●《村上春樹の世界》国分寺を歩く
    初版2002年5月4日
    二版2005年9月5日 国分寺での住居とお好み焼き屋「まねき」を追加
    三版2012年4月8日 「メゾンけやき」を追加、一部写真を更新  <V01L05> 

 「《村上春樹の世界》国分寺を歩く」を大幅改版しました。写真を最新版に入替(一部は2002年の写真を使用)、新たな情報を元に内容を修正追加しました。特に、村上春樹が国分寺で転居した先を掲載しました。村上春樹が初めてジャズ喫茶(ジャズ・バーと呼ぶ方が正しい?)「ピーター・キャット」を開いた国分寺をお楽しみください。

 

 今回の改版については、Hさんより「ピーター・キャット」の様々な情報を教えて頂きました。ありがとうございます。

 Hさんのブログもご紹介しておきます。『国分寺・国立70Sグラフィティ


「”peter-cat”のマッチ」
<「peter-cat」>
 イアン・ブルマの「日本探訪」のなかで、国分寺に初めて開いたジャズ喫茶「ピーター・キャット」のことについて書かれています。
「…彼らはあてどもなく自分たちの場所を作り上げようともがく。村上が陽子と一緒にジャズバーに隠棲することになったのもそれに似ている。写真家の松村映三は村上とは長い付き合いがあるが、いまだに村上の ことが分からないと言う。松村は私に、ピーターキャットは「時間が静止していた所だ」と評してくれた。そこは窓のない地下室である。昼の問は喫茶店で、夜になるとアルコールが出る。その薄暗がりの中で村上はジャズのレコードをかけ、飲み物を作り、皿を洗った。そして、アメリカの小説を読んだ。おしゃべりは陽子が受け持った。このバーであの年月を過ごさなかったら、小説家にはなれなかったろうと村上は確信している。…」

 私は残念ながら一度も「ピーター・キャット」を訪ねたことが無いので「その薄暗がりの中の…」とかの雰囲気が分かりませんが、ジャズ喫茶はかなりの数、訪ねていますので、なんとはなく その言い表せない雰囲気は分かります。ちなみにお店の名前は飼っていた猫の名前に因んでいますが、三鷹時代に飼っていた猫が「ピーター」、国分寺時代は「ミューズ」です。

左上の写真が国分寺時代の「ビーター・キャット」のマッチです。宇都宮のピーター ファン様より提供して頂きました。ありがとうございました。

「国分寺駅」
国分寺駅>
 国分寺は新宿からJR中央線中央特快で28分程の時間がかかります。都心からはすこし遠い感じなのですが、国分寺の周りには国立の一橋大学や東京学芸大学等があり、学生の街という雰囲気があります。村上春樹は国分寺で店を開いた理由を「村上朝日堂」のなかで書いています
「…いつまでも居候をしているわけにもいかないので、女房の実家を出て、国分寺に引越した。どうして国分寺かというと、そこでジャズ喫茶を開こうと決心したからである。はじめは就職してもいいな、という感じでコネのあるテレビ局なんかを幾つかまわったのだけど、仕事の内容があまりに馬鹿馬鹿しいのでやめた。そんなことやるくらいなら小さな店でもいいから自分一人できちんとした仕事をしたかった。自分の手で材料を選んで、自分の手でものを作って、自分の手でそれを客に提供できる仕事のことだ。でも結局僕にできることといえばジャズ喫茶くらいのものだった。とにかくジャズが好きだったし、ジャズに少しでもかかわる仕事をやりたかった。…」
 
と書いています。

写真は現在の国分寺駅南口です。少し前の写真と比較すると、何かが無くなっています。”MARUI”の右側にあった”国分寺駅”という名前が無くなっています。国分寺駅は元々は北口しかなくて、昭和31年に南口が開設されたようです。この駅舎は平成元年にビル化されており、昭和40年代の駅舎の写真を掲載しておきます。村上春樹のピーター・キャットの時代の国分寺駅です。写真には昭和48年に廃止された国分寺駅から東京競馬場に向かう下河原線のプラットホームが写っています(一番手前側)。本当に田舎の雰囲気でした。


村上春樹年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和39年 1964 東京オリンピョク 15 4月 兵庫県立神戸高校入学
昭和43年 1968 エンタープライズ寄港阻止衝突
パリ5月革命
19 4月 一浪して早稲田大学第一文学部演劇科入学
昭和44年 1969 東大安田講堂封鎖解除 20 春、三鷹のアパートに転居
昭和45年 1970 三島由紀夫割腹自殺
よど号事件
21 アルバイトに精を出す
昭和46年 1971 ニクソンショック 22 陽子夫人と学生結婚
10月 文京区千石の夫人の実家に転居
昭和49年 1974 長島茂雄引退 25 国分寺に転居し、春、ジャズ喫茶「ビーター・キャット」を開店
昭和50年 1975 サイゴン陥落 26 3月 早稲田大学第一文学部演劇科卒業(7年かかる)
春 国分寺で転居
昭和52年 1977 巨人優勝 28 ジャズ喫茶「ピーター・キャット」を千駄ヶ谷に移転
昭和53年 1978 ヤクルト優勝 29 4月 神宮球場で「僕は小説を書けると悟った」
11月 第22回群像新人文学賞に応募
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 4月 第22回群像新人文学賞(発表)
5月 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 2月 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
8月 上半期芥川賞を逃す
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
ホットドッグ・プレス
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「jazzLife」6月号臨時増刊
「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)
11月 野間文芸新人賞(発表)(『群像』1983/1月号)



「国分寺書店の跡」
国分寺書店>
 国分寺の駅から一番近くて有名な古書店が国分寺書店ではなかったのかなと思います。椎名誠の「さらば国分寺書店のオババ」で書かれているので結構有名なのですが、残念ながらもうありません。古本屋から陶器の専門店になり、惣菜屋から貴金属のお店になっています。村上春樹の「村上朝日堂 スメルジャコフ」のなかにも書かれています。
「…もう20年以上前の話です。国分寺もずいぶん変わってしまいました。このあいだ行ったら、なにがなんだかわからなかったです。有名な「国分寺書店」もなくなっちゃってましたしね。…」

 また「村上朝日堂 夢のサーフシティー」のなかにも書かれています。
「…椎名誠さんの本で有名な「国分寺書店」がありました。なかなか良い古本屋さんだったのですが、今はもうありません。おばばはそんなに怖くなかったですよ。…」
 
椎名誠の「さらば国分寺書店のオババ」を読んでいないとよく分からないフレーズですが地元の人にはかなり有名だったのですね。「村上朝日堂の逆襲」では
「…買い物のついでに「国分寺書店」に寄って本を売ったり、安い古本を買ったりした。それから家にかえって簡単に昼食をとり、アイロンをかけ、ざっと掃除をし(僕は掃除が苦手なのであまり丁寧にはやらない)、夕方まで縁側に座って猫と遊んだり本を読んだりしてのんびりと過ごす。なにしろ暇なものだから、僕はこの時期だけで、「講談社・少年少女世界名作全集」を読破したし、『細雪』なんて三回も読んだ。…」

 「細雪」を三回も読むなんですごい(やっぱり芦屋出身だからかな!)!

左上の写真は現在の「国分寺書店」の跡です。右側のビルのところです。表通りから裏通りまで貫通したビルで、上記にも書いていますが表通り側は、少し前までは惣菜屋でしたが、現在は貴金属買取店になっています。時代を象徴していますね!

 椎名誠の「さらば国分寺書店のオババ」からも掲載しておきます。
「… たとえば、ある日おれは国分寺の古本屋に本を売りに小平市からダンボールに入った本を実用自転車にのせて、エイヤッエイヤッというふうに熱心に国分寺までやってきたわけです。
 国分寺には古本屋が二軒あって、なぜか二軒とも国分寺駅南口にあるのだ。一軒は国分寺書店といって、ここはわりあい幅ひろいジャンルの本が揃っているのだけれく、店主がしなびたバアちゃんで、意のわりにはイヤにすきとおった若々しい声を出すのだけれど、これがまあじつにモーレッ的にうるさいバアちゃんなのね。
 たとえば一冊棚から本を出して眺めるとするでしょう。するとそのオババはじっとその人を眺めているわけ。
 そしてすこしランポウに本をめくったり、カバーのパーフフィン紙をガシャガシャとすこしぞんざい気味に扱ったりすると、即座にスルドイ声でおこられてしまうのである。…」

 椎名誠は国分寺書店に古本を売りに行くつもりだったのですが、結局、売りに行けずにもう一軒の古本屋に持って行き、買いたたかれてします。この後は本を読んで下さい。もう一軒の古本屋は現在の「国分寺ステップス」のところにあり、ミカドキッチンと梨花中華に挟まれていました。現在はありません。

「ほんやら洞」
ほんやら洞>
 村上春樹は国分寺を「村上朝日堂 夢のサーフシティー」のホーラムの中で紹介しています。
「…僕が昔やっていた国分寺の店は、南口の殿ガ谷公園(当時はまだなかった)のすぐ近くにありました。一階に旅行代理店があるビルの地下です。今どうなっているのか、僕は知りません。……近所の「グルマン」のカレーはなかなかおいしかったですよ。」…、…「国分寺というと、「ぐるまん」のカレーが好きでした。「寺珈屋」という喫茶店があって、カメラのエイゾー(梅竹下ランナーズ・クラブ副会長)もそこの常連でした。…」
 
殿ガ谷公園とは正確には殿ケ谷戸庭園で、旧満鉄総裁の別邸で、昭和4年に三菱財閥の岩崎氏の所有となり東京都が昭和49年に購入しています。「グルマン」のカレーのお店は残念ながらもうありません。同じ場所にマンションが建てられていました。少し前まではローソンが入っていたのですがいまはありませんでした。「寺珈屋」は「ピーター・キャット」と同じトミービルの一階のお店だったようです。

左の写真は現在の「ピーター・キャット」のあったビルの斜め前にある「ほんやら洞」です。お店の中は演劇文学などアングラ系のカフェと見えました。お店のお嬢さん?にこのお店の周りのことをいろいろ教えてもらいました、ありがとうございました【昔のことをよく知っておられました(2002年)】。当時の「ほんやら洞」の写真を掲載しておきます。

「まねき跡」
まねき、ピッコロ>
 2005年9月5日 お好み焼き屋「まねき」を追加
 「村上朝日堂 夢のサーフシティー」に書かれている泉町の坂の下の「ピッコロ」と奇妙なお好み焼き屋の「まねき」についても宇都宮のピーター ファン様より教えていただきました。
「…「まねき」という奇妙なお好み焼き屋があって、「ピッコロ」が泉町の坂のところにあった。なつかしいですね。…」

 泉町の坂を下った、野川手前右側に「まねき」が、その先の交差点手前左側に「ピッコロ」がありました。残念ながら「まねき」は建物が変わってしまい「ピッコロ」は建物自体が無くなっていました。

写真右側、茶色のビルの所が「まねき」跡です。「まねき」の手前が「鳥しげ」、もう一つ手前が「清水商店」と続いていたのですが、全て無くなっていました。

 「ピッコロ」はこの写真先の泉町一丁目交差点手前左側にがありました。反対側から撮影した泉町一丁目交差点の写真を掲載しておきます(写真右側、信号の先になります)。現在はありません。

「三角地帯」
村上春樹の住居(其の一)>
  2005年9月5日 国分寺での住居を追加
 村上春樹の国分寺での住いにつては何処かの本に書かれていたと記憶していたのですが、歳のせいか、なかなか思い出せませんでした。先日 、Iさんよりメールを頂き思い出しました。
「我々はその土地を「三角地帯」と呼んでいた。それ以外にどう呼べばいいのか僕には見当もつかなかった。だってそれはまったくの、絵に描いたような三角形の土地だったのだ。僕と彼女はそんな土地の上に住んでいた。一九七三年だか四年だかの話だ。…」

 「カンガルー日和」の「チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏」の書き出しです。
「…「三角地帯」の両脇には二種類の鉄道線路が走っていた。ひとつは国鉄線で、もうひとつは私鉄線である。その二つの鉄道線はしばらく併走してから、このくさびの先端を分岐点として、まるでひき裂かれるように不自然な角度で北と南に分かれるのだ。……しかし住み心地・居住性という観点から見れば「三角地帯」は実に無茶苦茶な代物だった。まず騒音がひどかった。それはそうだ。なにしろ二本の鉄道線路にぴったりとはさみこまれているわけだから、うるさくないわけがない。玄関の戸を開けると目の前を電車が走っているし、裏側の窓を開けるとそれはそれでまた別の電車が目の前を走っている。目の前という表現は決して誇張ではない。じつさい乗客と目が合って会釈できるくらい間近に電車は走っていたのだ。今思い出してもたいしたものだという気がする。…」

 大変な所に住んでたようです。このエッセイの中でも書いていますが、若さゆえに住めたのだと!!

 国分寺に転居した時期についてハッキリしませんが、
「結婚して二年目くらいのことだったと思うけれど、僕は半年くらい「主夫=ハウスハズバンド」をやっていたことがある。そのときはなんということもなくごく普通に毎日を送っていたのだが、今になってみるとあの半年は僕の人生の最良の一ページであったような気がする。…」

と国分寺時代のことを書いていますので、ピーター・キャットができる昭和47年の前年の昭和46年には国分寺に転居していたとおもわれます。開店の工事には半年もかかりませんので、先に移り住んでから、ジャズ喫茶を開店する場所を探したのではないかとおもいます。

写真は写真の青く塗られた家(当時は青く無かった?)ではないかと推定しています。
「…僕と彼女は「三角地帯」の先端にぽつんと建っている家の中に入り、一時間ばかりそこでぼんやりしていた。そのあいだにずいぶんたくさんの電車が家の両側を通り過ぎていった…」

と書かれていますので、三角形の突端となるとこの青い家なのです。三角形の突端とわかる写真も掲載しておきます。

「メゾンけやき」
村上春樹の住居(其の二)>
  2012年4月7日 国分寺での二回目の住居を追加
 村上春樹は国分寺で、一度、転居しています。最初に住んだ「三角地帯」はJR中央線の直ぐ横であり、騒音ばかりでなく建物の揺れもかなりあったのではないでしょうか。「三角地帯」では長く住めなかったとおもいます。そこで転居したのが、”まねき”や”ピッコロ”の直ぐ傍にあった”メゾンけやき”です。中央線の反対側に転居してきたわけです。飲み屋も近くて非常に住みやすかったのではないでしょうか。
 村上春樹は国分寺での転居について書かれた本はみあたりませんでした。(Hさんより頂いた情報です)

写真は泉町一丁目交差点から東側を撮影したものです。左から二件目のマンションが”メゾンけやき”です。残念ながら建て直されています。名前と場所は変わっていません。

「現在のトミービル」
<ピーター・キャット>
 村上春樹は「村上朝日堂」のなかで「ピーター・キャット」を作った時の様子を書いています。
「…資金のことを言うと、僕と女房と二人でアルバイトをして貯めた金が二百五十万、あとの二百五十万は両方の親から借りた。昭和四十九年のことである。その当時の国分寺では五百万あればわりに良い場所で二十坪くらいの広さの、結構感じの良い店を作ることができた。五百万というのは殆ど資本のない人間でも無理すれば集められない額の金ではなかった。つまり金はないけれど就職もしたくないなという人間にも、アイデア次第でなんとか自分で商売を始めることができる時代だったのだ。国分寺の僕の店のまわりにもそういった人たちのやっている楽しい店がいっぱいあった。…」
 
昭和50年代ですから250万円というと結構いい車(クラウン?)が買える金額だと思います。いまクラウンが500万円くらいですから、一千万円でお店が作れるかというと少し無理みたいですね。それと二人で250万円バイトで稼いだと書いていますが、こちらの方がすごいですね、一日働いて数千円のころですから、これだけ稼ぐのは大変です。

写真は村上春樹が開いたジャズ喫茶「ピーター・キャット」があったトミービルです。お店は地下にありました。現在はレンタルルームになっています。

「国立の紀ノ国屋」
国立 紀ノ国屋>
 村上春樹が国分寺時代によく通ったスーパーが国立の紀ノ国屋です。「村上朝日堂 スメルジャコフ」からです。
「…僕は国分寺に住んでいたときに、よく国立の紀ノ国屋に買い物に行きましたが、……昔は国立 紀ノ国屋のレジはなぜかとても美人の店員が多くて、それも売りのひとつでした。この前行ってみたら、今はなんか・・・あー、まずいなこんなこと言うと。つまり、今でもじゅうぶん綺麗な方が多かったです。…」
 この紀ノ国屋はお店の仕入れに使っていたようです。さすがに村上春樹で、良い物をメニューのそろえていたのではないでしょうか。お客の質が良くなるわけです。それでも、金銭的には苦労していたようです。
 「村上朝日堂はいかに鍛えられたか」のなかに書いています。
「…結婚して商売を始めたばかりのころ、僕は借金を抱えて四苦八苦していた。あるとき、翌日の午後三時までに銀行にある額の金を返済しなくてはならないのに、どうしても三万円が足りないという羽目に陥った。……風もない、しんと静かな夜だった。そうしたら、家に向かう道に紙片がばらばらと何枚か落ちているのが目についた。近寄って見るとそれは一万円札だった。それもちょうど三枚あった。ついさっき、空からそこにはらはらと舞い降りてきたばかりという感じだった。あたりを見回したが、誰もいない。人通りのない真夜中である。僕らは自分の目が信じられなかった。金額までぴたりとあっている。そんなにうまい話が世の中にはあるのか? でも本当にあったんだからしょうがない。ユングならそれを「シンクロニシティー」とでも呼ぶところだが、当時はそんな立派な言葉があることすら知らなかった。その三万円を拾ったとき、夫婦で手を取り合って泣いた……」
 
「村上朝日堂はいかに鍛えられたか」を読んでいると国分寺のころは大変だったのだなとおもいます。国立の紀ノ国屋は青山にある紀ノ国屋と同じお店で、私も世田谷の紀ノ国屋で時々買物をしますが、かなり高級です。

写真は国立駅前の紀ノ国屋です。世田谷の紀ノ国屋ではいつもベンツやBMWに乗った方が買い物にきています。いい素材の食料品をそれなりのお値段で提供してるお店です。
 ついでに国立のお店を一軒紹介します。
「国立「キャンディー・ポット」は、僕が国分寺で店をやっているときに常連で通っていた「吉田くん」がやっている店です。吉田くんはそのころ僕が拾ってきた野良猫までひきとってくれました。親切な人です。また行ってあげてください。」
 
村上春樹が紹介しているのは国立駅近くにある「キャンディー・ポット」です。ジャズバーです。


村上春樹の国分寺地図



村上春樹の国立地図