●村上春樹と大森一樹の神戸を歩く
    初版2008年1月1日
    二版2008年1月7日 <V01L02> 「元映」を追加
明けましておめでとうございます。今週はマニアックで凄くローカルな話題を掲載したいと思います。「Hot・Dog PRESS」の昭和56年(1981)12月10日号に村上春樹と大森一樹のインタビュー記事が掲載されています。この記事に従って歩いてみました。

「Hot・Dog PRESS」
<Hot・Dog PRESS>
ホットドッグ・プレスとは懐かしい雑誌です。当時としては流行の雑誌だったと思います。この雑誌にどう言うわけか「”HUMAN・HOT・INTERVIEW SPECIAL”として『風の歌を聴け』 村上春樹VS大森一樹」が掲載されていました。
「── まず映画をご覧になった感想を村上春樹さんの方から……。
村上:観ていてやっぱり緊張しちゃうのね。人の映画だと、全然関係なく感想をバリバリ言えるんだけれども、自分の原作だと客観的になれない部分がすごくあるんですよね。だからうまく感想は言いにくいんだけど、感いしはすごく良かったと思う。というのは役者の人がね、僕が思っていたよりずっと良かった。すごく素直というか。
大森:役者も、キャスティングしている時は、自分でもいいな思て決めるでしょ。試写会で原作者と会って、あっと思った。ひょっとしたら全然違うかったんちゃうかなと。そこで初めて原作者のこと思い出した。
村上:割に頭の中で観念的に書いちゃう方だから、顔ってのは肉付けが全く出来てないんですよね。だからセリフなんかも、あれは普通ナマの人の話すセリフじゃないのね。それがナマで出てくるからね、ヤバいなあと思って……。
大森:一カ所字幕にしちゃった(笑)。
村上:全部字幕にしちゃった方がいいんですよ。英語かなんか喋らせてね。僕は日本語の小説というのはほぼ読んでない人だから、どうしても翻訳の言葉になっちゃうのね。だから映画にしにくかったんじゃないかなという気がすごくする。…」

この雑誌は昭和56年12月10日号ですから、映画「風の歌を聴け」が封切りされる時に合わせて記事にされた、とおもいます。映画の評価は今一歩だったようです。

左上の写真は「Hot・Dog PRESS」の昭和56年(1981)12月10日号です。25年前のファッションがよく分かります。

「芦屋会館跡」
芦屋会館>
村上春樹と大森一樹は共に芦屋市の出身で、当時大森一樹はまだ芦屋に住んでいました。対談は「風の歌を聴け」の映画の話が中心だったはずなのですが、すぐに芦屋の話に移ってしまいます。当然ですね。
「…村上:ラジオばっかり聴いてた。ラジオ関西。昔はラジオ神戸って
……神戸放送だったかな。
大森:白藤丈二とか。
村上:それはずいぶん後じゃない。──電リク≠ナしょう? マリア・リグレスティとか。
大森:そうそう、いた。マリア・リグレスティ!
村上:何かローカルな話題だなあ(笑)。でもね、ああいう放送局って珍しいですよね。非常に家庭的な雰囲気で。神戸自体が、あの放送局中心に動いてた(笑)。小さい街だから。リクエスト聴いてると、必ず知り合いの名前が一人ぐらい出てくるのね。東京だとそういうことないでしょ、あまり。
大森:結構時代も良かったんやろね。知った奴の名前が出てくるなんてもうなくなってますよ。
村上:芦屋の映画館があったでしょ。
大森:芦屋会館! 出た!
村上:あれ、なくなったでしょう。きったない映画館でね。
大森:行ったことあります?
村上:ジェームズ・ポンドの3本立観たことある。あれの出来た趣旨って知ってますか。芦屋って娯楽設備が何もないでしょう。映画館がひとつだけあって、すごい疑問だったのね。で調べたら、あれはお手伝いさんがわざわざ神戸まで虻なくても映画観られるように作ったんだよ。もともと芦屋市民が観に行くために作ったんではないという、随分ひどい発想ですね。映画はよく観たんでしょ、小さい頃から。…」

まず”ラジオ関西の電リク”ですが、電話で好きな曲をリクエストする訳です。曲名と同時にコメント(誰に送るとか!)もお願いします。すると、ラジオでリクエストした人の名とコメントを放送してくれます(リクエストが多くてなかなか放送してくれなかったそうです!)。神戸では若者の人気が高かったそうです。当時のラジオ番組欄 を掲載しておきます。次に、ここに書かれている「芦屋会館」は芦屋市で唯一の映画館でした。昭和45年(1970)に閉館していますから、青春時代真っ只中の二人にとっては”ぴったりの映画館?”だったわけです。

左上の写真のビルの所に「芦屋会館」がありました。芦屋市発行の「芦屋の今むかし」という本に、この「芦屋会館」の写真と説明が書かれていました。「茶屋之町にあった映画館。戦後の昭和25年、市内に娯楽施設がなく、愛市会と近隣商店街の協力で4月15日実現した。26年、「細雪」上映のときは、一日に3,000人もの入場者があり、長い行列をつくった。昭和27年株式会社となったが、社会情勢の変化につれて34年ごろから経営難となり、入場者も最低となり、昭和45年11月30日、かって「アシカン」として親しまれた芦屋唯一の映画館は人々に惜しまれながら閉館した」。当時の「芦屋会館」 の写真を掲載しておきます(「芦屋の今むかし」より)。


村上春樹 芦屋地図


村上春樹の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 村上春樹の足跡
昭和54年 1979 イラン革命
NECがパソコンPC8001を発表
30 「風の歌を聴け」 (『群像』6月号)
5月 第22回群像新人文学賞を受賞
昭和55年 1980 光州事件
山口百恵引退
31 「1973年のピンボール」 (『群像』3月号)
昭和56年 1981 チャールズ皇太子とダイアナが婚約
向田邦子航空機事故で死去
横溝正史死去
32 千葉県船橋市に転居
12月 「風の歌を聴け」が映画化
昭和57年 1982 フォークランド紛争 33 「羊をめぐる冒険」 (『群像』8月号)



「朝日会館」
朝日会館>
 朝日新聞の関連会社朝日ビルディングが所有する建物です。映画館としてはもったいないかもしれません。
「…大森:うん。朝日会館が好きでね。建物がいいんですよ。ピルの中に探偵社なんてのがあるんですよ。…」

朝日会館は新しいビルに建て直されていますが、外観は昔の朝日会館のイメージを引き継いでいます。昭和45年1月発行の「神戸青春街図(プレイガイドジャーナル)」によると洋画系のロードショー館で学生800円と書かれています。

左の写真が現在の朝日会館です。昔の朝日会館は昭和9年(1934)に建築家・渡辺節により設計された「神戸証券取引所」を戦後、映画館「神戸朝日会館」として再生したものです。ですから当時の建物は映画館というよりは証券取引所のイメージが強い建物になっています。

「ミント神戸」
新聞会館>
 三宮駅前の神戸新聞会館のビルにも映画館がありました。良く覚えていますね。
「…村上:「風……」の中でプレスリーの映画を観に行った話があるでしょう。あれは僕が、スカイシネマに行って「ガールズ・ガールズ・ガールズ」を観たの。下にレストランがあって、そこでビーフカツを食べるのが好きだったのね。…」
上記に書かれている「スカイシネマ」は三宮駅前の神戸新聞会館7Fにあった映画館です。残念ながら新聞会館は地震で倒れ、現在はミント神戸という新しいビルになっています。”「ビーフカツ」が食べられた下のレストラン”は三階の会館パーラーか、地下の秀味街のことかなとおもいます。ついでに、「Girls! Girls! Girls!」ですが、ブレスリーの主演映画で制作は昭和37年(1962)で、日本公開は翌年の昭和38年です。昭和45年1月発行の「神戸青春街図(プレイガイドジャーナル)」によると洋画系のロードショー館で学生850円と書かれています。

左上の写真中央が現在の「ミント神戸」です。左側が三宮駅南側になります。

「大洋劇場跡」
大洋劇場>
 まだまだ、神戸の映画館の話題は終わりません。二人は本当に良く映画を見に行ったのでしょう。
「…大森:センター街の中に太陽劇場ってあったでしょ。あそこは好きでね。要するに外人対象でやってんだね。だからすごいクラシックな音楽がかかってんのね。
村上:まだあるのかね。
大森:いや、つぶれた。パチンコ屋になってしまった。パチンコ屋”太陽劇場”って名前で(笑)。わけわかんない。 …」

ここで、すこし笑ってしまいました。「太陽劇場」ではなくて「大洋劇場」なのです。校正はどうしたのでしょう。編集者は神戸の映画館のことは分からないはずですから、村上春樹か、大森一樹がチェックしなければいけません。

右上の写真の少し先、右側に大洋劇場がありました。現在はセンタープラザ東館となり、大洋劇場はパチンコタイヨウになってしまっています。

「ビック映劇跡」
ビック映劇>
三宮駅から少し南に下った、住宅公団のビルの地下にありました。阪神間では有名な映画館だったようです。
「…村上:あと、ビック映劇というのがあった。
大森:ゴダールなんか観たのあそこですからね。「軽蔑」なんか。… 」

映画好きの人にはたまらない映画館で、神戸の映画館というと、必ず話題になるようです。昭和45年1月発行の「神戸青春街図(プレイガイドジャーナル)」によると学生280円と書かれています。

左の写真の正面がビック映劇場跡です。現在は映画館跡をそのまま使って「TAO」という中華料理屋さんになっています。日本住宅公団三宮(2)ビルの地下を映画館にしていたようです。

「阪急会館跡」
阪急会館>
 地震の前まで阪急三宮駅ビルの上に複数の映画館がありました。
「…村上:あの、ATGもまだ神戸でやってんの?
大森:阪急文化ね、あれATGじゃなくなった。
── 時々やりますけど、一応系列からは外れてるんです。
村上:あそこでね、「パサジェルカ」を観たんだよね。
大森:あそこ良かったですよね。エレベーターで上っていって、途中に阪急会館、阪急シネマがあるの。
村上:何か、映画とラジオ関西しかないみたいだね(笑)。
大森:神戸の映画館いうたら、一館一館おぼえてるもんね。
村上:大阪の映画館ってそういうのがないのね、思い入れがね。
大森:「007」だと阪急会館とかね。ディズニーでしょ、朝日会館は。小学校6年か、もっと前やったかな「世界残酷物語」を阪急会館で、面白くも何ともなくて、下見たら電車が走ってくのが見えるのね。電車ばっかり見とった。
村上:あれ、音すんのね。電車が通ると、ガタガタと。 …」

地震でビルが壊れ、阪急神戸線の復旧を最優先にしたため、駅上のビルをやむを得ず取り壊したようです。現在もそのままなので少しもったいないような気がします。阪急神戸線の高架下にあった映画館(三宮映画館、OS三宮劇場)は、そのまま存続できましたが、現在は無くなっています。昭和45年1月発行の「神戸青春街図(プレイガイドジャーナル)」によると、阪急会館が洋画のロードショー館で学生850円、阪急文化が名画一本立で200円均一、阪急シネマが洋画のロードショー館で学生850円と書かれています。

右上の写真が現在の阪急三宮駅です。今は二階建てですが、昭和11年(1936)に阿部美樹志の設計ならびに竹中工務店の施工により建てられた鉄骨鉄筋コンクリート、五階建てのビルでした。当時の写真 を掲載しておきます。中に三つの映画館(阪急シネマ(三宮東宝)・阪急会館・阪急文化)があり、かなり楽しめたビルだったようです。


「映画をめぐる冒険」
元映>  2008年1月7日 「元映」を追加
神戸の映画館については、川本三郎と村上春樹の共著「映画をめぐる冒険」にも冒頭にも少し書かれていました。
「元映跡」
「…中学校の二、三年になると友だちと一緒に、あるいは一人で映画館に通うよぅになった。そして高校に入ると女の子と映画館でデートをするようにもなった。これは僕の中学校の後輩である映画青年、大森一樹とぴたりと意見のあうところなのだが、当時の神戸には(ビック映劇)(大洋劇場)(元映)といったなかなか感じの良い二番館が揃っていて、学校の帰りによくそんな映画館に寄っては安い料金で二本立を観て時間をつぶしたものである。だから六〇年代の映画もマメに観ている。しかしこの頃観て気に入った映画をあげていくとキリがないので割愛。ただしブレーク・エドワーズの『銃口』とジョン・プアマンの『ポイント・ブランク』とジョン・ギラーミンの『野良犬の罠』の三本は、もう一度観たいので、できることなら是非ビデオ化してほしいと思う。… 」
上記に書かれている「ビック映劇」、「大洋劇場」についてはすでに説明されていますので、最後に残った「元映」について説明したいとおもいます。「元映」は三宮というよりは、名前の通りJR元町駅近くの元町通りにありました。昭和45年1月発行の「神戸青春街図(プレイガイドジャーナル)」によると洋画三本立で学生400円と書かれています。

右の写真の正面ビルが元映跡です。ビルは建て直されて雑居ビルになっていました(昔の映画館のイメージが残っていました)。昔は一階が「元町東映会館」、二階が「元映(元町映画劇場)」でした。一階の「元町東映会館」は、東映の封切り映画で、ヤクザ映画などを上映していたとおもいます。二階の「元映」が洋画の二番館となっていたわけです。

村上春樹 神戸地図