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最終更新日:2020年11月27日


●村上春樹の直子を歩く (阿美寮編)

 初版2005年6月4日
 二版2005年7月30日
 三版2006年6月17日 
<V01L01> anan追加
 四版2020年4月8日 
<V01L02> YouTube版 「村上春樹の世界」 No.16 「ノルウェイの森」の「阿美寮」を探す
 2020年4月8日(YouTube版「村上春樹の世界」 No.16 「ノルウェイの森」の「阿美寮」を探す)
 《村上春樹の世界》をYouTube化しましたので見て頂ければとおもいます。 今回は、「No.16 「ノルウェイの森」の「阿美寮」を探す」です。

 今週は久しぶりに村上春樹を歩きます。昔に戻って「ノルウェイの森」から「阿美寮」を探してみました。本に書かれている”三条京阪バスのりば”からバスの道を辿って「阿美寮」探します。


<an・an 1983年7・8特別号「男と京都へ」> 2006年6月17日追加
 探していた雑誌がようやく見つかりました。この雑誌の中に村上春樹が京都について書いています。タイトルは、「いま京都へ行くんだったら、すぐ山奥に入りこんでしまうほうがいい。ゆっくり、おいしいものでも食べながら。」、と書いており、京都については否定的に書いています。この後に「阿美寮」に関係することが書かれていました。「…女の子とデートするときは、京都へ出かけてました。銀閣寺から疎水の道を歩くのがデートコース。昔は何もなかったし、最後に動物園に寄るんだけどへ入場料が45円くらいだったかな。ここも良かったね。今の京都の市内だったら、蹴上の都ホテルのあたりは良いですね。昔とあまり変わってない感じだし、特に山ぞいの風景が好きですよ。それと食べものの問題。もともと懐石風のものは好きじゃないんですけどね、 …… 今年も5月に鞍馬の先、大悲山のほうへ行ってきたんです。摘み草料理で名の通った旅館、『美山荘』に泊まって。山菜を食べたくなって出かけたんだけど、おいしかったですよ。3年位前には暮から正月にかけて貴船の旅館『ふじや』でのんびり…」。鞍馬の先の大悲山にある『美山荘』が書かれています。やっぱり美山荘に泊まったことがあったようです。「ノルウェイの森」が書かれたのが1987年、「蛍・納屋を焼く」が1984年ですから、これで「阿美寮」は『美山荘』できまりです!!

左の写真が1983年7・8月特別号のan・anです。京都特集で「男と京都へ」、凄いタイトルですね!!


<IN・POCKET 村上春樹vs村上龍> 2005年7月30日追加
 1985年10月号「IN・POCKET」の村上春樹VS村上龍から、「…春樹 ぼくは懐石料理が一番好きです。いわゆる会席料理の店。気取ったやつは好きじゃないけど。京都の鞍馬の奥なんかに行くと小さな懐石旅館みたいなのがある。お惣菜風懐石料理。奥さんが自分の手で作っているようなやつが。包丁の音が聞こえてきそうなんですね。……腹減ってきちゃった(笑)…」、とあります。上記のan・anが1983年、この「IN・POCKET」が1985年です。同じ内容をすこしぼかして書いています。いつのまに懐石料理がすきになったのでしょう。83年の頃は小説家としては新米で慣れてなくて、思ったまま書いていたようです。

右の写真が1985年10月の「IN・POCKET」です。「村上春樹vs村上龍」の特集です。

<峠のバス>
 「阿美寮」を探すのに、4つのポイントで探しました。一つは”三条京阪バスのりば”、二つ目は”鴨川沿いを走るバス”、三つ目は”待ち合わせをしなければならない細い道”、そして最後は”峠”です。「…二十人ばかりの客を乗せてしまうとバスはすぐに出発し、鴨川に沿って京都市内を北へと向った。北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、畑や空き地が目につくようになった。黒い瓦屋根やビニール・ハウスが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。……市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運転手はそこでバスを停め、五、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと乗客に告げた。客は僕を含めてもう四人しか残っていなかったがみんなバスを降りて体をのばしたり、煙草を吸ったり、眼下に広がる京都の町並を眺めたりした。運転手は立小便をした。ひもでしぼった大きな段ボール箱を車内に持ちこんでいた五十前後のよく日焼けした男が、山に上るのかと僕に質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。 やがて反対側からバスが上ってきて我々のバスのわきに停まり、運転手が降りてきた。二人の運転手は少し話をしてからそれぞれのバスに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そして二台のバスはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。…」。この4条件から探すと、大原行きと広河原行の二本のバス路線が考えられますが、下記に説明しています峠や鴨川沿いを走る条件では広河原行しかありません。下鴨神社で鴨川は二つに別れています。左側が鴨川で、右側が高野川になります(二つの川が下鴨神社で合流して鴨川になる)。「広河原行」バスが鴨川沿いを走り、大原方面は高野川沿いを走ります。ですから「広河原行」バスが正解と考えました。これから、バス道を順に紹介していきます。

左上の写真は花背峠を走る「広河原行」京都バスです(後ろ向きの写真も)。すれ違いが出来ないバス道はまだ健在でした。途中に無線機を持った係員がいて、すれ違いを調整していました(数カ所ありました)。また、バスは音楽を流しながら峠を登ってきます(注意を喚起しているようです)。もう一つ大切な条件がありました。「…大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都まで出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴しく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過した。日が暮れるとレイコさんがギターを弾き、我々は三人で話をした。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロス・カントリー・スキーをした。スキーをはいて一時間も山の中を歩いていると息が切れて汗だくになった。…」。この条件も「広河原行」バスは当てはまります。広河原にスキー場があるのですが、当時はまだありませんでした。

<村上春樹の京都地図 -1->


<三条京阪バスのりば>
 東京駅を8時発のひかりに乗ると11時前に京都に着きます。一番オーソドックスな京都行きです。「…京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従って市バスで三条まで出て、そこの近くにある私鉄バスのターミナルに行って十六番のバスはどこの乗り場から何時に出るのかと訊いた。十一時三十五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだいたい一時間少しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の書店に入って地図を買い、待合室のベンチに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた。…」。下記に51年当時の三条京阪バスのりばの地図を掲載します。これは「京都のりもの案内 昭和51年度」を参照しています。昭和48年度版もありましたがほぼ同じでした。「ノルウェイの森」は昭和62年(1987)ですが、村上春樹が早稲田を卒業したのが昭和50年ですから、この時代だとおもいます。

左上の写真が現在の”三条京阪バスのりば”です。昭和51年当時は京阪電車のりばが地上にあり、川端通りも三条で途切れていました(現在は京阪電車が地下化しており、地上はバスのりばになって、川端通りも繋がっている)。当時のバスのりばは三条京阪電車のりばの右側に京都市バスのりば、京都バスのりば、京阪バスのりばの三つにわかれていました。本には16番のバスと書いてありますが、48年当時で16番は「白梅町行」、51年当時で「金閣寺行」となっていました。「広河原行」は32番で、現在も変わっていません(参考に「大原行」は13番)。「広河原行」は10番のりばから出ていました。現在は三条京阪バスのりばからは出発せずに、出町柳駅から出発しています。現在の時刻表も掲載しておきます。一日四本のバスでした。

<村上春樹の三条京阪地図 -2->


<阿美寮へのバス道>
 「…やがてバスは山の中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづけ、僕は少し気分があるくなった。朝飲んだコーヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。そのうちにカーブもだんだん少くなってやっとほっと一息ついた頃に、バスは突然ひやりとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎり、うす暗い影で万物を覆っていた。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その湿気は肌に痛いばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界中が永遠に杉林で埋め尽されてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりでやっと林が終り、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で白い煙が一本細くたちのぼり、あちこちの物干には洗濯物がかかり、犬が何匹か吠えていた。家の前には薪が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。…」。右上の写真が林の中のバス道です。狭くてバスがすれ違うには少し無理です。「熊出没注意」の看板にはビックリしてしまいました。京都市内から一時間もかからない場所です。

左の写真が花背峠を越えて平地になった所の村です。「…我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。…」。の所とおもいます。京都市内から一時間少しかかるところです。現在の住所で京都市左京区花脊別所町となります。

当時の京都バスの道を辿ってみると、三条京阪→出町柳→下鴨神社→北大路新町→上賀茂神社→貴船口→鞍馬→花背峠→花脊別所町→大布施町→大悲山口、となります。バスはもう少し先の広河原までいきます。

停留所>
 阿美寮へのバス停留所とおもわれる所です。終点の「広河原」はこのバス停留所より少し先になります。「…僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕はナップザックを屑にかけて、谷川に沿って登山ルートを上りはじめた。道の左手には川が流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手に車がやっと一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」という看板が立っていた。…」。「ノルウェイの森」で書かれていた”終点の少し手前で下りた”にぴったり当てはまります。

右の写真が阿美寮へのバス停留所とおもわれる「大悲山口」です。ここから右に入っていきます。

<阿美寮>
 私が推定したのは京都市左京区花脊原地町にある峰定寺付近ではないかということです。このお寺の参道に美山荘という小さな旅館があります。「…雑木林の中の道にはくっきりと車のタイヤのあとがついていた。まわりの林の中で時折ばたばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分的に拡大されたように妙に鮮明な音だった。一度だけ銃声のようなボオンという音が遠くの方で聞こえたが、こちらは何枚かフィルターをとおしたみたいに小さくくぐもった音だった。雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらいの高さで上に柵や綱がついているわけではなく越えようと思えばいくらでも越えられる代物だった。黒い門扉は鉄製で頑丈そうだったが、これは開けっ放しになっていて、門衛小屋には門番の姿は見えなかった。門の・わきには「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」というさっきと同じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい先刻まで人がいたことを示す形跡が残っていた。灰皿には三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が残り、棚にはトランジスタ・ラジオがあり、壁では時計がコツコツという乾いた音を立てて時を刻んでいた。僕はそこで門衛の戻ってくるのを待ってみたが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くにあるベルのようなものを二、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になっていて、そこにはミニ・バスと4WDのランド・クルーザーとダークブルーのボルボがとまっていた。三十台くらいは車が停められそうだったが、停まっているのはその三台きりだった。…」。峰定寺の入り口に黒い冊があり、阿美寮の入り口とよく似ていました。小説ですので、そっくりの場所はないとはおもいますが、作者がこの場所のイメージで小説を書いたのではないかとおもいます。

左の写真が峰定寺の参道と美山荘の入り口です。住所的には京都市左京区花脊原地町となります。

阿美寮は小説「ノルウェイの森」の中の寮です。実在しませんので今回は私個人があくまでも推測したものです。

【参考文献】
・ノルウェイの森 上 下:村上春樹、講談社文庫
・村上春樹と日本の「記憶」:井上義夫、新潮社
・京都のりもの案内 昭和48年度、51年度:ユニプラン

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