上ラジオ」を読んでいたら、「昔青山に、神宮球場に行く前に立ち寄る鮨屋があった。そこでお弁当に、特製太巻きを作ってもらった」、と書いています。この鮨屋さんがよく分からないのですが、たぶん「おけいすし」ではないかなと思っています。芸能人ご用達のすし屋として有名なのですが、村上春樹の寿司屋という確証はまだありません

「神宮前郵便局」
<神宮前郵便局>   2009年7月5日 追加
 村上春樹は昭和53年春先から小説を書き始めます。秋には書きあげます。そして村上春樹が応募した新人賞は「群像新人文学賞」でした。昭和53年(1978)11月になります。その当時のことを後に「新人賞前後」として書いています。
「本屋に行って文芸誌を何冊かばらばらとめくってみると新人賞の応募規定というのが幾つかあったが、「群像」の枚数と〆切り期日がいちばんぴったりと合っていたのでそれに決めた。原稿用紙に穴をあけて紐をとおし、小包にして神宮前郵便局に持っていった。小雨の降る肌寒い午後で、原稿の包みはレインコートの下に入れていった。なんだかすごく悪いことをしているような気がした。どうしてそんな風に思ったのか今でもよくわからない。」
 新人賞の応募には原稿用紙に穴をあけて紐でくくって出すのですね。初めて知りました。村上春樹が応募したのは「風の歌を聴け」ですね。

参考に、群像新人文学賞の応募規定(昭和53年(1978)10月号)です。
     ー   応 募 規 定   −
一、応募作品は未発表のものに限る。
一、枚数は、四百字詰原稿用紙で小説は二百五十枚以内(四、五十枚の短篇も可)。
  評論は百枚以内。
一、締切は昭和五十三年十一月三十日(当日消印有効)。
一、原稿には、住所、電話番号、本名、年齢、職業、略歴を明記すること。(なお、原稿は必ずしっかりととじてお送り下さい)
一、宛先は、東京都文京区音羽二−十二−二十一 〒112
  講談社 群像編集部 新人文学賞係
一、発表は本誌、昭和五十四年六月号。
一、賞金は小説・評論両部門とも十五万円。
 
写真の右側が神宮前郵便局(現在は渋谷神宮前郵便局)です。村上春樹はこの郵便局に群像新人賞に応募するためにやってきます。そして郵送します。写真の左には ジャズ喫茶の「カルテザック」がありました。 


村上春樹の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和52年 1977 巨人優勝 28 ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 4月 神宮球場で「僕は小説を書けると悟った」
11月 群像新人文学賞に応募
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号掲載)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス



「ピーターキャット跡 2F」
ピーター・キャット(千駄ヶ谷)
 昭和49年(1974)に国分寺で始めた「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転させます。このことを村上春樹は「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」のなかで、
「…前にも書いたけれど、その昔、僕は国分寺でジャズ喫茶を経営していた。ジャズ喫茶といってもそんなにシリアスなのではなくて、気楽にお酒も飲める店だ。自分で言うのも何だけれど、当時としてはなかなか悪くない店だった。でも事情があって都内の千駄ヶ谷に移ることになつた。…」
 とあり、金銭的なことではなくて移ったようです。昭和56年までここでお店を経営し、小説を書くためお店を友人に譲ります。

左上の写真のビルの二階に「ピーター・キャット」がありました。友人に譲ったお店は10年ほど前になくなり、現在はJAMAIKAUDON(ジャマイカウドン)という洒落たお酒の飲めるお店になっています。マスターが面白くて楽しいお店です。

「プリンス・ビラ跡」
<プリンス・ビラ>
 国分寺から「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転させた時に村上春樹が住んだのがこの「プリンス・ビラ」だとおもわれます。村上春樹の「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」の中に、
「…僕は昔千駄ヶ谷にあった「プリンス・ビラ」という木造二階建てのアパートに住んでいましたが、これは今の天皇が結婚した時に建てられたので、そういう名前になったということでした。狭かったけど、なかなか雰囲気のある可愛いアパートだったですよ。…」
 と書かれています。

写真の場所が「プリンス・ビラ」が建っていた所です。残念ながらアパートは現存せず、建て直されてファッション関連会社の建物になっていました。写真には写っていませんがこの建物の右側に古い木造の建物があり(ぼろぼろですが)、昭和50年前後の雰囲気があります。「ピーター・キャット」からは約300m位のところです。

「ナカ理容室」
<ナカ理容室>
 「ピーター・キャット」のすぐ側に千駄ヶ谷商店街があります。「夢のサーフシティー」のなかのホームヘージでこの商店街のことを、
「…こんにちは。千駄ヶ谷の商店街、なつかしいですね。僕はよく明治屋書店で本を買って、近くの床屋でいつも散髪をしていました。でも床屋は予約を受けてないし、僕も家が遠くなって、忙しくなったので、さいきんはしょうがなくて予約の取れる美容室に行くようになってしまいました。残念ですが。それからカドの「紅葉不動産」が僕の住んでいたマンションの大家さんだったんです。千駄ヶ谷商店街のナカ理容室のみなさんお元気ですか?…」
 二人と書いています。鳩森神社前の交差点にある紅葉不動産はそのままですが、明治屋書店はなくなっています。また床屋については「村上朝日堂の逆襲」のなかでは、
「…僕の行きつけの床屋は千駄ヶ谷にある。僕は今のところ藤沢に住んでいるので、二カ月に三回の割合で小田急のロマンス・カーに乗って、千駄ヶ谷まで髪を切りに来る。……藤沢の前は習志野に住んでいて、このときもやはり片道一時間半かけてこの床屋に通っていたのだ……だからかれこれ八年くらいのつきあいである。…」
、とも書かれています(なぜ床屋を換えないかについても書かれていますので本を読んでください、おもしろいですよ!)。この千駄ヶ谷の床屋がナカ理容室ですが、上に書かれている通り現在は安西水丸さんの紹介の美容室に行かれているようです。

「ピータキャット提灯」
左上の写真がナカ美容室です。私もナカ理容室に行ってみよかなとも思ったのですが、10数年行きつけの床屋がありまして、結局他の床屋へはいけませんでした(理由は村上春樹と同じですね)。このほかには、
「…ところで以前あそこに広島お好み焼き屋さんがありましたね。覚えておられますか?僕はあそこがけっこう好きだったんですが、いつかなくなってしまいました。それから「みうら」という、津田ビジネス・スクールの裏手に昔あった小さな食堂は、なかなかよかったですね。…」
、とも書いています、お好み焼き屋「お多福」は代々木駅の方に移転(ランチでそば入り肉玉シャンボを食べてきました)、「みうら」は近くの不動産屋に変わっていました。

右の写真は鳩森神社の盆踊り大会(2003年7月)の時に架かっていた”ピーターキャット”の提灯です。石原さんからメールで写真を送って頂きました。ありがとうございました。(私も写真を撮りにいきました)。ピーターキャットが千駄ヶ谷でオープンしていたのは1977年から80年ころですから、20数年前の提灯になるとおもいます。(2003/8/4改版)

「ホープ軒」
ホープ軒>
 村上春樹が中華料理が嫌いなのは皆さんよくご存知ですね。「村上朝日堂」のなかで、
「…僕はけっこう偏食がちな人間である。……それから中華料理となると一切食べられない。……千駄ヶ谷に住んでいた時分、僕の家の近くのキラー通りに美味いという評判のラーメン屋が二軒並んであって、その前を通ると嫌いなラーメンの匂いがぷんぷんするので、僕は家に帰るのにいつも大変苦労をした。僕の友人はその前を通るたびにラーメンを食べたいという激しい欲望を押さえるのに大変苦労しているそうである。そういう話を聞くとラーメンが好きか嫌いかの違いだけでも人生の様相はかなり変ってくるんだろうなあという気がする。…」
 と書いています。ラーメン屋さんの一軒は有名な「ホープ軒」です(もう一軒は左隣の”コパン”です)。私も「ホープ軒」のチャーシューメン(850円)が大好きです。

写真がキラー通り(外苑西通り)の「ホープ軒」です。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」にもこの二軒のラーメン屋と床屋(ナカ理容室)が登場します。
「…私は地上の風景を頭に思い浮かべてみた。もし彼女の言うとおりだとしたら、この上あたりに二軒並んだラーメン屋と河出書房とビクター・スタジオがあるはずだった。私の通っている床屋もその近くにある。私はもう十年もその床屋に通っているのだ。「この近くに行きつけの床屋があるんだ」と私は言った。…」
 よほどラーメン屋と床屋が気になっているのですね。


村上春樹の千駄ヶ谷地図